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2017年8月29日火曜日

悪の倫理学・覚え書き  その15 そして振り出しに戻る、 あるいは〈普遍的善〉の方へ、 さらに、あるいは吉本隆明の親鸞論その1 


 15  

悪の倫理学・覚え書き  

その15  


そして振り出しに戻る、  
あるいは〈普遍的善〉の方へ、  
さらに、あるいは吉本隆明の親鸞論その1 


  さて、前回が3月17日のアップだったので、およそ半年ぶりとなる。そもそも、この blog自体のアップも一月半ほど滞っていたので、文章の書き方も記憶にない、という あり様だ。非道いものだ。本来であればリハビリテイションから入るべきだが、わた しにはあまり残された時間がない。一挙に本丸に攻め入る。  
 ことの発端は、加藤典洋と高橋源一郎の講演と対談録の『吉本隆明がぼくたちに遺し たもの』を偶々手に取ったことである。 






 *加藤典洋・高橋源一郎『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』2013年5月9日・岩波 書店。  

 ここで、どういうわけか、およそ三分の二を占める加藤の講演や対談での発言より も、ほとんど説明になっていない(と思われる)高橋の言葉にひっかかった**。三・ 一一のあと『吉本隆明が語る親鸞』***を手に取り感銘を受けたということなのだ が、わたし自身もその高橋の言葉に、何か感じる部分があったのであろう。 

 *講演が高橋一本であるのに対して加藤二本、対談も加藤がほとんど話していて、高 橋は聞き手に回っている。  

**加藤の発言がつまらないということではなく、むしろ別稿を立てて論じる必要が あるぐらいだ。とりわけ、吉本の「反・反原発」論の問題、及び見田宗介との関連 性、人類の有限性の問題は特筆に値する。 むしろ、わたしは高橋の良い読者ではない。『さようなら、ギャングたち』(1982年10月・講談社)は評価す るが、あとの作品や論壇的な発言は、考え過ぎて、何らかの過剰へと至っている気が して感心できなかった。そういう意味でも、このひっかかりは奇妙だ。 奇妙といえば、これも偶々、古書店に行ってみると『吉本隆明が語る親鸞』を始めと して、年来探し求めていた数冊の吉本本と遭遇し、無論購入した。ときどき吉本さ んの場合そういうことがある。不思議だ。  

※『吉本隆明の下町の愉しみ』2012年9月15日・青春新書(青春出版社)・『甦るヴェイ ユ』1992年・JICC出版局/2006年・MC新書(洋泉社)・『源氏物語論』1982年・大和書 房/2009年・MC新書(洋泉社)。そして金子大栄校注『歎異抄』岩波文庫。これらはほ ぼ新品同様で汚れひとつなかった。 

 ***吉本隆明『吉本隆明が語る親鸞』2012年1月16日・東京糸井重里事務所。  

 さて、更なることの発端は『ちくま』に分載されていた講演録「フーコーについて」 を読んだことだ。実際にはフーコーそのものではなくて、なぜか親鸞について言及さ れていて、その当時は親鸞のこともほとんど分かっていなかったので論理的に理解し たわけではなくて、よく分からないままに異様な衝撃を受けたことを覚えている。当 時は京王八王子駅ビルにある書店が大変気前がよく、リーフレットやPR誌がふんだん に手に入り、そのときも大漁で喜びとともに京王線に乗り込んだことも昨日のように 記憶に新しい。 ところが、その収録誌を紛失してしまい、いったい全体自分が何に感動したのか分か らず終いで数年が過ぎていったところ、一昨年のことだが『〈未収録〉講演集』が刊 行され、その中にこの「フーコーについて」が収録されており、無事再会すること が叶った訳だ。 






 *『吉本隆明〈未収録〉講演集2――心と生命について』2015年1月10日・筑摩書房。 以下「吉本2015」と略記する。 そこで述べられていることは、法然や親鸞がそれ以前の仏道修行のあり方を否定して 専修念仏こそが仏道修行の根幹なのだとしたことの意味をどう捉えるか、ということ に尽きる。  


それはどういうことを意味するかというと、信仰の問題、宗教的な問題は、倫理の問 題、つまり善悪の問題に移し変えなきゃだめだということをはじめて自分たちが見つ けだしたわけです。(吉本2015・168頁。傍線・赤字変換評者)  


 まずわたしはここに躓いた。というのは従来の仏道修行のあり方を日常の次元に引 き戻すという点に立てば、確かに宗教の問題を倫理の問題に置き換えたというのは、 まあ理解できなくもない。しかし、親鸞をしてもっとも反‐倫理的位相に置くのが、 例のあの言葉ではないのか。 

 *厳密に言うと「躓いた」のはもっと後のことで、その当時(1996年)は何か凄いこと が言われているようだが、一体これはどういうことなのだろう、と思いつつ、とぼと ぼと吉本さんの親鸞関係の論著を手にするようになった。 


 いちばん極端な言い方ではっきりいっているのは、「善人なほもて往生をとぐ、いは んや悪人をや」ということです。(……) それは何を意味するかというと、信仰の問題 は倫理の問題だ、要するに世間一般、社会に通用している善悪の基準とは違う、浄土 というものの規模における善悪があって、それをかりに普遍的な(……)善悪だという言 い方をすれば、それでは普遍的な善悪とは何なのかとか、あるいはそれを信じられる 方向にいくべきだというふうに、宗教の問題を移し変えていったのです。(吉本 2015・168~169頁。傍線・赤字変換評者)  


 ここもわたし自身は躓いた大変な難所であるが、他の吉本さんの論著を参考にわたし なりに言い換えると、つまりはこういうことか。 

  信仰、宗教の問題は心理上の問題に内閉すべきものではなく、現実の生活や社会に根 を持つものでなければならない。しかしながら、それは現実的な倫理や善悪に縛られ る存在ではなく、それらを越えた問題であるべきだ。要するに世間一般、社会に通用 している善悪の基準とは違う、浄土、という言い方が語弊があるとすれば、生命ある 存在に留まることなく自然環境も含めた〈生命〉存在という、おそらくそれは「超越 的な規模の善(「悪」はない!)」と言うべきであり、それを我々は〈普遍的倫理〉 *、あるいは〈存在倫理〉**と呼ぶべきではないのか。そして、そこに至るには必 ずしも、親鸞がそうであったように宗教、信仰という回路を経なくてよいはずだ。  

*吉本2015・170頁。 
**吉本隆明・加藤典洋「存在倫理について」/『群像』2002年1月号。 及び本稿「 悪の倫理学・覚え書き その5 〈存在倫理〉について 」参照。  

 さて、ここ、ここに至って我々は本稿の振り出しに戻る。 わたしは本稿の「その2」において次のように書き付けた。  


 悪とは何か。それはずれである。社会的な通念としての正義とずれが生じるところに 悪が発生する。したがって根源的な意味での悪は存在しない。その意味では同様に語 の本来の意味での正義も存在し得ない。 さらに視角を拡げるのなら価値の問題に我々はぶつかる。すなわち価値は内在しな い、価値は他者との関係性においてのみ発生する。 しかしながら、ものなりひとなり、この世に存在するものはただ存在するだけでそれ だけの価値があるとするというのはあまりにも情緒的すぎるであろうか。 したがって私自身の考えはこうだ。価値、という語が誤解を生むのであれば別の言葉 に言い換えねばならないが、価値は内在する。正義や悪といった外的な尺度は時代や 文化の通念の問題に過ぎない。終了。 ところが、我々がこの考察から立ち去りがたく思うのはなぜだろうか。それは、恐ら く表層的な善悪と内在するとされている価値との懸隔を埋めたい、架橋したいという 根源的な望みがあるからではないのか。つまり、我々が悪をなしてしまうのは根源的 な善を希求しているからではないのか。無論、それはない、根源的な悪がこの世に存 在しないように、根源的な善も存在しない。それはあたかも神や仏がこの世に存在し ないのと同様に。 (「悪の倫理学・覚え書き その2」)  


 すなわち、われわれが引き続き考究すべき問題は以下の通りである。 

①内在する価値、すなわち吉本隆明言うところの〈存在倫理〉の問題。 
②根源的な善、あるいは吉本言うところの〈普遍倫理〉の問題。  
③  ①と②は実は存在しない、存在しないが、あるいは存在しないが故に、我々は「(現 実的な)悪を通じて、(存在しない、架空の)善」へと至ろうとするのだ、という問 題。  

 そして本稿は続く 



  吉本隆明の親鸞関係の論考、論著を備忘録的に以下に掲げる。蛍光色は全体が親鸞そ のものを扱ったもの。  

歎異鈔に就いて/『季節』第一輯・1947年7月/『吉本隆明全著作集4』 1969年4月25日・勁草書房。 
『最後の親鸞』1976年10月31日・春秋社/『増補 最後の親鸞』(「最後の親鸞」 ノートを付す)1981年7月25日・春秋社。  
3『論註と喩』1978年・言叢社。  
「ロゴスの深海――親鸞の世界」(梅原猛との対談)/『歴史と人物』1984年5月号 /『対話 日本の原像』(梅原猛との共著)1986年8月25日・中央公論社。  
『親鸞』(桶谷秀昭・石牟礼道子との共著)1984年10月・日本エディタースクール出 版部/1995年11月15日・平凡社ライブラリー。  
『未来の親鸞』1990年10月25日・春秋社。  
7『〈非知〉へ――〈信〉の構造「対話篇」』1993年12月25日・春秋社。  
『親鸞復興』1995年7月・春秋社。  
9「フーコーについて」『ちくま』1996年6~8月号/『吉本隆明〈未収録〉講演集 2――心と生命について』2015年1月10日・筑摩書房。 
10『宗教の最終のすがた――オウム事件の解決』(芹沢俊介との対談)1996年7月20日・ 春秋社。  
11『遺書』1998年1月8日・角川春樹事務所。  
12『親鸞〈決定版〉』1999年12月20日・春秋社。  
13『今に生きる親鸞』2001年9月20日・講談社+α新書。 
14『老いの流儀』(古木杜恵による構成)2002年6月25日・日本放送出版協会。  
15『思想のアンソロジー』2007年1月25日・筑摩書房。  
16「親鸞」(糸井重里との対談)/Webサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』2007年10月12日 ~25日(https://www.1101.com/shinran/index.html)。  
17『吉本隆明が語る親鸞』2012年1月16日・東京糸井重里事務所。  
18『フランシス子へ』(瀧晴巳による構成)2013年3月8日・講談社。 

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