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2026年5月17日日曜日

むろん、王様は裸である。それについては重々承知しているが…… ―― 村上春樹『Sydney![シドニー]』

 

🐑村上春樹Wonderland🐑

2001

 

むろん、王様は裸である。それについては重々承知しているが……

 


村上春樹『Sydney[シドニー]

■村上春樹『Sydney[シドニー]2001年1月20日・文藝春秋。

■長篇ノン‐フィクション(スポーツ・紀行文)。

409頁。

2026年5月17日読了。

■採点 ★★☆☆☆。




 

【要約】

本稿は村上春樹のシドニー五輪観戦記『Sydney!』の書評である。紀行文としては魅力的だが、五輪の商業主義への批判とオリンピックそのものの退屈さの間で筆が宙吊りになってしまったか。様々な矛盾のためか、歪んだ迷宮のような400頁に及ぶ一冊。

Summary

This article is a book review of Haruki Murakami’s Sydney!, an account of his observations at the Sydney Olympic Games. While compelling as a travelogue, his pen seems to hang in midair, suspended between his critique of Olympic commercialism and the sheer tediousness of the event itself. Perhaps due to its various inherent contradictions, this 400-page volume ultimately resembles a warped labyrinth.

 

目次

1 文学者とオリンピック、あるいは国家という場... 2

2 期待された「スポーツ愛好家」としての視点... 3

3 「名うての臍曲がり」がもたらした退屈... 4

4 批評の場から黙殺される「不幸な書物」... 6

5 残された矛盾とインタヴューの疑問... 7

6 結論として:これはありなのか?... 9

参照文献... 10

 

 

1 文学者とオリンピック、あるいは国家という場

文学者とオリンピックの関係性を考えるとき、まず思い起こされるのは三島由紀夫の東京オリンピック観戦記*[1]であろう。何しろ、あの三島由紀夫である。オリンピックという舞台が、ナショナリズムを宣揚する機会であると同時に、肉体の賛美を極める場であることを踏まえれば、三島とオリンピックは極めて親和性の高い、近しい存在であったと言わねばならない。

その意味では、「文学者と戦争」というテーマにおいても、同様の構図が見出せるはずだ。知識人にとって、オリンピックに対してであれば背を向けることは可能かもしれないが、戦争という圧倒的な現実を前にして背を向けることは極めて困難である。その事実は、例えば小林秀雄が戦時中に残した一連の文章*[2]を見ても明らかだと思う。

おそらく、普段は密室にこもり、個人的かつ精神的な活動に従事している文学者たちにとって、オリンピックや戦争という巨大な場は、一時的にその密室から抜け出すための契機だったのではないか。自らの存在を、国家的・公共的・物質的に確認し、あるいは他者に承認してもらうための、稀有な機会として機能していたのかも知れない。もちろん、これについてはさらに深い議論が必要な論点ではあると思う。

 

2 期待された「スポーツ愛好家」としての視点

さて、それはともかくとして、本題に入る。

本作は、小説家・翻訳家として確固たる地位を築いている村上春樹による、今を遡ること26年間、すなわち2000年にオーストラリアで開催されたシドニー・オリンピック*[3]の観戦記である。村上は長年、熱心なアマチュアのマラソン・ランナーとしても広く知られてきた*[4]。その意味では、このシドニー・オリンピックの現地取材をオファーしたスポーツ総合誌『Number(ナンバー)(文藝春秋)との親近性も非常に高いと言える。

単なる一介の文筆家が書く通り一遍のスポーツ観戦記ではなく、自らも走る「スポーツ愛好家」としての地平からオリンピックに接するわけだから、そこには当然、彼にしか書けない独自の素晴らしい成果が期待できるはずだ――。とりわけマラソン、あるいはトライアスロン、さらには陸上競技については。オファーを出した『Number』誌側も、おそらくそう踏んだに違いない。


3 「名うての臍曲がり」がもたらした退屈

しかし、名うての臍曲(へそま)がりであり(失礼!)、筋金入りの個人主義者でもある(これはご本人も認めるであろう)村上春樹が、世間一般の求めるような「感動的な」オリンピック観戦記をそうそう簡単に書くわけがなかった。

本書における彼のスタンスは、基本的にはシニカルである。高度資本主義の申し子となり、巨大な高収益システムと化した現代のオリンピック・ゲイムズに対して、極めて批判的な眼差しを向けている。それどころか、身も蓋もなく言ってしまえば、そのお祭り騒ぎを「退屈だ」と一刀両断の下に切り捨てているのである。

こうなると、本書の評価はなかなか難しいものになってくる。いわゆる熱心なスポーツ・ファンやオリンピックの支持者からすれば、村上のこうした冷淡な態度は、おそらく許しがたいものに映るだろう。「そこまで言うなら黙っていてくれ」「そんな斜に構えた本をわざわざシドニーくんだりまで行って書くなよ」と言いたくなるのが正直なところではないか。

また、逆に熱狂的な村上ファンや、あるいはアンチ・スポーツ派の読者からしても、「何もわざわざ、こんな本(失礼!)を書かなくともよかったのに」という困惑が残る。実際の試合の様子や臨場感については、文章から今ひとつ伝わってこないという難点もあるが、何より村上自身が「退屈だ」と公言している通り、彼の記述そのものもどこか退屈なトーンに終始してしまっているのだ。もし彼がオリンピックという枠を離れ、普通にオーストラリアの紀行文を書いていたならば、これほど退屈なものにはならなかっただろう(もっとも、そうなれば400頁を超えるような大部な著作にはならなかっただろうが)


4 批評の場から黙殺される「不幸な書物」

要するに、どのようなスタンスから読んだとしても、「ちょっとこれはないだろう」というのが大方の見方ではないだろうか。 あるいは、もし「ノン‐フィクション業界」という確固たる言論の場が存在するならば(おそらく存在すると思うのだが)、そこからも「こんなものは到底ノン‐フィクションとは呼べない」と、全否定に近い扱いを受けているのではないか*[5]。実際に業界の反応をすべて調べ上げたわけではないので断言はできないが、そう邪推したくもなる。

結局のところ、多くの批評家や読者は、触れてはいけないタブーに触れてしまった村上春樹に対して、「敢えて触れずにおこう」という、一種の黙殺を決め込んでいるのが現状ではないか。つまり「王様は裸だ」と誰も知っているにも関わらず、今更ながらに「王様って裸じゃね?」という「少年」を世間では誰も相手にしないという構図なのだろうか?

その意味では、この作品は幸福な形で迎え入れられなかった、いささか不幸な生い立ちを持つ書物だと言える。あたかも、オリンピックの舞台で途中棄権を余儀なくされ、周囲が言葉をかけづらくなっている選手を眺めるかのような、奇妙な居心地の悪さがそこには漂っている。


5 残された矛盾とインタヴューの疑問

私個人の純粋な感想を述べるならば、本作をオリンピックの記録としてではなく、単に「村上春樹が書いたいつもの紀行文」*[6]として割り切って読めば、確かに余計な能書きや理屈っぽい記述が多い(これは認めざるを得ない)とはいえ、読み物としてはとても面白く読めた。

そこには、オーストラリアの歴史や精神分析的なアプローチによる文明の把握、コアラの秘密やワラビーの生態、あるいは鰐や鮫による「人食い」の現況といった独特な自然への言及がある。頻発する山火事(現地では「ブッシュ・フォイア」と呼ぶらしい)の描写や、オーストラリアの人々の大らかな民度、さらには作家独自の視点から語られるアボリジニの人々への理解など、興味深い記述は枚挙にいとまがない。

確かに、アボリジニ系アスリートであるキャシー・フリーマンを巡るくだりは、村上が言うように「その場に居合わせない人には、本当には理解できないだろう」*[7]熱狂であったのかもしれない。しかし、書き手にそう突き放されてしまっては、読者としては身も蓋もないのも事実である。

また、サッカーの予選を見るためだけに、シドニーからメルボルンまで10時間以上かけて自動車で移動するという、いささか常軌を逸した行動力なども旅の記録としてめっぽう面白い。意外にも「オーストラリアの料理が美味い」という発見が語られている点なども、新鮮な驚きであった。

しかし、もし「いつもの紀行文」として楽しむべきものなのだとしたら、わざわざオリンピックという国家的狂騒のタイミングを狙い澄まして現地へ赴く必要など、どこにもなかったわけである。ここに、本作が抱える構造的な難しさがある。

最大の問題は、表題に『Sydney!』と、何故か威勢のいい感嘆符を掲げている点だ。この期に及んで、このタイトルが批判の意味を込めたアイロニーとしての感嘆符だとは考えにくい。つまり、いかにも高揚感に満ちたオリンピック観戦記であるかのような体裁を取りながら、その内実ではオリンピックというシステムそのものを(結果的にであるにせよ)、一貫して批判するという、著者の姿勢の矛盾にあるのではないか。――もしそれほど現代オリンピックを批判したいのであれば、シドニーという個別の大会に固執せず、より抽象的な文明論として書くべきだったのではないか。あるいは、やはり、いっそのことオリンピックという存在を完全に無視すればよかったのではないか。一般的な「村上主義者」(言うまでもなく、村上春樹ファンを村上自身はこう呼んで欲しいと言っている)としては、その方が自然であった。

さらに付け加えるならば、本書のオープニングとエンディングという極めて重要な位置に、シドニー・オリンピックにおいては、いわゆる「敗者」(途中棄権者・非出場者)の側に回ってしまった2人の選手のインタヴューを配置している点にも、いささか割り切れない疑問が残るのである。

 

6 結論として:これはありなのか?

さて、では、この村上春樹の試みは、「あり」なのか「なし」なのか。

確かに、いつもの軽妙な筆致で綴られるオーストラリアの風土記として見れば、本作は十分に魅力的な一冊である。とても面白い、と言ってよい。正直、村上がパソコンを盗まれた場面では、思わず引き込まれて、電車を降り過ごすところだった(アブナイ、アブナイ)

しかし、「オリンピック」という巨大な国家装置の前に立たされたとき、名うての個人主義者である村上の筆は、批判と退屈の間で宙吊りになり、結果として400頁を超える奇妙な迷宮を作り上げてしまった、と言えないだろうか。

「王様が裸である」ことは重々承知の上で、それでもなお、このテキストの「歪み」(あるいは「捻じれ」か)そのものを「村上春樹の内面の格闘の痕跡」として面白がる、それだけの覚悟と「村上主義者」としての愛着があって、初めて本書はギリギリ「あり」の領域に滑り込むのかもしれない。

その居心地の悪さへの保留として、わたしは本作の採点を星二つとする。

 

参照文献

三島由紀夫. (1991年). 『三島由紀夫スポーツ論集』. ちくま文庫.

三島由紀夫. (2003年). 『決定版 三島由紀夫全集 第33巻 評論8 . 新潮社.

小林秀雄. (2022年). 『戦争について』. 中公文庫.

村上春樹. (1990年). 『雨天炎天』. 新潮社.

村上春樹. (1997年). 『アンダーグラウンド』. 講談社.

村上春樹. (1998年). 『辺境・近境』. 新潮社.

村上春樹. (1998年). 『約束された場所で――underground2. 文藝春秋.

村上春樹. (2001年). Sydney![シドニー!]』. 文藝春秋.

村上春樹. (2013年). 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』. 文藝春秋.

 

 

 

🐤 2026年5月17日 2113

4,951字(400字詰め原稿用紙13枚)


*[1] [三島, 『三島由紀夫スポーツ論集』, 1991年] [三島, 『決定版 三島由紀夫全集 第33 評論8』 , 2003年]。三島由紀夫は1964年の東京オリンピックの際、毎日新聞社などの依頼で特別記者として競技をレポートした。特に有名なのは、青空に描かれた五輪の美しさとナショナリズムの昂揚を華麗な文体で描いた「開会式」、そして大松監督率いる日本女子バレーが金メダルを獲得した試合の観戦記「東洋の魔女」である。三島は彼女たちの肉体と精神のあり方に深い感銘を受け、この一戦に「私のなかのヒロシマ」という印象的なタイトルを冠した批評的エッセイを残している。

*[2] [小林, 2022年]などを参照。

*[3] 2000年開催のシドニー五輪(第27回大会)は199カ国・地域から1万人以上が参加し、「史上最高のオリンピック」と称される成功を収めた。日本は268人の選手を派遣し、金5、銀8、銅5の計18個のメダルを獲得。なかでも陸上女子マラソンの高橋尚子が五輪最高記録(当時)で金メダルを獲得し、国民的熱狂を巻き起こした。また、開会式で聖火点火を務めたアボリジニ系のアスリート、キャシー・フリーマンが女子400mで優勝し、開催国オーストラリアの「民族和解」の象徴として大会最大のドラマとなった。

*[4] 村上春樹は1982年の専業作家転向を機に、体力維持のため走り始めた。翌1983年にはギリシャで初のフルマラソンを単独完走。以来「年に最低1回はフルマラソンを走る」を課し、自己ベスト3時間2743秒(1991年)を記録、1996年にはサロマ湖100キロウルトラマラソンも完走した。50代以降はトライアスロンにも傾倒している。彼にとって走ることは小説執筆に必要な「集中力」と「持続力」を鍛える行為であり、その文学と不可分の本格的なキャリアは、健康のためのジョギングの域を遥かに超えている。

*[5] オウム真理教事件に取材した、本格的なノンフィクション作品と銘打たれた [村上, 『アンダーグラウンド』, 1997年] [村上, 『約束された場所で――underground2』, 1998年]は極めて不評だったと記憶している。

*[6] 確かに村上春樹の紀行文はめっぽう面白い。 [村上, 『雨天炎天』, 1990年] [村上, 『辺境・近境』, 1998年]など。

*[7] [村上, 『Sydney![シドニー!]』, 2001年]299頁。

2026年5月6日水曜日

悪の空洞化―― 村上春樹『夏帆――The Tale of KAHO』(村上春樹「夏帆」・「武蔵境のありくい」・「夏帆とシロアリの女王」・「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン」)・村上春樹インタヴュー(ニューヨーク・タイムズ)

 

🐏Keep Calm and Read Murakami~村上春樹を読む🐏 

悪の空洞化

村上春樹『夏帆――The Tale of KAHO(村上春樹「夏帆」・「武蔵境のありくい」・「夏帆とシロアリの女王」・「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン」)・村上春樹インタヴュー(ニューヨーク・タイムズ)

 


*以下ネタバレ注意。

*本稿は、単行本刊行時に改定する予定です。

■①村上春樹「夏帆」/『新潮』2024年6月号/加筆改訂版・『文芸ブルータス』2025夏・2025年8月15日・マガジンハウス。

②村上春樹「武蔵境のありくい」/『新潮』2025年5月号。

③「夏帆とシロアリの女王」/『新潮』202511月号。

④「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン」/『新潮』2026年3月号。

⑤『夏帆――The Tale of KAHO202673日・新潮社から刊行予定。

Alexandra AlterHaruki Murakami : Isnt Afraid of the Dark, The New York Times, Feb. 8, 2026 Updated Feb. 12, 2026.

■短篇・中篇連作?長篇小説。

(今のところ)全4章。

2026年2月9日読了。

■採点 保留。

 

〈要約〉

20267月刊行予定の村上春樹の新作長篇『夏帆』は、雑誌掲載の連作が長篇化する異例の形式をとる。「顔」を巡る自己探求と、動物たちが導く試練を描くが、悪との対話・対決の欠落や、安易な結末に疑問が残る。最終的な評価は、加筆が期待される単行本版を待つこととしたい。

English Summary

Haruki Murakami’s new novel, KAHO — The Tale of KAHO (scheduled for July 2026), follows an unusual publication format, evolving from a series of magazine installments into a full-length work. While the story explores self-discovery through the motif of "faces" and trials guided by symbolic animals, it leaves critical questions regarding the lack of "dialogue with evil" and a somewhat simplistic resolution. A final judgment remains reserved until the release of the definitive hardcover edition, which may contain further revisions.

 

目次

1 新作『夏帆』刊行への期待と異例の形式... 2

2 「顔」の物語としての第1章... 4

3 「動物」たちの登場と「悪」との対決... 6

4 欠落する「悪との対話」... 7

5 主題の変貌と単行本への注視... 8

参照文献... 9

 

 

1 新作『夏帆』刊行への期待と異例の形式

202673日、村上春樹の新作長篇小説『夏帆――The Tale of KAHO』が新潮社より刊行される*[1]。長篇としては『街とその不確かな壁』*[2]以来3年ぶりとなるが、本作の特筆すべき点はその発表形式にある。村上の長篇は、一部の例外*[3]を除き全篇書き下ろしが通例であったが、本作は全4章が時期を置いて雑誌にバラバラに掲載された。

元々、第1章に当たる「夏帆」は朗読会*[4]用の短篇として書かれたものだ。それが過去の『ノルウェイの森』*[5]や『ねじまき鳥クロニクル』*[6]のように、短篇を起点として長篇へと発展を遂げた。雑誌掲載時から全篇を追ってきたが、一読者としては正直なところ、首をひねらざるを得ない部分が残る。

 

2 「顔」の物語としての第1章

第1章「夏帆」は、短篇として一定の完成度を見せているとい言ってよい。シークレット・デイト*[7]の相手である「モーターサイクルの男」こと佐原から、主人公の夏帆が「君みたいな醜い相手は初めてだ」*[8]という凄まじい侮辱を受ける場面から物語は動き出す*[9]

現代社会では、こんな酷いことは、よほどのことがあってもまず言われない。容姿をさほど気にしていない女性でも(ほとんどいないとは思うが)、面と向かって、こんなことを言われたら、相当不愉快極まるであろう。無論、二人はその場で別れる。

  しかし、何故か、相手に興味を覚えた夏帆は再び佐原と会うことになるが、やはり物別れになる。彼女は著しく傷つき、後悔する。彼女はこう思う。

 

私は自らの人生から巧妙な復讐を受けているのかもしれない――そう思わないでもなかった。*[10]

 

  彼女は、何故、「自らの人生から」「復讐を受け」ねばならないのか? なぜ、見ず知らずの第三者から、選りにもよって容貌のことで、侮辱されねばならなかったのか?

 

夏帆(かほ)という名は、旧仮名遣いでは「かお」と読める。本作は文字通り「顔」を巡る物語だ。作中で彼女が描く絵本には、顔を失った少女が、「そのへんにあった間に合わせの顔」*[11]を貼り付けて「自分の顔を探しに行く」*[12] 旅をする姿が描かれる。

いくつもの試練を乗り越えて、北の岬に到達したときに、そこに現れた背の高い青年から「君みたいな素敵な顔をした女性に会ったのは初めてだよ」*[13]と言われるが、むろんこれは、冒頭の佐原に言われた侮蔑的な言葉とは全く逆の言葉だ。

しかし、「醜い」の反対は「美しい」だろうが、この場合は「素敵な顔」とされている。そして、「間に合わせにとりあえず貼り付けてきた顔が、そのときにはもう本当の顔になっていたのだ。」*[14]という。つまり、顔の美醜についてはほとんど、どうでもよく、人生の試練こそが、内面を作り、それが「素敵な顔」になるということだろうか?

 したがって、結果的には(つまり、本人にはその意図がなかろうが)、冒頭の佐原の言葉は、自らの人生に正対していない夏帆への「警告」だったとも言える。「醜い顔」と言うのは美しくない、と言うことではなく、「素敵ではない顔」ということではないか。

 自らの人生からの復讐とは、人生を本当の意味で生きていないことからくる、様々な障害とも考えられる。人生を生きていない、自らの人生と正対していないというのは、例えば、夏帆にとっては、いささか不仲とも言える、両親、取り分け、母との関係の修復、あるいは母親との人生の生き直しである。

 彼女は、それを第2章から第4章にかけて行っているとも言える。

しかしながら、試練の果てにその顔が「本当の顔」になるという結末は、人生の試練を経て内面が形成される過程を象徴しているのだろう。先に述べたように、佐原の暴言もまた、自らの人生に正対していない夏帆への過酷な「警告」であったと解釈できる。しかし、こうした通俗的な読みを拒絶する地点にこそ村上文学の核心があるはずであり、我ながら首をひねらざるをえない。この解釈については一旦保留としたい。

 

3 「動物」たちの登場と「悪」との対決 

物語が進むにつれ、ジャガーやシロアリの女王、アリクイの夫婦あるいはスカーレット・ヨハンソン*[15]を名乗るホルスタイン柄の猫といった動物たちが現れ、夏帆に試練や助言を与える。これらは第1章で予告されていた展開*[16]だが、より本質的な問題は、近年の村上作品に共通する「悪との対決」の在り方にある。

『ねじまき鳥クロニクル』の綿谷昇、『1Q84*[17]の新興宗教の教祖、あるいは『騎士団長殺し』*[18]の騎士団長。主人公たちは精神的な世界において、野球のバットやアイスピック、包丁でこれらの「悪」を葬ってきた。本作でも夏帆がジャガーを刺殺する場面があるが、なぜ彼らが「悪」と断定され、一方的に殺されねばならないのか、その必然性がいまひとつ判然としない。

 

4 欠落する「悪との対話」 

わたし個人としては、村上は『ねじまき鳥クロニクル』以降の長篇は文学的な成功を収めているとは言い難いと考えているが、その要因の一つに「悪との対話」あるいは「悪との対決」の不完全さにあるのではないかと考えている。悪の側の論理や情理に踏み込む「対話」が欠落したまま、一方的に排除が行われているのではないか。これでは悪が「成仏」できないではないか。この問題は村上個人に留まらず、日本近代文学全体が抱える課題とも言えるだろう。

 

5 主題の変貌と単行本への注視

最大の問題点だと思うのが、第4章における佐原(モーターサイクルの男)の主題的変貌だ。第1章で、夏帆の存在の根底を脅かす「悪」として登場した彼が、第四章に至って「ちょっと言いにくいんだが、つまりなんというか、僕は君の守護天使のようなものなんだ」*[19]と名乗り、かつての暴言も主人公を守るために引っ越しをさせるための手段だったと釈明する*[20]。この回収の仕方は、物語を牽引してきた強烈な存在感に比して、あまりにとってもつけたような単純な着地に思えてならない。

村上の、これまでの短篇集において、単行本化の際にテーマを補完する「ボーナストラック」的な一篇が追加されてきた例*[21]を考えれば、単行本版で何らかの解決が示される可能性はある*[22]

いずれにせよ、加筆修正されるだろう単行本こそが最終的な「作品」である。その全貌を待って判断を下したい。

参照文献

村上春樹. (1983年/1984年). 「螢」. : 『中央公論』1983年1月号/村上『螢・納屋を焼く・その他の短編』. 中央公論新社/新潮社.

村上春樹. (1986年/1989). 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」. : 『パン屋再襲撃』. 文藝春秋/文春文庫.

村上春樹. (1987年). 『ノルウェイの森』上下. 講談社.

村上春樹. (1994年-1995年). 『ねじまき鳥クロニクル』全3巻. 新潮社.

村上春樹. (2000年). 「蜂蜜パイ」. : 村上春樹, 『神の子どもたちはみな踊る』. 新潮社.

村上春樹. (2000年). 『神の子どもたちはみな踊る』. 新潮社.

村上春樹. (2005年). 『東京奇譚集』. 新潮社.

村上春樹. (2009年ー2010年). 『1Q84』全3巻. 新潮社.

村上春樹. (2013年). 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』. 文藝春秋.

村上春樹. (2014年). 『女のいない男たち』. 文藝春秋.

村上春樹. (2017年). 『騎士団長殺し』全2卷. 新潮社.

村上春樹. (2020年). 『一人称単数』. 文藝春秋.

村上春樹. (2023年). 『街とその不確かな壁』. 新潮社.

村上春樹. (2024年). 「夏帆」. : 「『村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会』――みみずくは春に本を読む」/『新潮』2024年6月. 早稲田大学/新潮社.

村上春樹. (2025年). 「夏帆」(加筆改訂版). 『文芸ブルータス』2025.

村上春樹. (2025年). 「夏帆とシロアリの女王――〈夏帆〉その3」. 『新潮』2025年11月号.

村上春樹. (2025年). 「武蔵境のありくい――〈夏帆〉その2」. : 『新潮』2025年5月号. 新潮社.

村上春樹. (2026年). 「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン――〈夏帆〉その4(完結). 『新潮』2026年3月号.

 

🐣

5,629字(400字詰め原稿用紙15枚)

20260506 1915



*[1] 村上春樹新作刊行が報じられたのは2026年4月23日(新潮社HP)。

*[2] [村上, 『街とその不確かな壁』, 2023年]

*[3] 『ねじまき鳥クロニクル』の第1部は『新潮』に連載された。ただ、他の作家のように「自転車操業のように」(失礼)その都度書いて、掲載するのではなく、『ねじまき鳥クロニクル』の第1部、第2部の全篇が執筆された上での連載ではないかと推測される。

*[4] 「『村上春樹✕川上未映子 春のみみずく朗読会』――みみずくは春に本を読む」2024年3月1日・早稲田大学・大隈記念講堂。

*[5] 短篇 [村上, 「螢」, 1983年/1984年]→長篇 [村上, 『ノルウェイの森』上下, 1987年]

*[6]短篇 [村上, 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」, 1986年/1989年]→長篇 [村上, 『ねじまき鳥クロニクル』全3巻, 1994年-1995年]

*[7] 本文では「ブラインド・デート」となっている [村上, 「夏帆」, 2024年]11頁上段。

*[8] [村上, 「夏帆」, 2024年]10頁上段。

*[9] 村上は、何か意図的にルッキズムを批判するというよりも、ルッキズムvs.アンチ・ルッキズムのよって立つ地平をひっくり返す、あるいは暗に全否定? するような視点がある気がする。実際にある時期、「醜い」とされる女性をしばしば登場させていた。例えば、映画化もされた「ドライブ・マイ・カー」に登場する女性ドライバー・みさきは「ぶすい」(ぶすいに傍点)つまり「ブスだ」とされている [村上, 『女のいない男たち』, 2014年]18頁。また、「石のまくらに」に登場する名前も分からない女性も「おまえは顔はぶすいけど、身体は最高だって言うの」(ぶすいに傍点) [村上, 『一人称単数』, 2020年]12頁。そもそも「ぶすい」という日本語が存在するかどうかも怪しい。一種の異化作用だろうか。また、「謝肉祭」には「ぶすい」というようなものではなくて「もっとも醜い女性」が登場する [村上, 『一人称単数』, 2020年]153頁。これらは、顔の美醜について言及しなくても話としては通じる。したがって、村上は意図的に、このような表現を取っているのだ。それは「モーターサイクルの男」が意図的に、夏帆を「醜い」と断定したのも、意図的な行為であるのと同様である。

*[10] [村上, 「夏帆」, 2024年]20頁上段。

*[11] [村上, 「夏帆」, 2024年]20頁下段。

*[12] 同右。

*[13] [村上, 「夏帆」, 2024年]21頁上段。

*[14] 同右。

*[15] スカーレット・ヨハンソン(Scarlett Johansson, [dʒoʊˈhænsən]19841122 - )は、アメリカ合衆国の女優。多くのヒット作品に出演し、出演した映画の興行収入は累計53億ドル(約8300億円)で歴代4位となる(Wikipedia)。

*[16] 第1章に当たる「夏帆」には加筆修正版が存在する。いくつか加筆があるが、絵本の中で少女が冒険する下りに以下の加筆がある。「ジャングルの奥の小径で、穏やかな気性のアリクイの夫婦とすれ違ったこともある。彼女が小さく会釈をすると、アリクイたちはやはり小さく会釈を返してきた。「凶暴なジャガーにはくれぐれも気をつけるのですよ」とアリクイの奥さんが親切に忠告を与えてくれた。」 [村上, 「夏帆」(加筆改訂版), 2025年]62頁下段。

*[17] [村上, 『1Q84』全3巻, 2009年ー2010年]

*[18] [村上, 『騎士団長殺し』全2卷, 2017年]

*[19] [村上, 「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン――〈夏帆〉その4(完結), 2026年]34頁下段。

*[20] [村上, 「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン――〈夏帆〉その4(完結), 2026年]35頁下段—36頁上段。

*[21] 例えば、いずれも短篇小説集という前提になるが、『神の子どもたちはみな踊る』 [村上, 『神の子どもたちはみな踊る』, 2000年]では短篇「蜂蜜パイ」が、『女のいない男たち』 [村上, 『女のいない男たち』, 2014年]では短篇「女のいない男たち」が、『東京奇譚集』 [村上, 『東京奇譚集』, 2005年]では短篇「品川猿」が、『一人称単数』 [村上, 『一人称単数』, 2020年]では、短篇「一人単数単数」が単行本化に当たって収録されている。いずれも、短篇集全体のテーマとなるような重要な作品と言える。

*[22] しかしながら、雑誌掲載時には「完結」 [村上, 「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン――〈夏帆〉その4(完結), 2026年]とされていているから、それはないのかも知れない。