コラム 「☕tea for one」
スパイダーマンの糸
吉本さん*の一連の親鸞論を読んでいると、果たしてこれは「信」なのか、つまり信仰の問題、信仰の地平から捉えられ、考えられ、論じられているのか、という疑問をときどき持つ。
*当然だが、吉本隆明さんのことだ。
無論、吉本さんはあちこちで自身でも言明されているように、信仰者ではない。それはそうなのだが、では、なにゆえに吉本さんは、その最初期から宗教問題に拘り*、宗教者、宗教思想を論じさらには『〈信〉の構造』4部作**までなしてしまうのか***。そもそも〈信〉の「構造」という問題設定にもいささかならず疑問を感じる。「信」って構造なんだろうか、構造を持つものなのか。構造的に捉えられるものなのか、と。
*「歎異鈔に就いて」は1947年発表。『新約聖書』中「マタイによる福音書」を論じた「マチウ書試論」は1954年の発表。いずれも『吉本隆明全著作集4』(1969年4月25日・勁草書房)に収録。
**『〈信〉の構造』1983年~1993年・春秋社。
***これは戦争中の体験が影を落としている、とはよく言われことだが、にわかには納得し難い。
とりわけ、親鸞論、あるいは親鸞自身の思想に顕著に感じるのが、もうこれは信仰ではない、という点だ。親鸞自身は浄土教を解体し、ということはすなわち、浄土そのものを解体し、ということは生と死すらも解体し、ついには仏教を、宗教をも解体したのではなかったか。
ここのどこに信仰の入る余地があろうか。
個人的にはここにいささかの異和を感じる。無論思想的、哲学的にはそういうことになってしまうのかなとも思わなくもないが、だったら人間なんかいらないじゃないか、と若干怒りぎみに呟かざるを得ない。
信仰とは、信とは、おそらくほとんど無力に等しい存在である人間が、哀しみと絶望の果てに、あたかもエンパイア・ステイト・ビルディングの如く聳え立つ絶対的な存在へと投げ掛ける、スパイダーマンの糸のようなものではないのか、つまり逆「蜘蛛の糸」ということね。
🐣
2017年8月30日 12:34―13:55
※「〈信〉なんですか?」を改題。
※「〈信〉なんですか?」を改題。
0 件のコメント:
コメントを投稿