これが民意なのか? その4
新たなる政治言説空間へ②
民主主義2.0の方へ
――東浩紀『一般意志2.0』を読む
■長篇評論(政治哲学・情報科学・現代思想)。
■2017年11月15日読了。
■採点 ★★★☆☆
1 ツイッター
ツイッターというソーシャル・ネットワーク・サービスがある*。従来からツイッターの社会に与える影響の大きさについては賛否両論あり、多くの機会に論じられてきた。
*今流行りなのは写真にコメントをつける形式のインスタグラムなのだが※、残念ながらわたしの持っている旧式のスマートフォン、あるいはタブレット・コンピュウタにはインストールできないので実地の検証ができていない。
※街を行く多くの若者たちは「インスタ映え」、すなわちインスタグラムでの写真の映り具合を気にする。
例えば、最近で言えば神奈川県座間市で発生し9人もの被害者を出した連続殺人事件*は、そもそもツイッターの「自殺希望」の検索で被疑者と被害者がいとも簡単に接触して、今回の一連の事件へと繋がったという。この事件に関しては別に論ずる必要があろうかとも思うが、ツイッターに限らずインターネットを介しての犯罪の発生については既に多く論じられてきていることである。この件を受けて、政府、ならびにツイッター本社は何らかの規制に入ると報じられている。
*2017年10月31日発見。
しかしながら逆にいうと、ツイッターがそれほどまでに影響力があるということの証左でもある*。
*ただ、今回の事件に限らず、マイナスの側面について、どれくらいツイッターやインターネット上のサイトに責任を帰してよいのか、という点についてはいささか疑問ではある。
プラスの側面については、よく論じられることではあるがアラブの春*におけるツイッターの果たした役割が特筆される。これについても詳細な分析が必要ではあろうが、WEBニュースサイト「AFP」によれば、アメリカ合衆国・ジョージタウン大学(Georgetown University)のコミュニケーション学教授でアラブ研究者のアデル・イスカンダル(Adel Iskandar)は、ツイッターが「物事を加速させた」としている。「(本来なら)これらの抗議運動が起きるまでには、6~7年掛かったかもしれない。だが数日のうちに、数千キロメートル離れた人々も、何が起きているのかを知ることができた」というのだ**。
*アラブの春(アラブのはる、英語: Arab Spring)とは、2010年から2012年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府デモを主とした騒乱の総称である。2010年12月18日に始まったチュニジアのジャスミン革命から、アラブ世界に波及した。また、現政権に対する抗議・デモ活動はその他の地域にも広がりを見せており、アラブの春の事象の一部に含む場合がある。各国におけるデモは2013年に入っても続いた。なお、“Arab Spring”という言葉自体は2005年前後から一部で使用されていたものである。(wikipedia/2017年11月17日引用)
**「ツイッター、ますます高まるその影響力」/『AFP』2013年11月4日 19:45。
以上のようなことを正確に踏まえたうえで、功罪合わせて捉え直さねばならない。
というのも、先に行われた第48回衆議院議員総選挙の過程で、このツイッターなるものの重大性をわたしのなかでは再認識をしたからだ*。
*それは遅過ぎると言われるかもしれぬが、まーそいうものである。
いままでインターネットを介しての情報の発信についてはホウムペイジあるいはブログで充分だと考えてきた。なぜならば比較的長めの文章を発表することが多く、したがってツイッターについては140字という字数制限もあって、自分のブログの告知用にしか使用してこなかった。
つまりはツイッターを使う意味を全く認識できていなかったことになる。
ところが先に述べたように総選挙に際して、民進党の自爆的解体に伴う枝野新党の立ち上げに、たまたま関心を持ち、一文*を草した関係もあり、彼らの動きをホウムペイジからフェイスブックからツイッターまで全部登録をして注視してみた。その結果分かったことは、ツイッターには絶大なる起爆力がある、ということである**。
以上のような次第で、わたしは多分、ツイッター、あるいはそれにまつわる現象については全く理解していないに等しいのだと思うが、まず以て、報じられているように立憲民主党のツイッターのフォロワー(登録者)が与党・自由民主党のそれを越えてしまったことだ*。それも短時日の期間にだ。しかしそれはいい。おそらくは日本人ならでは判官びいきの故であろうから、ツイッターそのものとは一旦は関係ない。
*各政党のツイッターのフォロワー数 (2017年11月21日調査)。
政党名(結党年)
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ツイッターのフォロワー数
|
党首
|
衆議院議員数
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参議院議員数
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合計数
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自由民主党 (1955 - )
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135233名
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安倍晋三
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284
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123
|
407
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民進党 (1996 - )
|
27632名
|
大塚耕平
|
14
|
46
|
60
|
立憲民主党 (2017 - )
|
188661名
|
枝野幸男
|
55
|
1
|
56
|
公明党 (1998 - )
|
76889名 山口那津男
|
29
|
25
|
54
|
希望の党 (2017 - )
|
13519名 玉木雄一郎
|
51
|
3
|
54
|
日本共産党 (1922 - )
|
42924名
|
志位和夫
|
12
|
14
|
26
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日本維新の会 (2015 - )
|
16224名
|
松井一郎
|
11
|
11
|
22
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自由党 (2012 - )
|
29667名
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小沢一郎・山本太郎
|
2
|
4
|
6
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社会民主党 (1945 - )
|
24609名
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吉田忠智
|
2
|
2
|
4
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日本のこころ (2014 - )
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43178名 中野正志
|
0
|
1
|
1
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沖縄社会大衆党 (1950 - )
|
ない? 大城一馬
|
0
|
1
|
1
|
問題はツイッターそのものの特性にある。 ツイッターは140字という制限があるがゆえに、かえって著しく機動性に優れている。利用者は単に個人だけで投稿しても、実際なにも起こらない。しかし興味が持てる特定の個人やテーマや団体などをフォローすることができる。するとそのフォローしている対象だけではなく、そこに書き込みをした人の投稿も表示されるようになる。それに返信が返ってくることもある。さらに何らかの文書をわざわざ投稿しなくても、お気に入りやリツイート(転送)などのボタンをただ押すだけでよい。表示されているものは次第に混乱の極みに近づいていくが、ある一定の時間の幅での井戸端会議のようになっていく。
わたしは、インターネット上における他の同様のシステムを知らなさすぎるが、明らかにレスポンスが早いと感じられる。
要するにとてもハードルが低いのである。 多様な意見、感想、批判、お気に入りなどが同時多発的に次々と書き込まれていく。
これはいかなる事態であろうか?
いったい何を意味しているのであろうか?
2 ルソーの「一般意志」
さて、問題は「民意」であった。
前回までの復習をすれば、現行の選挙制度は必ずしも民意を正確には表していない(その1)。
そもそも主権者である国民は政治の実態である行政権に関与出来ないということが問題なのだと論じた。 したがって我々国民が行政権に公式な形で関与できるシステムが構築されればよいということになる(その3)。
そこでルソーが登場する。 厳密にいうと21世紀に生きる日本の思想家・東浩紀の視点からのジャン・ジャック・ルソーが登場する。
ルソーは多彩な活躍をした思想家、小説家、音楽家であるが、現在では一般的にはフランス革命を準備した啓蒙思想家の一人として知られている。その主著『人間不平等起源論』*ならびに『社会契約論』**については日本では中学生以上であれば恐らく知らぬものがないほどの認知度であろうと思うが、その実際についてどれくらい知られているのかというと、とたんに怪しくなると思われる。
*ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』1754年。
**ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』1762年。
例えば、ルソーの研究、翻訳で知られるフランス文学者・平岡昇は「ルソーについて(中略)わけのわからんやつだという謎ですね。(中略) ルソーには論理では追いきれない、何かもやもやしたものがあって……。」*と述べているぐらいだ。
*安岡章太郎・平岡昇 (対談)「ルソーの人間性」/『世界の名著30――ルソー』付録・1966年・中央公論社。
ルソーの様々な活動や言動の矛盾、といったものが現代の読者の理解を妨げるのかも知れぬが、それは一旦は本稿の主題ではない。
さて、その啓蒙思想家たるルソーの主著が『社会契約論』であるが、その根本概念は「一般意志」にある。ではその「一般意志」とは何か。
この「一般意志」に似た概念として「全体意志」というものがある。これは直訳すれば「みんなの意志」ということになる。したがって前者は、俗に言う「民意」で、後者は「世論」に比定することができるかもしれない。後者の「全体意志」=「世論」はともかくとして、しかしながら前者についてはいささか正鵠を射ていない。
ルソーはこれらの概念を奇妙な比喩、数理的な表現を使って説明しようとしている。 「全体意志は個別意志を集めたものである。ルソーはそれを、全体意志は特殊意志の「総和=合計somme」だと定義する。」*と東は述べたうえで、ルソー自身の言葉を引く。
*東・2011・43頁。
しかし、これらの [全体意志を構成する] 特殊意志から、相殺しあうプラスとマイナスを取り除くと[フランス語原文省略]、差異の和が残るが、それが一般意志なのである。(ルソー『社会契約論』第二編第三章/東・2011・43頁)
これはいささか難解だ。東は、方向性を持たない「スカラー」(体積や重さなど)と方向性を持つ「ベクトル」(速度や加速度など)を援用して、「全体意志」を前者に、「特殊意志」を後者に比定したうえで、その特殊意志の様々な「差異」をお互いに打ち消しあっても残る「和」こそが「一般意志」なのだ、と説明している。
この「差異の和」という概念については、正直分かったとは言えないが、どこか心に残る魅力的な概念のように思える。
「しかしここで重要なのは(中略)ルソーが一般意志を数理的に算出可能なものだと信じていたという、その事実である。」*つまりは「一般意志」は数量的に扱うことが可能だということである。さて、ここに解の一つがあるのだ。
*東・2011・45頁。
さらに重要なことがある。「部分的結社の禁止」である。 前提から確認すれば、「ルソーはじつは、ジュネーヴのような小さな都市国家での直接民主主義を理想とし、代議制を必要悪だと考えた思想家だった。つまり (中略) 選挙を介した間接民主主義をまったく認めない思想家だった。」*という。
*東・2011・51頁。ルソー自身の言葉によれば以下のようになる。「主権は代表され[フランス語原文省略]えない。それは主権が譲りわたされ[=疎外され・フランス語原文省略]えないことと同じ理由による。[……]したがって、人民の代議士はその代表者ではありえない。彼らは委託業者にすぎない。」(ルソー『社会契約論』第二編第三章/東・2011・51頁~52頁)
このように考えてくれば確かにルソーが「部分的結社の禁止」を唱えたのも理解できなくもないが、それは彼が置かれた地理的、時代的制約によるのであろうか。
いや、そうではない。もう一度、ルソーが「部分的結社の禁止」について述べている箇所を点検してみよう。
もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケーションも取らないのであれば[フランス語原文省略]、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はつねによいものとなるであろう。[……]/一般意志がよく表明されるためには、国家の中に部分的社会が存在せず、また各市民が自分だけに従って意見を述べることが重要なのである。(ルソー『社会契約論』第二編第三章/東・2011・53頁)
以上の論点をまとめてみると、ルソーが想定している「一般意志」とは以下のようになる。
①人民の個々の意志、すなわち特殊意志の「差異の和」である。
②数理的な処理が可能である。
③人民の間では部分的社会も認めず、いかなるコミュ二ケーションもとらない。
これがルソーの言うところの「一般意志」なのである。すなわち、「さまざまな意志がたがいに差異を抱えたまま公共の場に現れることによって、一気に成立する」*ものなのだ。
*下線部傍点・東・2011・55頁。
恐らくこれを現実的に可能にすることはルソーが生きていた18世紀では物理的に困難であったろう。
しかし先程の一般意志の条件をよくよく読んでみると、われわれはあることに気づくことになる。結局のところ、それはインターネットを介した現代の情報社会のことではないか、と。
例えば冒頭に例示したツイッターがその一端である。ただそれはあくまでもその一端にすぎない。
さて、「一般意志」とされるフランス語であるが、東によれば、それは誤訳ではないにしても、若干ニュアンスが強すぎるという。「一般欲求」あるいは「均ならされたみんなの望み」ぐらいが妥当だという*。
*東・2011・69頁。
3 総記録社会
ではそのような「平均的なみんなの望み」はどこにあるのか。
無論、インターネットを介した巨大な、あるいは無数のコンピュウタ上にある。人々はさまざまな欲求、欲望を言論の形でも残すかもしれないが、それよりも言葉にならない形でネット上に残していく。買い物をしたときに、交通機関を使用したときに、スマートフォンで何らかのもの・ことを検索したときに、無論、そのなかにはブログや写真日記のかたちで克明に自らの人生の軌跡をネット上に残していくのだ。つまり、いまや世界は「総記録社会」*になりつつあるわけだ。「来るべき総記録社会は、社会の成員の欲望の履歴を、本人の意識的で能動的な意志表明とは無関係に、そして組織的に、蓄積し利用可能な状態に変える社会である。」**
*東・2011・85頁。
**東・2011・87頁。
とすると、政治は、政府、民主主義は一体どうなるのか?
わたし自身の個人的な感想、というか感覚で言うのであれば、そもそも一般の民衆が政治についてあれこれ言わねばならない事態というのは、それは政治そのものが機能不全を起こしていることを意味する。政府、政治は可能な限り小さい方が望ましい。 その意味でも、恐らく未来の政治、政府は国民を上から統治するものではなく、「多様な市民生活や企業活動を支援する、検索サービスやソーシャルメディアのような「プラットフォーム」になる」*だろう。
*東・2011・102頁。
これこそが「政府2.0」、あるいは「民主主義2.0」の姿である。
4 民主主義2.0の方へ
ここで、前稿(その3)の内容を振り返ってみよう。『来るべき民主主義』において國分浩一郎は国民が政治に関与する機会が選挙を通じて立法権にしか関与できないことを指摘して、行政権に介入していくべきだとした。そして住民投票などのいくつかの具体的な案を列記したうえで、しかしながら、國分は「根本から変えることなどというのは実に難しい」*と述べていた。しかし、本当にそうなのか、と問いかけて、本稿に接続したのだった。
*國分功一郎『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』2013年9月30日・幻冬舎新書・143ページ。
「来るべき民主主義」つまり「未来の民主主義」、東の言葉を使えば「民主主義2.0」は、もし変わるのであれば一挙に、根底からそれへと変わるのであろう。まったく我々の予想外のとき、場所、きっかけで突如として変わるのだと思う。
しかしながら、問題は、もし変わらなかったらどうなるのか。それまで漫然とときが来るのを待つのか。 いや、そんなわけにはいくまい。われわれはさらに具体的な方途を求めて、可能なところから何らかの意志の発信を続けていくべきだろう。
次回、ありうべき政体の可能性を求めて思想家・柄谷行人の「イソノミア」論を紹介しつつ、柄谷自身が主導した政治運動「NAM」についても再考察を加える。
■7348字(400字詰め原稿用紙換算18枚)
■ 2017年11月15日 01:44ー11月24日00:07
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