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2016年6月16日木曜日

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』について








◇吉本隆明を読む◇ 


吉本隆明『言語にとって美とはなにか』について 

■吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1965年・勁草書房/『吉本隆明全集 8』2015年3月25日・晶文社。 

『言語にとって美とはなにか』が収録されている『吉本隆明全集 8』

■長篇評論(文学・現代思想)。 
■2016年5月19日読了。 
■評者採点 ★★★☆☆。 




 これは壮大な失敗作ではないのか?  こんなことを云うのは蛮勇の謗りを免れないだろうが、納得がいかない。 
 そもそも「言語にとっての美とは何か」という問題設定が間違っていないか。 それを云うなら「詩歌」あるいは「文学作品」にとっての「美」とは何か、であれば、まだ分からなくもない。しかし、そもそも「美」とは一体何なのだ、「美」を論ずるとは一体如何なる意味があるのか。そこから躓く。「言語」にとっての「美」とは、例えば、フランス語の発音が美しいとか、漢字などの表音文字の図像学的に美しいとか、そういうことではないのか。  
 百歩譲って、文学作品にこそ言語の美は現れているとしよう。しかし吉本は「表出」という術語を使っているが、主題や内容をことさらに排除して、「表出」面における問題点のみを論究している。吉本は「表出史」という観点に拘っているが、人間が書く文章においてそのテーマや作家が置かれた状況との影響関係を離れて、その表現の高低浅深などありうるのか?  
 江藤淳は本書のとりわけ冒頭の2章について《やさしい、あるいは自明なことをむつかしく語りすぎている》* と批判している。さらに江藤は吉本との対談において、これを敷衍するかたちで次のように述べている。 

 《吉本さんなどは、『言語にとって美とはなにか』での立論を見ても、余計なものはどんどん切ってしまわれる。(中略)あなたの表出論、あれはおもしろい考え方だと思うけれども、僕はああいうものを拝見していると、どうしてもあなたが切ってしまわれたものが気になってしかたがない。》**  

 要するに文学作品を「言語の美」という観点だけで論ずることが可能なのか、ということではないのか。 
 さらに云えば、第Ⅳ章 「表現転移論」において、近代の文学作品における「表出史」が展開されるが、「それから」、「道草」、そして「明暗」について触れた漱石論に至って、吉本の筆致は一変する。例えば平野謙が「それから」の主人公代助を「どら息子」と云うのを批判して、《この一篇のモチーフはやくざなどら息子の喜劇などではない。文明開化の近代の膨脹に彷徨をよぎなくされた知識と生活の運命を象徴するドラマなのだ。》*** と述べる。 
 実は、このような読解こそが文学作品を読む、読み解く愉しみに他ならない。これは果たして表出史の問題であろうか?  
 あるいは「道草」において、妻の出産に狼狽する主人公の遭遇するものを《日常の時間》ではなくて《根源の時間》とし、《ふしぎな思想的なかたまり(「かたまり」に傍点)をのみこんでいる》姿であるとしている**** 。まさに思想的な実在が文体を支えているのだ。 
 そして吉本は次のように述べる。 

《表出史としてみるとき、漱石の「吾輩は猫である」から「明暗」にいたる道すじは、一路緊張と上昇の連続だった。そして、すくなくとも「それから」以後の漱石は、いつも同時代の表出の頂きをはしりつづけたといってよい。このことは、日本の知識人のもんだいの内的なまたは外的な要因のすべてを、すくなくとも「それから」以後の漱石はごまかさずにじぶんの意識のもんだいとしてうけとめ、悪戦をやめなかったことを意味している。漱石はおおきな本質的な課題をかかえこんで、死にいたるまで緊張をとかなかった。その精神的な膂力は近代以後に比肩するものがないほどである。》***** 

ということは、漱石をして「同時代の表出の頂きをはしりつづけ」させたものこそ漱石自身が「おおきな本質的な課題をかかえこんで」いたからではないのか。漱石が抱え込んでいた主題こそがその文体を支えていたのではないか。 
 このように考えてくると、すなわち単に表出が存在するわけではなく、それを支える内的な、あるいは外的な衝迫の要請こそが(文学的)表出を在らしめているのではないか。 


 しかしながら、著者本人にとって、あるいはその当時の、あるいは後続の読者に与えた本書の意味については別に考えなければならぬだろう。 
 例えば柄谷行人は本書の文庫版の解説において、極端な言い方をするとほとんど内容については触れずに、マルクスの『資本論』との相似性について述べている。 


 《私が『言語にとって美とはなにか』から受けた最大のヒントは、何よりも言語・文学の問題が『資本論』の問題と通底するということであった。(中略) 私がそこから考えたのは、『資本論』が真の意味で「経済学批判」であるならば、それを言語学に適用することは真の意味で「言語学批判」たらざるをえないだろうという予感であって、『言語にとって美とはなにか』は、私にとって啓示的な書物であった。》******  


 つまり内容の正否ということではなくて、吉本がその当時、本書を通じてなそうとした巨大な精神的な構えこそが我々後続者をして震撼させるのではないだろうか。今のところそんな気がする。 

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* 江藤淳「『言語にとって美とはなにか』」/『週刊読書人』1965年6月28日号/『中央公論特別編集 吉本隆明の世界』2012年6月25日・中央公論新社・p.127。 
** 江藤淳・吉本隆明「文学と思想」/『文藝』1966年1月/『江藤淳 著作集6 政治・歴史・文化』1967年12月25日・講談社・p.237。  
*** 本書  p.200。 
**** 本書 p.216。 
*****本書 p.210。 
******柄谷行人「建築への意思」/吉本隆明『改訂新版――言語にとって美とはなにか』Ⅱ・「解説」・1982年2月28日・角川文庫(角川書店)・p.329。   


2016年6月16日 

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