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苦の倫理学 そのⅥ
稲垣えみ子『魂の退社――会社を辞めるということ』を読む
■稲垣えみ子『魂の退社――会社を辞めるということ』2016年6月23日・東洋経済新報社。
■長篇エッセイ(生き方、ビジネス)。
■2017年9月29日読了。
■採点★★★☆☆。
某巨大通信販売サイトのカスタマーレヴュウによれば、本書に対する評価のほとんど批難囂囂なのだが、個人的にはとても面白かった。
要するに、筆者の場合、相当有利な(と考えられる)立場から退職した上で、日本の会社社会を批判しているが、多くの一般の人々からするとそれは贅沢な状況からの発言と読めてしまうのも事実である。
本書帯には「50歳、夫なし、子なし、そして無職……」とあるが、年齢のことはさておき、家族の有無というのは重大な分岐点となるのは言うまでもない。家族がいたらおいそれと退職できないからだ。むしろ家族がいるが故に、嫌な仕事も已む無くしているようなものだ。
そもそも筆者は退職時に天下の朝日新聞の編集委員であり、なおかつその顔写真付きの「節電コラム」で一世を風靡した上での、満を持して(?)の退職ではないか。早期退職の退職金もあっただろうし、恐らく原稿の依頼も引きも切らない状況だろうと推測される。本書もベストセラーだったろう*。
*実数は不明だが刊行の約1年後には某巨大新古書チェイン店の200円の棚に本書が10冊ぐらい並べてあった。稲垣さん、すいません、わたしもそれで買いました。
全くの余談だが、刊行後10年とか20年という期限を設けて、古書店での販売も幾ばくかの印税が著者の元に入るようにならないだろうか。
したがって、そのような状況からすると、いささかならず、説得力が薄いと言わざるを得ない。
しかしながら、筆者の主張、会社とお金に頼って生きるのはもう止めよう、ということにいついては十分首肯できる。筆者がそのような考えに至ったこともそれなりに理解できる。
要は本当に人間にとって大切なことは何か、それをもっと考えようということに尽きる。
問題は如何にしてそれを実行に移すか、ということだ。
例えば、仮に、わたしを例に取ってみると、ほぼ絶望的になる。年齢的な制約もさることながら、なんの準備もなく退職しても、家族5人を食べさせていくことはほぼ不可能だ。なおかつ娘たち3人の学費が馬鹿にならない。要するに貧乏人は結婚するな、子供を作るな、大学には行かせるな、ということなのかと、人生の半路に至ってはじめて知る、という世間知らずぶりだからいけないのか。
無論、このような事態に立ち至るのはわたしのような少数派であろう。
そもそも、稲垣が過剰とも思える節電を始めたきっかけは東日本大震災時の福島原発の大規模な事故だったという。会社に頼らない、お金に頼らない、という発想は人類が無限に発展をし続けるというヴィジョンに大きな疑問符を突きつけることに他ならない。
人類が、或いは人類が持ちうる世界が、無限ではなく、実は有限なのだという認識*を共有し、我々の社会、生活を根本のところから変換していく必要性を、本書は問いかけているのではないか。その意味でもネット上での袋叩きはとても残念である。
*以下の書目を参照。
①加藤典洋「カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』」/『日の沈む国から』2016年8月4日・岩波書店。
②加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』2014年6月25日・新潮社。
③カンタン・メイヤスー『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』2006年/千葉雅也他訳・2016年・人文書院※。
※今夏、突如として「偶然性」というテーマが脳裏に浮かびメモらしきものを書き散らした。その多くを大澤真幸の『現実の向こう』(2005年1月・春秋社)に負っていると思い込んでいたが、この註記にメイヤスーの書名を書き付けながら、これが脳底に沈んでいたのかと思い至った。
20170929 22:38ー20171003 16:21
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