山田太一を読む
虚無と向き合い、内面を抉る山田太一の「文体」
山田太一『見なれた町に風が吹く』
■山田太一『見なれた町に風が吹く』1997年6月7日・中央公論社。
■初出『婦人公論』1997年1月号~1997年5月号連載。
■装画 西方久 装幀 菊地信義。
■四六版・ハードカヴァー・全24章・279頁。
■長篇小説。
■1540円(税込み)。
■2025年7月7日読了。
■採点 ★★★☆☆。
《ひと言で言えば》
山田太一の小説『見なれた町に風が吹く』は、或る種の虚無感を抱える37歳独身女性が主人公。映画製作に巻き込まれる中で、「虚無感」と向き合う内面が深く描かれている。テレヴィジョン・ドラマの脚本家の巨匠として知られる山田だが、本作は映像化が難しいほど繊細な「文体」による内面描写が際立ち、小説家としての特異な才能を示す。
In a Nutshell
Taiichi
Yamada's novel, A Familiar Town Where the Wind Blows, features a
37-year-old single woman grappling with a sense of emptiness. As she gets
involved in filmmaking, her internal struggle with this void is deeply
explored. While Yamada is renowned as a master television drama scriptwriter,
this work highlights his unique talent as a novelist through a delicate writing
style that intensely portrays inner worlds, making it challenging to adapt to
film.
目次
1. はじめに
山田太一といえば、私にとっては何よりもまず『岸辺のアルバム』*[1]だ。リアルタイムでドラマを観ていた私は当時中学3年生で、その衝撃は今も鮮明に覚えている。作者自身によるノベライゼイション(『東京新聞』(『中日新聞』)連載)も、シナリオ版も読んだ。その後も機会を見つけて山田作品のドラマや小説に触れてきたが、テレビがなかったなどの様々な事情で、見たくても見られなかった作品も多い。『想い出づくり。』*[2]、『早春スケッチブック』*[3]、『輝きたいの』*[4]、『シャツの店』*[5]、『友だち』*[6]、『高原へいらっしゃい』*[7]など、今も心残りだ。
そんな中、久しぶりに山田の小説を手に取った。2023年に彼が亡くなった際にも読もうとは思ったものの、機会がなかったのだ。公刊されている小説はほとんど読破してきたが、未読のシナリオやエッセイはまだまだ多い。そうした中で今回偶々手に取ったのが、本書『見なれた町に風が吹く』だった。
2.《梗概》(ネタバレ注意)
物語は、商社勤務の独身37歳女性・香子を主人公に据える。働き過ぎで体を壊し、営業の一線から退いた彼女は、暇を持て余す日々を送っていた。「自分がどこにでもいる女に思えてしまう。」*[8] そんなある日、カルチャーセンターの映画講座で知り合った60代の男性・中川に声をかけられる。彼は映画プロデューサーで、新作の映画作りを手伝って欲しいという。香子は流されるようにその誘いに乗ってしまう。
監督は往年の巨匠・関根。もう5年も映画を撮っておらず、中川に至っては8年も映画を撮っていない。そんな関根に、かつての大部屋俳優だった杉山が私財を投じて映画を撮って欲しいと依頼する。関根は杉山に死相を見て、彼を主役として映画を撮ることを決意する。脚本が出来上がるまでの間、杉山の様子を撮っておきたいと、香子をインタビュアーにして何本か撮影が行われる。しかし、最後の撮影の後、呆気なく杉山は心不全でこの世を去ってしまう。
最後の撮影映像をスタッフ全員で見た彼らは、それが素晴らしい映像だったことを確認し合う。それを基に映画製作に向かうはずだったが、杉山の遺族が資金と映像の引き上げを要求しているという。監督たちは何とかしようと決意し、町に出ようとするが、台風並みの強い風が吹きつけていた。香子は、スタッフと一緒に乗った車中で「しらけたくなかった。熱気を信じたかった。信じたい。信じたかった。」*[9] と強く思うのだった。
3.虚無・空無感を描く
以前読んだ際に面白かったという印象が残っていたが、今回改めて読んでみて、主人公・香子(37歳・独身)のキャラクターが際立っていると感じた。彼女は作中に登場する男性(ほぼ老人)すべてが関心を抱くほど魅力的に描かれている*[10]。
話は逸れるが、小説でも映画でもドラマでも最も大切なことは、少なくとも主人公(あるいは俳優)に「人徳」があることではないだろうか。これを人為的に作り出すのは至難の業だ*[11]。
さて、本作で描かれるのは、中年女性が抱える虚無・空無感だ。これは『岸辺のアルバム』の主人公の女性*[12] が感じていたものと同じである。そして、この虚無・空無感は敷衍すれば、当然のことながら男性も同様に抱えており、死を間近に控えた老年であればなおさらだろう。生きていることの根本、その底板にあるこの虚無・空無感といかに戦うべきか、あるいは戦わずしてやり過ごすべきか。あるいはこのテーマ自体はありふれているかもしれない。しかし、山田はその普遍的な問いを、登場人物たちの内面を通して深く掘り下げていく。
4.小説ならではの表現
山田はテレ‐ヴィジョン・ドラマで手練れた手法で飽きさせず、物語を展開させる。それだけならば、ドラマの脚本と変わりはないだろう。しかし、そもそも山田の小説は、『飛ぶ夢をしばらく見ない』*[13]や『遠くの声を捜して』*[14]などを嚆矢として、テレ‐ヴィジョン・ドラマや映画などへの映像化が難しいものが多かったように記憶している。
本作は一見すると容易に映像化可能にも見える。しかし、この作品を際立たせているのは、主人公・香子の内面描写と、内面に関わる行動描写に他ならない。例えば、「ほんとに、他になにもないのだもの、ぶつかってみなくてどうするんだよ、と思った。」*[15] という一文。途中までは地の文(客観的なナレーター)で語られているにもかかわらず、流れるように香子の内面の独白(「ぶつかってみなくてどうするんだよ」)が挿入される。
他にも、「急にこんな生活なんとかしなければ、という思いがこみあげた。赤ん坊とも幼児とも十代とも二十代とも三十代とも四十代とも縁がない。いま電話で話した中川か六十代。明日訪ねる監督は七十代。こんなの、どうかしているよ。」*[16]、「それはもう人種が違うよ、という気がした。」*[17]、「私も結構ミーハーだね。」*[18]、「東洋人のまあまあの顔立ちですね。」*[19] など、この種の表現が多出する。仮に映像化するとして、これらをシナリオや映像でどう表現するのか? 独白のナレーションを入れるのか? 字幕でも出すのか? まさか?
基本的にこれらは「ツッコミ」であり、しかも男言葉によるものだが、内面がそのような形で表現されることは、また別の側面から論究すべき問題だろう。
あるいは、こういう表現もある。
「あの人は――」と松城が口をひらいた。/漸くなにかいうんだ、と思ったが、ちょっと無口に仕返しをしたくて黙っていた。/「関根さんの作品は――」と松城がいう。沈黙。相槌が欲しいらしい。/「ええ」と香子はうなずいた。*[20]
これを映像にした場合、台詞回しはもとより、「沈黙」の表現をどのように視聴者に伝えるかが問題になる。今手元に確認できる山田の脚本はないが、私の記憶では、その種の詳細な演出プランはト書きになかったはずだ。おそらく演出家の力量に任せていたのだろう。
本作の発表誌は『婦人公論』。純粋な文芸誌ではないにもかかわらず、ストーリー展開だけではなく、登場人物たちの内面を読み込んで欲しいという作者の思い入れが強く感じられる。
気になった点としては、設定の問題。関根監督の手法のブレだ。「作り物の映像」*[21] が本来の手法だったはずなのに、演技のできない(下手な)杉山の地を生かして、彼を主役に映画を撮るという。これは矛盾ではないのか? そこに、その変化に何か意味があるというのだろうか。
5.結語
本作、あるいは山田太一作品の意味は、主題(空虚感を帳消しにする何かの行動)やストーリー(中年の女性が恋愛や仕事や家庭、あるいは趣味などではなく、何らかの形で生きがいを見出す)よりも、文体にあるのだ。
山田作品を他と際立たせているのは、小説はもちろん、シナリオ(実際には多くの場合は映像作品の形で目にすることになるのだが)においても、偏に「文体」、あるいは「文章の構成」、あるいは「内面の表現」にこそあるというべきである。
おそらく、今後の文学史の中で、山田は稀代のシナリオライターとして記憶されることになろう*[22]。しかし、「映像作品」と「文学作品」との相関関係(石坂洋次郎や井上靖、あるいは角川映画のメディアミックスなど)を考える意味でも、山田の小説家としての仕事は特筆に値すると言えるだろう。
参照文献
山田太一. (1985年). 『飛ぶ夢をしばらく見ない』. 新潮社.
山田太一. (1989年). 『遠くの声を捜して』. 新潮社.
山田太一. (1997年). 『見なれた町に風が吹く』. 中央公論社.
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3544字(400字詰め原稿用紙9枚)
20250707 1757
*[11] わたしが考える「人徳」のある俳優とは、例えば役所広司、阿部寛、ハリソン・フォード、ラッセル・クロウ、ブルース・ウィルス。女性で言えば鈴木京香、アンジェリーナ・ジョリー、と極めて偏った選択になる。
[22] 山田は「向田邦子、倉本聰と並んでシナリオライター御三家」と呼ばれたらしい(「山田太一」/『Wikipedia』)。
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