小説の終焉、あるいは家族の終焉
三浦雅士『石坂洋次郎の逆襲』
■三浦雅士『石坂洋次郎の逆襲』2020年1月28日・講談社。
■長篇文芸評論(近現代日本文学)。
■2020年3月12日読了。
■採点 ★★★☆☆。
表題についてあらかじめ注釈を加えておくのであれば、厳密に言うと、単に「小説の終焉、あるいは家族の終焉」ではなく、「近代における近代的な意味での小説の終焉、あるいは近代における近代的な意味での家族の終焉」ということになる。
われわれは、「近代」*の暮れ方において、その時代精神を代表する「小説」あるいは「家族」の終焉に際会し、われわれ自身の新たなありようが問われているのだ。
*言うまでもなく、「近代」modernは日本語では「近代」、「現代」をも包含する概念である。
本書は内在的にそこまでの視野を持ちつつ、われわれに新たな問いを投げかけているのだ。
* * *
ほとんど忘れ去られたに等しい、往年の流行作家・石坂洋次郎*を発掘して、女系制家族論を軸に据えて再評価を迫る力作である。
*小説家。青森県生。慶大国文科卒。同郷の葛西善蔵に師事。教職時代に『若い人』『麦死なず』で文壇に認められ、作家活動に専念。戦後『青い山脈』『石中先生行状記』で国民的流行を得る。他『暁の合唱』『丘は花ざかり』『陽のあたる坂道』『光る海』等。昭和61年(1986)歿、86才(kotobank)。
そもそも、21世紀の、この段階で石坂の文名を知らしめる功は高く評価すべきであるし、小説とは何かという点でも、文明史的な観点から問い直されている。かつて美術家の荒川修作をして、三浦を「文明批評家」と言わしめたのもむべなるかなである*。
*荒川修作「建築、哲学そしてダンス」三浦雅士によるインタヴュー/『Art EXPRESS』No.1・1993年12月・新書館。
石坂洋次郎の名は長く、戦後民主主義を体現した、青春*映画『青い山脈』**の原作者として知られていた。
*「青春」なる概念、精神状況、心性は時代状況に関わっており、現在、死語になりつつあることを論証したのが三浦雅士の『青春の終焉』(2001年・講談社)に他ならない。
**原作は1947年、新潮社から刊行された。その後、その映画化が1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが、最も名高いのは1949年の今井正監督作品。主題歌の『青い山脈』は、日本映画界に限らず、広く知られている(「青い山脈」/wikipedia・2020年3月16日閲覧)。
しかしながら、石坂はその一本だけでその名を留めたわけではなく、晩年の三作品*を除くほとんどすべてが映画化されている、あるいは映画化を前提としてその小説作品が執筆されているのだ。まさに戦後の開放的な雰囲気、言うなれば、時代の精神を一身に負った時代の寵児だったのである。
*『ある告白』1970年・講談社。『血液型などこわくない!』1970年・文藝春秋。『女そして男』1972年・文藝春秋。
ところが、そのベストセラー作家が今はほとんど顧みられなくなった。そもそも、石坂存命中から、同時代の批評家たちからは、「中間小説」として一顧だにされなかったことからしても、石坂本人も含めて、当時の文壇は石坂の潜在的な力、言うなれば「可能性の中心」を捉えそこなっていた、いや、そもそも、そこに何らの価値を認めようとはしなかったことになる。
ところで、小説とは一体何だろうか?
三浦は、歴史人口学者エマニュエル・トッド*に言及して、次のように指摘する。「小説とはすべて家族論にほかならない」と(本書p.72)。何となれば、「イデオロギーを決定するのは下部構造すなわち経済ではない、家族形態だということだからである」(本書p.72)。つまり「社会において力を発揮するのは、階級構造ではなくむしろ家族形態がもたらすそういうイデオロギーなのだ」(本書p.72)。
*エマニュエル・トッド『家族システムの起源(Ⅰ) ユーラシア』2011年/上下・石崎晴己監訳・片桐友紀子・中野茂・東松秀雄・北垣潔共訳・2016年・藤原書店、など。
したがって、家族形態によるイデオロギーの変遷に影響を受けるのは、無論小説だけではないが、その内容、その主題、その形式、いずれも直接的にその波を受けているのは論を俟たない。
すなわち、近代的な恋愛、核家族の発生と、近代文学の隆盛が軌を一にしていることになる。
三浦は、戦後日本の「心性の変容が、家族形態の変容*と軌を一にして進行していた」(本書p.77)としたうえで、次のように論ずる。
*「直系家族から核家族へと変容する過程」(本書p.77)
新しい核家族をどう形成するかという問題は、新しい精神をどう形成するかという問題と表裏であった。/石坂の小説の多くがこの変容に取材していたことは疑いない。石坂だけではない。これこそ、半世紀ほど続いた日本戦後文学と呼ばれるものの、真の主題だったのではないかと思われるほどである。社会の大義名分から家庭の些事へと主題を移したとされる第三の新人も、また内向の世代も、この問題に深く関わっていることは明らかである。/増田みず子の小説『シングル・セル』*がいわばそのどん詰まりに登場するが、この小説が刊行されたのは一九八六(昭和六十一)年で、石坂の没年である。象徴的というほかない。一人家族――それこそ「おひとりさま」の世界だ――の増加とともに家族問題が失われたということだろうか。いや、人類が存続する限り、家族問題がなくなることはありえない。」 (本書p.78)
*「シングル・セル」は「単細胞」のことである(評者註)。
「一人家族」、「おひとりさま」、「単身家族」、「単身者」どう言い換えてもよいが、いわゆる近代家族が終焉に向かいつつあるとは言える。
したがって、近代的な家族がその命脈を絶たれようとしている今、まさに近代文学もまた、そしてその中心的な役割を果たしてきた小説という文学形式が同様の道を辿ろうとしているのだ。
家族の終焉、すなわち、小説の終焉に他ならないわけだ。
とすれば、石坂洋次郎の隆盛とその忘却はまさにこの事態を象徴する出来事だったと言える。
彼は戦前から既にして戦後的な、一見「平等」な男女関係を描いていた。実はそうではなくて女性の力を描くことに終始していた。その女性の明るさこそが「戦後的な解放感」なりを体現していたのであろう。
ところが、石坂自身が余りにも先を行き過ぎていて*、時代がそれに着いていけなくなり、そうこうしているうちに、石坂は自らの文学生活を閉じることになったというところか。
*先に言及した、映画化されなかった最後の三作品の共通する主題は「近親相姦」であった。
無論、石坂本人について、また本書についても、論ずべき点は多くある。
が、ここで指摘しておきたいのは、かの隆盛を誇った流行作家が何故にかくまで忘れ去られてしまったのか、という具体的な事実に即応した謎である。一つは三浦自身も指摘しているように、頂点とも言うべき最後の三作品が映画化されなかった、ということに謎があると思われる。このあたりの事情は、あるいは文芸批評の枠を逸脱するやも知れぬが、大変興味深い論点である。後の角川映画や東映の子供番組の制作方法に見られるある種のメディア・ミックスの先駆けと考えられる。文芸批評というよりもノンフィクションのフィールドに逸脱するが、当時の映画製作の状況が分かれば、大変有益だろう。
🐓
2020/3/17 18:15:55


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