🌌井上靖を読む🌌
「生きる」ことへの確信
〈要約〉
井上靖の短編集『石濤』は、晩年の作品群であり、作家の個人的な旅の記録や身辺雑記的な要素が強い。表題作「石濤」は、画家の作品を巡る物語に二重三重の仕掛けが施され、読者を引き込む。最後の短編「生きる」は、癌の手術前後を題材に、死の淵から生還した作者の生の肯定を力強く描いている。
Summary:
Yasushi Inoue's short story collection Sekito comprises
his late-life works, heavily featuring his personal travelogues and anecdotal
writings. The titular story, "Sekito," weaves a narrative around a
painter's artwork, employing intricate layers that captivate readers. The final
piece, "Ikiru" (To Live), inspired by his experience with cancer
surgery, powerfully depicts the author's affirmation of life after surviving a
brush with death.
■井上靖『石濤』2021年6月25日・新潮社。
■短篇小説集(現代・紀行)。
■目次
l 「石濤」
l 「川の畔り」
l 「炎」
l 「ゴー・オン・ボーイ」
l 「生きる」
■203頁。
■2488円(税別)。
■2025年2月6日読了。
■採点 ★★☆☆☆。
最晩年の作品「生きる」を除いて、しばらく単行本に収録されてこなかった短篇小説を集めたもの。その故か、頼まれて、何とか桝目を埋めた、といった感がある。話は行き当たりばったりで、特に小説らしい結構は持っていない。微妙な味わいがあると言えば言えなくもないが、良くも悪くも、人工的構成を、拒絶して、書きっぱなしのまま、読者の目の前に放り出されている。
とりわけ、パキスタンやアフガニスタンなどいわゆる西域の山岳地帯への旅に取材した「川の畔」、「炎」、「ゴー・オン・ボーイ」はその感がある。作者自身も書いたはいいものの、さて、どうしたものか、と思ったのか、あるいは、単に忘れていたのか、それは分からないが、ま、そんなところであろう。
比較的、読むに耐えるのが、表題作「石濤」と、最晩年、恐らく最後の短篇小説作品となった「生きる」である。
前者は清代初期に活躍した山水画家・石濤の作品がふとしたことから作者の家に紛れ込み、また、いつの間になくなった経緯を軸に、作者の身辺の雑多なことが描かれていく。恐らく、井上靖の作風からして、単に身辺雑記風の私小説めいたものを書く気はなかったのではないか。さらっと書かれているようでありながら、2重、3重の仕掛けが施されている。そもそも、単に読んでも面白い。ここが井上靖作品としては重要なポイントであろう。
「生きる」は食道癌の手術の前後に取材する。
物語、最後に立ち上がろうとして、武士達の亡霊に足をつかまれるが、辛くも、そこを脱した時に、初めて、作者は生きていることを実感するという、或る意味ではあざといとも思われる展開だが、実話とも取れる、そこまでの淡々とした描写が最後の作者の感懐を深く受け止める。
さて、帰ろう、と思った。立ち上がろうとした。ふらふらした。すぐ膝をついた。
こんどは、 ゆっくりと立ち上がったが、
また、 ふらふらして、膝をついた。脚がやたらに重く感じられる。併し、兎も角、自動車の待っている所までは、自分の足で歩かねばならぬと思った。
また、立ち上がった。それと同時に、
――放せ!
と、呶鳴った。夏草の中に匿れていた往古のも武士たちが、 いきなり獅噛みついて来た、そんな思いを持った。
また、足もとがふらふらした。草叢の中に、長く坐っていたので、足が痺れたのであろうか。
再び膝をつき、また立ち上がったが、ふらふらしている。その時、また、私は自分の脚にたくさんの兵どもの手が獅噛みついているように思った。実際に獅噛みついているのかも知れなかった。
ああ、何本かの手。一本や二本ではない。それぞれが夢と刀とを背負い、それを持って、どこへも行き場のなくなっている、往年の兵どもに違いない。
放せ! 私は幾つかの手を振り切って、立ち上がろうとする。やたらに、足がふらふらする。更にたくさんの手が獅噛みついて来る。
放せ! 私は強く振り切って、立ち上がる。執拗な何本かの手が、なおも獅噛みついて来る。両手で払い落す。
そして夏草の草叢の中を歩き出した時、足を踏みしめて、少し歩幅をひろくして、歩き出すことができた時、ああ、いま、俺は生きている、と思った。
退院して、二年経っている。二年、生きたのだ。
これからも亦、生きられるだろうと思った。生きなければならぬと思った。奇妙なことだが、退院してから初めて持った生きるということへの自信、〝生〟への、大きな確信だった。*[1]
佳品であろうかと思う。
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① 2112字(6枚)20250207 1241
② 20250223 1831
参照文献
井上靖. (2021年).
『石濤』. 新潮社.
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