このブログを検索

ラベル コラム 「tea for one」 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル コラム 「tea for one」 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年5月8日土曜日

文学と宗教 ――加賀乙彦の場合――

 コラム ☕「tea for one」 

 

文学と宗教 

――加賀乙彦の場合―― 

 

 


  作家が信仰に目覚めた途端に小説作品が硬直し、そのダイナミズムを失い、要するにつまらなくなる、ということはしばしば言われることだ。よく例にあげられるのはトルストイ。キリスト教信仰に覚醒した後に書かれた『復活』のつまらなさ! 大江健三郎氏の反戦・反核に関するエッセイ(ルポルタージュ)の紋切り型! 

 したがって、無論、ここで言う「信仰」とは宗教に限らず、なんらかの思想・信条をも含む。 

 加賀乙彦氏がキリスト教の洗礼を受けたとの新聞報道に接したのは確か80年代の半ばだったとかすかに記憶する。1985年に発表された『湿原』には主題的にその影を落としているような気がするが、その後はむしろキリスト教の教説めいた主題は影を潜めている。 

 だが、今述べたこととは矛盾するようだが、むしろ加賀氏には『雲の都』において信仰の問題を追求してもらいたい、と密かにわたしは思っている。わたしは必ずしも宗教・信仰はドグマにはならない、必ずしも人を独善の檻へと閉じ込めない、そう思っている。人が自らの相対性を自覚している限り、また、そこにしか神という絶対が宿らないと自覚している限り。 


 『雲の都』においてこれからも主人公・悠太には、神の問題と出会うまで、苦難の途が待っているとは思う。現実という苦難の中で、いかにして彼は神と遭遇うのであろうか? 

🐓 

(初出『鳥』第12号・2002年12月・鳥の事務所) 

2017年8月30日水曜日

なぜ、吉本を読むのか?

コラム 「☕tea for one」 


なぜ、吉本を読むのか? 





 なぜ、吉本隆明を読むのか?    これはいささかならず難問だ。正直に言うとよく分からない、と言うしかない。 

 多くの先行世代はなにがしかの機会に頭をぶん殴られるようなことがあったのだと思うが、残念ながら、わたしには思い当たる節がない。 

 東京に出てきた年に、例の三部作が角川文庫から刊行されて、購入したものの、難解過ぎて、その後触れぬ間に時が過ぎていった。 

*吉本隆明『共同幻想論』・『言語にとって美とはなにか』Ⅰ・Ⅱ・『心的現象論序説』1982年1月~3月・角川文庫。いずれも表題に「改訂新版」と頭書きされている。今となっては活字が小さ過ぎて読むに耐えない。 

 おそらく最初にきちんと読んだのが『死の位相学』だ。が、特にどうという印象を持たなかった。 

*吉本隆明『死の位相学』1985年6月10日・潮出版社。 

 その後、パラパラと手に入るものを読むことになる。 
 当時まだお元気だった栗本慎一郎氏との対談など読み、今もまだあるのか分からぬが八王子の「ばろっく」という喫茶店で、友人のS君と語ってマスターから五月蝿がられた**ことも記憶に新しい。 

*吉本隆明・栗本慎一郎『相対幻論』1983年10月・冬樹社。 

**ステレオのヴォリュームを上げられた。 

 さて、その後、衝撃は突如としてやって来る。 

 その一つは加藤典洋の『戦後的思考』における吉本「転向論」**の根本的な見直しである***。これは加藤にとっても大変重要な論考だと考えられる。例えば加藤は吉本の所論を敷衍する形で次のように述べる。 


転向者とは、あらゆる「正しさ」に見放された存在にほかならない。その転向者にもし活路――第一義的な足場――があるとすれば、それは、自分が「正しさ」を捨てたことの余儀なさ、動かしようのなさ、にとどまること、彼が誤ったことの動かしようのなさを、足場にすること以外にない。(加藤『戦後的思考』134頁) 


加藤典洋『戦後的思考』1999年11月25日・講談社。 

**吉本隆明「転向論」/『現代批評』創刊号・1958年12月1日・書肆ユリイカ/『吉本隆明全集5』2014年12月25日・晶文社。 

***これについては別稿で触れる。 

 もう一つは別稿ですでに触れた「フーコーについて」の中の親鸞論である。 

*吉本隆明「フーコーについて」『ちくま』1996年6~8月号/『吉本隆明〈未収録〉講演集 2――心と生命について』2015年1月10日・筑摩書房。 

 と、このように書き付けてみても、一言で何か説明したり、何やら気の利いた要約めいたことが書けるわけでもない。書いているうちに何か思い付くか、と思ったがそう世の中甘くなかったな。 

 数年前に上野の街で道に迷ったことがある。岡の上は真っ暗で、こんなところに寺があるのかとか、お祭りの集まりに道を阻まれて迂回したりとか、なんだか面白かったが、吉本さんという山も大変懐が深く、しばらくそこで迷うことになりそうだ。 
🐤 

2017年8月30日 15:50-20:12 

スパイダーマンの糸

コラム 「☕tea for one」 


スパイダーマンの糸 




 吉本さんの一連の親鸞論を読んでいると、果たしてこれは「信」なのか、つまり信仰の問題、信仰の地平から捉えられ、考えられ、論じられているのか、という疑問をときどき持つ。 

*当然だが、吉本隆明さんのことだ。 

 無論、吉本さんはあちこちで自身でも言明されているように、信仰者ではない。それはそうなのだが、では、なにゆえに吉本さんは、その最初期から宗教問題に拘り、宗教者、宗教思想を論じさらには『〈信〉の構造』4部作**までなしてしまうのか***。そもそも〈信〉の「構造」という問題設定にもいささかならず疑問を感じる。「信」って構造なんだろうか、構造を持つものなのか。構造的に捉えられるものなのか、と。 

*「歎異鈔に就いて」は1947年発表。『新約聖書』中「マタイによる福音書」を論じた「マチウ書試論」は1954年の発表。いずれも『吉本隆明全著作集4』(1969年4月25日・勁草書房)に収録。 

**『〈信〉の構造』1983年~1993年・春秋社。 

***これは戦争中の体験が影を落としている、とはよく言われことだが、にわかには納得し難い。 

 とりわけ、親鸞論、あるいは親鸞自身の思想に顕著に感じるのが、もうこれは信仰ではない、という点だ。親鸞自身は浄土教を解体し、ということはすなわち、浄土そのものを解体し、ということは生と死すらも解体し、ついには仏教を、宗教をも解体したのではなかったか。 
 ここのどこに信仰の入る余地があろうか。 

 個人的にはここにいささかの異和を感じる。無論思想的、哲学的にはそういうことになってしまうのかなとも思わなくもないが、だったら人間なんかいらないじゃないか、と若干怒りぎみに呟かざるを得ない。 
 信仰とは、信とは、おそらくほとんど無力に等しい存在である人間が、哀しみと絶望の果てに、あたかもエンパイア・ステイト・ビルディングの如く聳え立つ絶対的な存在へと投げ掛ける、スパイダーマンの糸のようなものではないのか、つまり逆「蜘蛛の糸」ということね。 

🐣 





2017年8月30日 12:34―13:55 


※「〈信〉なんですか?」を改題。