このブログを検索

2017年9月3日日曜日

「修行」の否定について 吉本隆明『吉本隆明が語る親鸞』

「修行」の否定について 

吉本隆明『吉本隆明が語る親鸞 




■吉本隆明『吉本隆明が語る親鸞 
■2012年1月16日・東京糸井重里事務所。  
■DVD・講演集(宗教・思想)。 
■2017年8月30日読了。 
■採点 ★★★☆☆ 

 本書は親鸞に関わる吉本の講演の音声情報を収めたDVDがメインである。従って親鸞についての講演集である『未来の親鸞』**とほぼ内容がかぶる。  


*残念ながらDVDは機械(プレイヤー)の問題でまだ聴いていない。 

**吉本隆明『未来の親鸞』1990年10月25日・春秋社。  


 様々枝葉に当たるものについても一言、二言ないこともないが、根幹の主題と考えられる部分については別稿 (「悪の倫理学・覚え書き その15」「スパイダーマンの糸」) において概略は述べておいた。 


 さて、本書も含めて何冊か吉本の親鸞関係の論著を通覧して漠然と感じた疑問が幾つかある。ここでは、その中の主要な論点を二つ挙げる。一つは、「これはもはや信仰とは言えない」という点だ。これは「スパイダーマンの糸」で既に触れた。 

 もう一点は「修行」の否定である。これは親鸞の信仰が、仮に信仰の形ではないとすれば当然とも言えるが、これについて、議論の余地はないのか。 
 それまでの仏道修行の基本的な形である「心を統一して」「肉体を痛めつけたり、精神を痛めつけたりする修行の果てに、浄土を思い浮かべたり、仏様の姿が眼の前に思い浮かぶようになったりすることには本当はなんの意味もないんだ」**「それは妄想に過ぎない」***とした上で、法然、親鸞は「言葉」、すなわち称名念仏を持ってくる。 

* ** *** いずれも本書・126頁。 

 確かに、当時の民衆のおかれていた時代状況を考え合わせれば、法然があらゆる物理的、精神的修行を一旦置いて**、称名念仏のみでよいとしたことは仏教思想、あるいは世界的な視野に立って、宗教思想、拡げて言って社会思想上においても画期的と言わざるを得ない。  

*「今も」と言っても過言ではない。 

**法然は必ずしも称名念仏以外の仏道修行を否定したわけではない(吉本隆明『思想のアンソロジー』2007年1月25日・筑摩書房・175頁)。 

 しかしながら、宗教が、あるいは宗教思想が、その根幹に、絶対的な何かを信じるという「信」、あるいはそれが、より組織だって「信仰」となってもよいが、それらの「宗教的信念 belief」を持たねばならぬとするのであれば、親鸞の言説は如何に思想的に、哲学的に優れていたとしても砂上の楼閣、いやバベルの塔のごとき空中庭園と言わねばなるまい。なんとなれば、何らかの修行的行為なくして「宗教的信念 belief」は得られないからだ。 

*必ずしも人為的、意志的な行為である必要はない、とわたしは考える。一見偶然とも思えるような外在的な、物理的、精神的「修練」もある種の修行と言ってよいだろう。むしろ親鸞はこの「人為的・意志的」なこ行為を禁止しているのだ。さすれば救済の可否はすべて「偶然」に左右されることになる。「偶発性」、「遇有性」こそがこの世界を支配しているのだと。 
  
 さて、さらに吉本は親鸞をして「世界的な思想家」としているが本当にそうなのだろうか。これは冒頭で触れた修行の意味をどのように捉えるかという点と密接に絡んでいる。 

*本書・228頁。 

 そもそも浄土教そのものを仏教思想史の上から捉え直すとどうなるか。例えば仏教思想史家の末木文美士 すえき ふみひこ は次のように述べる。 


元来の浄土信仰は他力救済的色彩が強いが、仏教本来の流れからいうと、必ずしも正統的とはいえない。仏教は本来修行をして悟りを開くことを目指すものであるからである。(末木文美士『日本仏教史――思想史としてのアプローチ』1988年2月・新潮社/1992年9月1日・新潮文庫・148頁。以下「末木1992」と略記する) 


 「正統的」か否かは一旦、一般の我々には関係がない。問題は後段の「修行をして悟りを開くこと」、すなわち「悟りを開く」ために「修行」が前提とされている点だ。 

 それでは「悟り」とは、仏教思想上の「悟り」とは何か。 

この現象世界の法則性、すなわち縁起*の原理を正しく認識することが悟りにほかならない。ただ、凡夫は煩悩によってこの事実を見る目が曇らされているから、煩悩の曇りを払い、正しい認識に向かって修行に努めることが必要なのである。(末木1992・176頁) 

*【評者註】「縁起というのはあらゆる現象世界の事物は種々の原因や条件が寄り集まって成立しているということ」(末木1992・174頁) 

 以上のように考えてくると、同語反復になるが親鸞は仏教の僧侶という枠はもとより、仏教思想的にも明らかに逸脱していて、そのこと自体は、確かに特筆に値するであろうが、世界的な標準でその思想を捉え返したとき、どう判断すべきなのか、やはり強い疑問が残る。 

 例えば法華経や、あるいはイスラーム哲学などに見られる構築的な生命哲学などと比べてみると、拍子抜けするぐらいだ。 

*井筒俊彦の広範な東洋哲学に関する論著。例えば『意識と本質――精神的東洋を索めて』1983年1月21日・岩波書店、など。 

 このような意味も含めて、吉本の周囲の人々が余りにも「安易に」吉本の親鸞論、親鸞像を受け入れ過ぎたのではないのか。 
 恐らく吉本の親鸞思想の受容は、例えばオウム真理教事件やISなどの具体的な、巨大な「悪」とされている現象を踏み石、試金石とすることで、初めてその意味を明らかにするのではないか 

*吉本隆明・芹沢俊介『宗教の最終のすがた――オウム事件の解決』1996年7月20日・ 春秋社。 吉本隆明「一九九五年 阪神大震災―サリン―そしてオウム」/『超資本主義』1995年10月・徳間書店。吉本隆明「社会現象になった宗教」・「わが情況的オウム論」/『吉本隆明〈未収録〉講演集〈6〉国家と宗教のあいだ』2015年5月10日・筑摩書房。などを参照。 

 まだ、吉本の親鸞論に関しては論ずべきことがあるように思う。いずれまた。 

2017年9月1日21:17ー9月3日21:22 
🐔 


善悪の問題 p.100-102 
なぜ信じられるのか?   p.151 
助行の否定 P.223 
色もかたちもない 阿弥陀如来は手段である p.230 
  
修行とは 

なぜ信じられる 

生命論への視角/死角 

井筒俊彦など 

0 件のコメント:

コメントを投稿