🏈大江健三郎――文学の運動🏈
その著作家の「徳(アレテー)」を伝える
大江健三郎『「話して考える」と「書いて考える」』
■大江健三郎『「話して考える(シンク・トーク)」と「書いて考える(シンク・ライト)」』2004年10月10日・集英社。
■講演集。
■目次
講演をまとめるに当たっての、前口上――言葉のエラボレーション
Ⅰ
・中野重治の美しさ
・佐多さんが「おもい」と書く時――『夏の栞―中野重治をおくる―』にそくして
Ⅱ
・子供の本を大人が読む、大人の本を子供と一緒に読む
・子供らに話したことを、もう一度―-エドワード・W・サイードの死の後で
・「夢を見る人」のタイムマシン
Ⅲ
・語る人、看護する人
・病気と死についての深い知識の向うにあるもの
・暗闇を見えるものとする―-精神医学の表現者の思い
Ⅳ
・タスマニア・ウルフは恐くない?
・あらためての「窮境」より―-教育基本法、憲法のこと
・教育基本法、憲法の「文体」―-さきの講演の補註として
■269頁。
■定価1,400円(税抜き)。
■2026年3月21日読了。
■採点 ★★★☆☆。
【要約】本稿は、大江健三郎の講演集の魅力を再確認したものである。特に中野重治論に注目し、大江が文学者の「徳(アレテー)」を読者に伝えようとする姿勢を評価した。講演は評論より平明で刺激的であり、紹介された作家への読書意欲を強くかき立てる。全体として、大江の批評は明確に言い切らないことで、むしろ各作家の「徳」を浮かび上がらせていると述べている。
【Summary】This article reaffirms the appeal of
Oe Kenzaburō’s lectures. Focusing especially on his discussion of Nakano
Shigeharu, it evaluates Oe’s effort to convey what he calls a writer’s “virtue
(aretē)” to readers. His lectures, more lucid and stimulating than his
criticism, inspire a strong desire to read the authors he introduces. Overall,
the article concludes that Oe’s criticism, by avoiding definitive statements,
instead illuminates the distinctive “virtue” of each writer.
目次
*注釈調査協力・挿画:Google Gemini
*校正:Google Gemini、Microsoft Copilot
*要約・英文翻訳協力:Microsoft Copilot
はじめに――はじめての大江健三郎
最初に読んだ大江健三郎の文章を思い起こす。
それは、高校の現代国語の教科書に掲載されていた、漱石の『こゝろ』*[1]について触れた「記憶して下さい、私はこんな風に生きてきたのです。」*[2]だったと思うが、今調べたら特定できなかったので、わたしの記憶違いかも知れない。その時は、なんて持って回った言い回しをする人だろうかと正直呆れた気がする。
その後、たまたま手に取った『読書と私』*[3]という小説家のエッセイを集めたアンソロジーが文春文庫から出ていた。当時好きだった北杜夫などが執筆していたから買ったのではないか。
そこに「作家の読書」*[4]というエッセイを大江が寄稿していた。大江はこの世で、最も美しい配色は何か、と言えば、それはヴァーミリオン・プルシャンブルーだとする。つまりそれらは赤と青のことなのだが、その二色の配色を持つ色鉛筆を使って、読書をしつつ、丹念に書き込みをするのだと、と書いていた、と記憶する。簡単に影響されるわたしは、大学に入ってほんの一瞬は、その大作家の真似をしたのだと思うが(実は全く記憶がない( ノД`)シクシク…)、学生時代以降、移動することの多かったわたしは、すぐさま、普通の赤ボールペンに離脱してしまったのだと思う*[5]。
それはともかく、そのエッセイについては、文章の分かりやすさも相まって、大江健三郎というのは、面白そうな作家だな、と思ったものの、しかしながら、実際に、彼の小説作品を読むに至るには、まだ、しばらく時間が必要とされたのである。
さて、本題に入ろう。
1 面白い講演集
大江健三郎の講演集である。とても面白かった。講演と評論、エッセイとは無論違うが、大江の評論、エッセイと言えば、正直、硬い、もっと言えば難解な印象があって、取っつきにくいと思う方も多いと思う。事実、それは印象ではなく、本当に難解なのだと思う。これには理由があると思うが、それについては項を改めたい。
本書でも、冒頭の、前書きに当たる「言葉のエラボレーション」*[6]や、最後にまとめられた(ということはいずれも作家本人にとってはとても重要なのだと思うが)、「教育基本法」や「日本国憲法」について論じられた二つの講演については、やはり、普通の読者にとっては難解に感じられたのではないかと思う(実はここが問題で、筆者にとっては重要だと思われることが、意外にも読者には伝わらないのだ)。
しかしながら、そこにサンドイッチのように挟み込まれた9編の、主として文学に関わる講演は、とても面白かった。ここで紹介されている中野重治、佐多稲子などは、正直に言えば、名前こそ知ってはいるが、まともに読んだことはないと言ってよい。反省することしきりである。
2 中野重治の魅力
今回、本書で、最も心が魅かれたのが、中野重治*[7]である。中野は日本共産党の幹部であったにも関わらず、「転向」したことにより、党と袂を分かった、左翼系の文学者だという朧げな知識しかわたしにはなかった。
ところが、大江は、その中野の全集を、新しい版が出る度に、旧版は手放したそうではあるが、刊行された3版*[8]とも買い揃えて、目を通していたというから驚きである*[9]。大江と言えば、外国の、それも欧米の著作家に影響されて、作家活動を開始し、それを長年の間継続していたと思っていたが、中野重治のよき読者であったというのである。
しかし、それは、わたしが、すっかり大江の過去の作品の内容を忘却していたことによる誤解なのであろう。
いずれにしても、この中野重治という、なんと言ったらいいのか、共産党という、或る意味で巨大な組織での活動を経て、自らの言葉を相当微妙な形でしか絞り出すことのできなかった――また、そのことこそが文学の言葉であろうとは思うのだが――そのような言葉や文章に対する感受性、感度といったものが、正当に、戦後日本文学の正統な嫡子であった大江にもそうした言葉に対する感受性が脈々と受け継がれているのだと感じ入った次第である。
3 大切なことの伝わらなさの意味
本講演は「中野重治の美しさ」と題号されている。どういうことか? 大江によれば、中野がしばしば使い、その作家を規定する言葉が「美しい」ということだという*[10]。そして、それは、「きれい」とは違うというのだ*[11]。
他の読者の方はどうか分からないが、少なくともわたしには、この件については、にわかには分からない。何がどう違うのか。その「美しい」ということが中野の作品を規定しているということが、どうにも分からない。
しかしながら、分からないのだが、大江の文章(講演だが)、中野の文の引用と、それを解釈する、というよりは、噛み砕く、いや、噛み締める、口に含んで、しばらく味わうというような読み取りの仕方で、漠然と、中野の良さ、端的に、ああ、中野を読んでみたい、味わってみたい、と思うことができるのだ。いや、これは、あるいは、わたしだけかも知れないので、極めて普遍性に欠く事例なのかも知れない。
4 その著作家の「徳」(アレテー)を伝える
同じようなことは、かつて、大江がNHK教育テレ‐ヴィジョンにて『文学再入門』*[12]なる公開講座を行ったことがあった。朧げなる記憶を辿ってみると、確か、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの『罪と罰』*[13]や、志賀直哉の『暗夜行路』*[14]、あるいはウィリアム・フォークナーの『野生の棕櫚』*[15]などが紹介されたが、個人の感想だが、いずれも、何か結論めいた読解が提示されたわけではなく、実作者である作家が、これはいい、と思う作品の、いいと思う箇所を紹介する、という内容ではなかったか。そこが、文学理論家や批評家とは違うところなのだが、彼の話を聞いているとそれを俄然読みたくなるのである。
言ってみれば、その作家の、あるいは、その作品の「徳」(古代ギリシャ語で言うところの「アレテー」ἀρετή*[16]である)とでも言うべきものを提示しているということではないか。そこにこそ小説家が文学作品を紹介する意味があるのである。「頭が良け」れば一言で言えてしまうことを、小説家は、――通常の意味では、「頭がいい」訳ではないので(失礼)、ああでもない、こうでもない、と言葉と物語を通して読者に伝えようとするのである。違うだろうか?
譬えとして適切かどうかは分からないが、塩は塩化ナトリウム(NaCl)だが、だからと言って、化学的に合成した塩化ナトリウムは美味いか、と言ったら、恐らく微妙だろう。塩辛さだけが舌について、恐らく、旨味のようなものはそこからは味わえないだろう。実際に海水を汲み上げ、干し上げた塩は、いろんな不純物が含有しているはずであるが、それこそが塩の旨味であるはずなのだ。すなわち塩とは何か、といった場合に「塩化ナトリウム」である、というのが正解であろう。しかし、そこには「旨味」はないはずなのだ。そこにこそ文学の意味があるというべきであろう。
こういう言い方は、あまり適切ではないのかも知れないが、大江の、優れたエッセイや評論は、しばしば、ある概念、イメージを伝えようとして明確な言葉になり切らないことがあると、わたしは考えている。無論、それは、大江に限らないのかも知れないが、優れた文学的な文章は、何かを伝えようとして、それが明確な言葉になり切らないものなのだ。逆に言えば、明確な言葉になり切らないが故に、それを説明しようとする、その過程というか、その全体像、説明しようとする、その全体像こそが、その概念なり、イメージを、何らかの形で投射しているのだと思う。
以上のような次第で、中野重治「軍楽」*[17]や『歌のわかれ』*[18]の他にも、佐多稲子の『夏の栞』*[19]や、著名な児童文学作品である、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』*[20]、あるいは、作家自身の優れた盟友でもあったエドワード・W・サイード、さらには晩年の作家に強い影響を与えたと思われるT・S・エリオットなど、とても強く関心を呼び起こされた。
ま、それにも関わらず、時間がない、という必殺の言い訳で、わたしも含めて我々現代人は日常生活へと逃避してしまうのであるが。全く困ったことである。
せめて、大江が紹介したすべての著作家を読むことはできないにしても、中野重治についてはぜひとも手に取ってみたいものである。
【主要参考文献】
ドストエフスキーミハイロヴィッチ フョードル. (1866年/2008年). 「罪と罰」全3巻. (亀山郁夫,
訳) 原著/光文社古典新訳文庫.
ピアス フィリパ. (1958年/1973年). 『トムは真夜中の庭で』(Tom's Midnight Garden). (高杉一郎, 訳) 原著(イギリス)/岩波少年文庫.
フォークナー ウィリアム. (1939年/2023年). The Wild Palms/『野生の棕櫚』. (加島祥造, 訳) Random House/中公文庫.
夏目漱石. (1914年). 『こゝろ』. 岩波書店.
河合隼雄. (1987年). 『子どもの宇宙』. 岩波新書.
河合隼雄. (1991年/1996年/2013年). 『ファンタジーを読む』. 楡出版/講談社+α文庫/岩波現代文庫.
佐多稲子. (1979年). 『夏の栞 ―中野重治をおくる―』. 中央公論社.
志賀直哉. (1937年). 『暗夜行路』. 岩波書店.
大江健三郎. (1980年). 「作家の読書」. 著: 『読書と私』. 文春文庫.
大江健三郎. (1988年). 『「最後の小説」』. 講談社.
大江健三郎. (1992年10ー12月). 『文学再入門』(NHK「NHK人間大学」). NHK教育テレビにて放送.
大江健三郎. (1994年). 『小説の経験』. 朝日新聞社.
大江健三郎. (2004年). 「中野重治の美しさ」. 著: 大江健三郎, 『「話して考える(シンク・トーク)」と「書いて考える(シンク・ライト)」』. 集英社.
大江健三郎. (2004年). 『「話して考える(シンク・トーク)」と「書いて考える(シンク・ライト)」』. 集英社.
大江健三郎, 他多数.
(1980年). 『読書と私 ―書下しエッセイ集―』. 文春文庫.
中野重治. (1928年/2021年). 「軍楽」. 著: 中野重治, 『驢馬』/『歌のわかれ・五勺の酒』. 原著/中公文庫.
中野重治. (1938年/1989年). 『歌のわかれ』. 河出書房/講談社文芸文庫.
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2026年5月25日 10:04
*[5] 色鉛筆はキャップを嵌めねば持ち運べないので不便である。したがって、ボールペンとなる。全くの余談だが、現在は、というと、自宅でこそ、大江健三郎直伝(?)のヴァーミリオン・プルシャンブルーの二色の色鉛筆を使用しているが、大半は出先で読書をせざるを得ないので、無印良品でもとめた2mm芯使用のシャープ・ペンシルに赤芯を入れて使っている。さらなる余談だが、赤芯(青芯も)は北星鉛筆(http://www.kitaboshi.co.jp/)製のものが柔らかく書き易い。
*[6] 「エラボレーション(elaboration)」は「入念に作る(仕上げる)こと、労作」
*[8] いずれも筑摩書房刊。初版(1959〜63年):全19巻+別巻1巻。作家存命中に自身の活動の区切りとして刊行。第2次全集(1976〜80年):全28巻。没前後に刊行され、収録範囲を拡大。定本版(1996〜98年):全28巻+別巻1巻。未収録作品の追加や誤植修正を経た、現時点での決定版。

