三浦雅士試論Ⅲへの覚え書き
2018年7月11日(水曜日)晴れ 暑い 真夏日らしい
いま(12日の夜中)は雨が降っている。
別稿で述べたように、超ウルトラ・スーパー・デラックス貧乏になったので、必要なものも買えない。
村上春樹の新連載「村上T」所載の『POPEYE』も買えない。
新刊の予告を触れた、三浦雅士の『孤独の発明』も買えない。
悲しい。
発泡酒も一日一本、105円。
まーいいさ。
なんとかなるさ。ナルサーP38。
というわけで、一旦村上春樹論を捨てて、三浦雅士試論Ⅲの準備に入っている。
三浦雅士「白の三部作」を再読する。いまは『青春の終焉』を読む。以前読んだときは、こちらの理解力が伴わず、三浦が何を言いたいのか分からなかった。
むしろ、三浦は初期もモチーフ、テーマを失ったのではないかとさえ思った。
これは『出生の秘密』でも同様である。
恐らく、これは推測で言えば*、前者は小林秀雄論であり、後者は夏目漱石論に他ならない。
*というのは内容を全く覚えていないからだ。自分にとって重要な著者の、これまた重要な論著の内容を忘れてしまうというようなことがあろうはずがない。全く読めてなかったのである。
近代日本の名だたる批評家のなかで唯一漱石について触れてないのが、あろうことか近代日本の批評の祖とされる小林のみである、とは別稿で触れたが、この両者はあたかも合わせ鏡のように、相似形を示している。無論、自意識の闇こそ、この「双子」の出自である。
さて、この三浦の三部作を通じて、近代日本の自意識の系譜を辿ることになろうが、われわれは、この「なぜ小林は漱石を論じなかったのか」という問題をこそまずもって究明せねばなるまい。
🐤
2018年7月12日 01:09
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