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2021年1月19日火曜日

人間の労働 そのⅨ  ㊤   「労働」なる沃野を奪還せしめよ   斎藤幸平『カール・マルクス『資本論』』を読む

  



人間の労働 そのⅨ ㊤

  「労働」なる沃野を奪還せしめよ


斎藤幸平『カール・マルクス『資本論』』を読む



「人間の類的本質は労働である」 ――カール・マルクス『経済学・哲学草稿』 (1844年/的場昭弘『超訳『資本論』』2008年・祥伝社新書・p.55より援引)  




■斎藤幸平『カール・マルクス『資本論』』
2021年1月1日・100分de名著(NHK出版)。
■テキスト(哲学・現代思想・経済学・現代社会)。
■2021年1月12日読了。
■採点 ★★★☆☆。

 


  日本人初、史上最年少でマルクス研究を対象とする「ドイッチャー記念賞」を28歳にして受賞した『大洪水の前に』(2019年・堀之内出版)で注目を集め、『人新世ひとしんせいの「資本論」』(2020年・集英社新書)で洛陽の紙価を高らしめた俊英の最新作である。
 本書は、現在NHK、Eテレにて放映中(2021年1月期)の『100分de名著』の『カール・マルクス『資本論』』のテキストブックではあるが、放送には盛り込めなかった様々な知見や論述が展開されている。小著ながら簡にして要を得た佳品だと云える。
 現代社会においてマルクスを再読する意味は那辺にあるのか?
 恐らくそれは難解な議論に終始することではなく、まさに我々が日常的に直面している「働くこと」、「生きること」の意味と富を実践的な地平で取り戻すことにある。
 そのために、筆者は、マルクスの『資本論』(など)が抱え持つ広範な思想から次の4点を抽出して見せた。
①富と商品の問題……本来、われわれが自然に、あるいは自然から持ちえた様々な「富」は、資本制社会ではほとんど全てが「商品」に成り代わり、却ってわれわれの社会は貧しくなっている(本書p.20)。つまり、われわれは元々多くの「富」を持ち得ていたのだ。労働そのものも実はここで言う「富」の一つだ。
②労働に関わる問題……「労働力は、人間が持っている能力で、本来は「富」の一つです。」「ところが、資本主義は、この労働力という「富」を「商品」に閉じ込めてしまう。」「こうして、生きるために働いていたはずが、働くために生きているかのように本末が転倒していきます。」(本書p.52・下線部ゴシック)
③構想と実行の分離の問題……では、なぜこのような事態に立ち至るのか?   筆者はここでマルクス本人の術語ではないが、ハリー・ブレイヴァマンの「構想と実行の分離」という論点*を挙げ説明する(本書p.79)。なぜ、われわれの労働が本来持ちえた「富」を喪い、詰まらなく、憂鬱なものになりうるのか。あるいは果ては自死すらをも厭わないほど人をして追い詰めるのか? 要は資本制が効率化のために徹底的に労働の分業化を進め、そこにはもう労働の意味が枯れ果てているからだ。構想、つまり考えるのは資本家の仕事。実行、つまり断片的な単純な労働、誰でもできる労働、いつでも別の労働者と交換可能な労働をするのは、もはや機械と働きは同じになり下がった労働者である。

*ハリー・ブレイヴァマン『労働と独占資本』1974年/1978年・岩波書店。

マルクスは次のように述べている。

機械労働は、神経系統を極度に疲弊させる一方、筋肉の多面的な働きを抑圧し、心身の一切の自由な活動を封じてしまう。労働の緩和でさえも責め苦の手段となる。なぜなら、機械は労働者を労働から解放するのではなく、労働を内容から解放するからである。(445~446)/(本書p.87から援引・下線部評者)

 つまり機械的労働は「無内容な労働を強いる」ことになる。「内容がないということは、自らの手で何かを生み出す喜びも、やりがいや達成感、充実感もない、要するに疎外されているということ」だ(本書p.88・下線部ゴシック)

④地球環境問題……云うまでもなく『資本論』は未完の大著であり、とりわけ第2巻、第3巻は盟友エンゲルスの編輯によって成立したものだ。最近の国際的研究プロジェクト『マルクス・エンゲルス全集』(MEGA)によれば、晩年のマルクスの新たな地平が明らかにされている。例えば地質学や農芸化学などの自然科学の領域にもマルクスの視野は拡大されていたという。それは言うなれば地球という環境、有限性を持った環境との人類の共存への問いかけを含むものだ。
 これは単に労働だけの問題ではなくやがては絶滅するであろう人類が併存する、あるいは後続するであろう生物種へいかにして地球をあけわたすかという問題をも問いかけている。
 言うなればもはや(経済)「成長」は要らない、ということを人類全体の意志としていかに持ちうるかということであろう。
 この最後の論点については未読である、筆者の『人新世の「資本論」』に詳らかであろう故、そちらを読了後、再度論ずることとする。
 先行するカンタン・メイヤスーの『有限性のあとで』(2006年/千葉雅也他訳・2016年・人文書院)や見田宗介『現代社会の理論』(1996年・岩波新書)、あるいは先年物故された文芸評論家の加藤典洋の『人類が永遠に続くのではないとしたら』(2014年・新潮社)などの論著とどのように反響しあうのか興味深いことである。

 したがって、当面われわれ市井の市民、労働者が奪還すべきは労働という富であろう。
 「人間の労働という豊かな「富」を回復するためにマルクスが目指したのは、構想と実行の分離を乗り越えて、労働における自立性を取り戻すこと。過酷な労働から解放されるだけでなく、やりがいのある、豊かで魅力的な労働を実現することです。」(本書p.95・下線部ゴシック)という点に尽きるかと思う。


☞㊦に続く。

🐧
2021/01/19 12:51








2017年10月3日火曜日

苦の倫理学 そのⅥ 稲垣えみ子『魂の退社――会社を辞めるということ』を読む

 
苦の倫理学 そのⅥ 

稲垣えみ子『魂の退社――会社を辞めるということ』を読む 


■稲垣えみ子『魂の退社――会社を辞めるということ』2016年6月23日・東洋経済新報社。 
■長篇エッセイ(生き方、ビジネス)。 
■2017年9月29日読了。 
■採点★★★☆☆。  


 某巨大通信販売サイトのカスタマーレヴュウによれば、本書に対する評価のほとんど批難囂囂なのだが、個人的にはとても面白かった。 

 要するに、筆者の場合、相当有利な(と考えられる)立場から退職した上で、日本の会社社会を批判しているが、多くの一般の人々からするとそれは贅沢な状況からの発言と読めてしまうのも事実である。 

 本書帯には「50歳、夫なし、子なし、そして無職……」とあるが、年齢のことはさておき、家族の有無というのは重大な分岐点となるのは言うまでもない。家族がいたらおいそれと退職できないからだ。むしろ家族がいるが故に、嫌な仕事も已む無くしているようなものだ。 
 そもそも筆者は退職時に天下の朝日新聞の編集委員であり、なおかつその顔写真付きの「節電コラム」で一世を風靡した上での、満を持して(?)の退職ではないか。早期退職の退職金もあっただろうし、恐らく原稿の依頼も引きも切らない状況だろうと推測される。本書もベストセラーだったろう 

*実数は不明だが刊行の約1年後には某巨大新古書チェイン店の200円の棚に本書が10冊ぐらい並べてあった。稲垣さん、すいません、わたしもそれで買いました。 
 全くの余談だが、刊行後10年とか20年という期限を設けて、古書店での販売も幾ばくかの印税が著者の元に入るようにならないだろうか。 

 したがって、そのような状況からすると、いささかならず、説得力が薄いと言わざるを得ない。 
 しかしながら、筆者の主張、会社とお金に頼って生きるのはもう止めよう、ということにいついては十分首肯できる。筆者がそのような考えに至ったこともそれなりに理解できる。 
 要は本当に人間にとって大切なことは何か、それをもっと考えようということに尽きる。 
  
 問題は如何にしてそれを実行に移すか、ということだ。 

 例えば、仮に、わたしを例に取ってみると、ほぼ絶望的になる。年齢的な制約もさることながら、なんの準備もなく退職しても、家族5人を食べさせていくことはほぼ不可能だ。なおかつ娘たち3人の学費が馬鹿にならない。要するに貧乏人は結婚するな、子供を作るな、大学には行かせるな、ということなのかと、人生の半路に至ってはじめて知る、という世間知らずぶりだからいけないのか。 
  
 無論、このような事態に立ち至るのはわたしのような少数派であろう。 


 そもそも、稲垣が過剰とも思える節電を始めたきっかけは東日本大震災時の福島原発の大規模な事故だったという。会社に頼らない、お金に頼らない、という発想は人類が無限に発展をし続けるというヴィジョンに大きな疑問符を突きつけることに他ならない。 

 人類が、或いは人類が持ちうる世界が、無限ではなく、実は有限なのだという認識を共有し、我々の社会、生活を根本のところから変換していく必要性を、本書は問いかけているのではないか。その意味でもネット上での袋叩きはとても残念である。 

*以下の書目を参照。 
①加藤典洋「カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』」/『日の沈む国から』2016年8月4日・岩波書店。 
②加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』2014年6月25日・新潮社。 
③カンタン・メイヤスー『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』2006年/千葉雅也他訳・2016年・人文書院。  

※今夏、突如として「偶然性」というテーマが脳裏に浮かびメモらしきものを書き散らした。その多くを大澤真幸の『現実の向こう』(2005年1月・春秋社)に負っていると思い込んでいたが、この註記にメイヤスーの書名を書き付けながら、これが脳底に沈んでいたのかと思い至った。 


20170929 22:38ー20171003 16:21 
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