これか!
ペンホルダー with ダブルクリップ
文房具を見たり買ったりするのがわりと好きなのだと思うが、切ったり貼ったりとかいう作業は大体会社でするので、そこでは個人的にはほとんど凝ったりしない。
すると個人の領域でということになると、書くという作業はパーソナル・コンピュウタ*や携帯電話で行うので、ひたすら読むことに関わることが個人としての文具の活躍する場ということになる。
*この「パーソナル・コンピュウタ」、パソコン、PCという呼称はなんとかならないか。「電子頭脳」、「電脳」というのは御道路御道路しすぎなのか。
*今や、パーソナル・コンピュウタが書く作業の主体になってしまったので、万年筆とかそういう王道のものではなく、読書に際して何で傍線を引いたり、書き込みをするのかということである。
結局のところ、ある特定の固定された場所で読書なり、原稿書きができればよいのだが、我々、一般のサラリーマンは移動を余儀なくされる*。その移動中にいかに個人的な知的生産ができるかという点に問題がある。
*この「余儀なく何事かを強いられるということ」は個人的には大変意味深いことだと思っている。自分にとっては、つまり主体的には選択できず、ある種「偶然」であるかのように人間の運命に降りかかってくる何か。これはいったい何か? この問題については、別稿「偶然(性)の倫理学」あるいは「偶有(性)の倫理学」を立てる予定だ。あくまでも予定だ※。
※以下の書目を参照。木田元『偶然性と運命』2001年4月20日・岩波新書。大澤真幸「平和憲法の倫理」/『現実の向こう』2005年2月1日・春秋社。
先に挙げた読書3点セットにしても移動という制限*があればこそなのである。それがなければ、大体のことは何でもいいということになる**。
*生命体にとってなにがしかの「制限」があるということはとても大切な意味がある。
**そんなことはないか。
さて、ここで本題にはいる。読書用の筆記具をいかにして携帯するのか、という問題である。
以前は胸のポケットに突っ込んでおいた*。しかしYシャツの胸ポケットが汚れたりする。あるいは自宅に帰ったときにそのペンはどうするのか、という問題にもなる。
*そもそもわたしは筆箱の類いを通常は持たない。すぐさま対応する必要があり、筆箱から取り出すのが手間だからだ。
したがって、手帳と同じように、筆記具をブックカヴァーに装着すればよいことに気づいた。しばらくはブックカヴァーに直接差していたのだが、それは、いささか、ニュウヨークに住むイギリス紳士に相応しくないので、携帯用のペンホルダーをブックカヴァーに取り付けることにしたのだ。
最初はビニール製のもので見た目が今一つだったが、それよりもゴムで装着するというのがよくなかった。つまりカヴァーがよれてしまうのだ。これもスタイリッシュではない。
で。これは長続きしなかった。
しばらくして、これもビニール製なのだと思うが、見た目が人造皮革様なので、ブックカヴァーとも合う。しかしゴム装着である。
では、このゴムによる装着をいかに改造するかという点だが、意外に簡単に解決した。
クリップで止めるのである。
最初は、正式名称をなんと呼ぶのか不明だがガチャックというスライド式のクリップで止めていた。とても頑丈に止めることができてよいのだが、問題点は大きさの違うブックカヴァー*を取り替えるときに、外すのが大変な手間なのだ。
*これも以前書いたが5、6種類ある。
*実は磁石で装着させるというのも考えた。実際にそういう製品も販売されている。が、今回は思考のなかで試行錯誤の後断念した。
かくのごとくして人類の文明は進歩していくのである。
2017年9月3日 11:49ー16:24
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