このブログを検索

2016年6月16日木曜日

〈意味〉、〈見せかけの和解〉あるいは〈不可答性〉について

🌀柄谷行人を読む🌀 

〈意味〉、〈見せかけの和解〉あるいは〈不可答性〉について 

  
■柄谷行人「マクベス論――意味に憑かれた人間」  

「マクベス論」が収録されている『意味という病』

■1993年4月1日 読了。 
■『文藝』1973年3月号/『意味という病』1975年・河出書房新社 /1989年・講談社文芸文庫。 
■短篇評論。  


 柄谷行人の文章には「~ではなく、…だ」という言い方が頻出する。~の部分は通来の思考に従えば必然的にそう言わざるを得ない判断がくる。…の部分は柄谷自身の思考だ。要するに常識を批判して自らの思想を述べるという言わばパターンといってもいい言い方である。しかし、柄谷の文章を読んでいて、心に残るのはむしろ「~ではない」という方で、「…だ」の方はよく頭に入らないことが多い。というのは「…だ」ととりあえず言っているが、実のところ言い切れていない。柄谷自身も言葉を捜しながら文章を書いている。簡単には言葉にはならないことを言おうとしているからだ。これは小林秀雄とよく似ている。似ているだけかも知れぬが。 

 その簡単に言葉にはならないということは柄谷自身がその初期から追求している〈意味〉の問題とかかわりがある。 

 例えば、この「マクベス論」で柄谷が描き出すマクベス像とは一体どんなものか。 

  

  マクベスは魔女と闘うのをやめたが、同時に彼はそこから引き返せというマクダフの誘いを拒ける。彼が拒けたのは自己の存在が無意味だという考えそのものであって、彼は自分を何であれ意味づけねばならぬこと自体を拒けたのである。彼が最後に抜け出たのは、いわば「悲劇」というわな、自己と世界との間に見せかけの距離を設定した上での和解へと導くそのからくりにほかならない。彼は「悲劇」を拒絶する。だが、「悲劇」を拒絶することさえをも、われわれは「悲劇」的と呼ぶべきだろうか。あるいはそうかも知れない。しかし、そうだとしたら、われわれに「悲劇」を脱却する道がないということは確かなように思われる。(文庫版・p.66) 
   

 ここで述べられていることほぼ3点。まず逆順になるが、第一に《「悲劇」というわな》について。いわゆる悲劇性とはそれがいかに悲劇的であろうとも、結局そのこと自体を通じて〈意味〉の回復がなされる。すなわち自己と世界が〈見せかけの和解〉をするということだ。これは非常に重要なことである。つまり、ほとんどの文学作品がこの〈見せかけの和解〉に陥っているといっても過言ではないからである。いや、しかし、それが文学というもの、あるいは人間というものではないか、いかにそれが見せかけであろうとも世界と和解なくして人間であることはできないからだ。成程、そのような反論は充分に成り立つであろう。なんとなれば、第二にその〈見せかけの和解〉、つまり〈「悲劇」というわな〉をマクベスは抜け出たというのだが、そのマクベスは果たして人間の形をしていたであろうか。そのような〈意味〉の拒否、〈悲劇〉の拒否を成し遂げた生すらも我々は悲劇という形で意味づけざるを得ない、これは一体いかなる事態なのか、というのが三点目である。 

 つまり柄谷行人は多くの文学作品が陥っているわなを乗り越えようとする意志を『マクベス』にみている。そしてそれは充分に柄谷自身の自画像である。しかし、そのわなからの突破はどうも成功しているとは言い難いようだ。そのような答えであって答えになっていない有り様、〈不可答性〉といってもよいが、これが柄谷をして言い淀ませるのである。〈不可答性〉の所以である。この後柄谷はいかなる方法でこの〈不可答性〉を脱却していくのであろうか。非常に興味深い点である。 

  

(初出:『鳥・web版』第9回更新・2001年11年21日) 

0 件のコメント:

コメントを投稿