🌌井上靖を読む🌌
歴史と一体化
【要約】
井上靖の『風濤』は、元寇前後の高麗を舞台に、史料を多用し、歴史そのものを描こうとした意欲作である。しかし、難解な漢文や注釈の多さから読者を選ぶ作品であり、歴史小説としての評価も分かれている。主人公不在とも言える構成は、歴史の不条理さと、それに抗う人々の精神を際立たせている。
Summary:
Yasushi Inoue's Fūtō
is an ambitious work set in Goryeo around the time of the Mongol invasions of
Japan, heavily utilizing historical sources to depict history itself. However,
it's a book that selects its readers due to the difficult classical Chinese and
numerous annotations, and its evaluation as a historical novel is divided. The
composition, which could be described as lacking a protagonist, highlights the
irrationality of history and the spirit of the people who resisted it.
■井上靖『風濤』1963年10月・講談社/1967年3月20日・新潮文庫。
■『群像』1963年8月号、10月号連載。
■長篇小説(歴史・時代)。
■目次(新潮文庫)
l 「風濤」参考図
l 第一部 全六章
l 第二部 全四章
l 郡司勝義「注解」
l 篠田一士「解説」
■300頁(新潮文庫)。
■476円(税別・新潮文庫)。
■2025年1月21日読了。
■採点 ★★★★☆。
目次
1 はじめに
本作は発表当時も、またその後の読者にとっても、極めて読み辛く、評価が困難な作品であったと思われる。
讀賣文学賞こそ受賞しているが、同時代の評価としてはもとより、後年の評価もいささかマイナーな作品として遇されているのではないか。
理由としては簡単で所謂「小説」の結構をとっていないことに依る。漢文の書き下し文が現代語訳なしで、そのまま挿入される。200箇所弱に及ぶ編注がつくほど、説明なしに当時のモンゴル語、高麗語の言葉が使用される。これはいったいどういうことか?
2 高麗の視点から描くモンゴルの軛(くびき)
元寇に至るまでを高麗の立場で描く。朝鮮半島の人々に課せられた元による様々な苛斂誅求を辛くもくぐり抜けるが、言うまでもなく2回に及ぶ日本征討は失敗に帰し、高麗の全土は荒野と成り果てる。ここには何も希望も幸福も、肯定的なものは何もない。
強いて言えば高麗の人々の、逃れることが絶対に不可能な状況での不撓不屈の精神とその行動力しかない。
さらに言えばここには一貫した主人公や中心人物はいない。高麗王は元宗から忠烈王に引き継がれ、その宰相は李蔵用から金方慶 へと引き継がれるが、小説的な意味での主人公とは言い難い。敢えて、そのような人物を探すとすれば、篠田一士もいうように*[1]、元皇帝たるフビライ汗ということになるが、彼の人間像は人間的であることを拒否した形で現れている。その意味では、ここにある主人公は歴史そのものとでも言うべきものだ。井上靖はそれを、恐らく相当意識して書いていると思われる。
3 歴史と一体化
煩瑣と思われる元―高麗間の交換文書などが漢文の書き下し文が挿入される。多くの読者はそこを読み飛ばすか、あるいはそのゆえに読書を中途で止めてしまうであろう。恐らく編集者から同様の指摘を受けたであろうが、井上としては、そこは引き下がれない点だったと思われる。歴史そのものに可能な限り推参するという意味で、是非とも、これらの歴史文書を味読されたい、という作家の意志の表れであろう。
井上には鷗外の舞姫の現代語訳があるが*[2]、何ゆえに、鷗外だろうか、と訝しんだが、鷗外が晩年に至る過程で小説、つまりは作り話から、史伝へと沈潜していったことが井上の意識にはあったのだろう。
4 歴史小説か否か
これは、ほぼ前作に当たる『蒼き狼』*[3]の存在があると思われる。
大岡昇平は『蒼き狼』をして歴史小説に非ずと断じた*[4]。要は歴史小説を名乗るのであれば、史料に基づき、史料を改変するなかれ、ということに尽きる[5]。その意味では、そもそも井上靖の書く、いわゆる「歴史小説」なるものは、その大半が歴史小説とは言い難い、単なる時代小説、ということになる。何となれば、そのほとんどが小説的空想力で構成されたものだからだ。
井上には井上の歴史小説についての一家言があるだろう*[6]。しかしながら、井上靖の書く小説に歴史小説や時代小説の区別が真の意味であるだろうか? あるいはそれらと現代小説と境目はあるだろうか?
以前、私は、『淀どの日記』をして、現代小説と見なすべきではないのか、と述べたが、それもおかしいかもしれぬ。井上はただ単に小説を書こうとしていただけなのだ。
とすれば、本作『風濤』は、大岡の批判を受けて、そんなものは幾らでも書ける、これがそうだ、としたのであろうか?
これ以降、同種の方法論を、とった作品は見られない。強いて言えば、『おろしあ゙国酔夢譚』*[7]がそれだが、時代の差もあってか、『風濤』ほど徹底されていない。
結局のところ、小説家は必ずしも、その文学的信念に従って作品を、書いているわけではなくて、読者に受け入れられるようなものでないと意味がない、と井上は十分過ぎるほど理解していたに違いない。
5 それにしても朝鮮民族の運命とは?
それにしても、井上の作品とは離れるが、朝鮮民族に課せられた運命のあまりの酷薄さである。地理的な制約もあってか、古来より、朝鮮半島の人々は他国からの侵略を甘んじて受けねばならぬ、運命とも言うべき苛烈な圧力を受けてきた。秀吉による壬申倭乱(朝鮮出兵)や、近代の日韓併合は言うまでもなく、中国や北方民族の侵攻も数多に及ぶ。現代においては南北への分裂を余儀なくされたのも、元はと言えば、米ソの対立がその根源にある。
とりわけ本作に描かれたモンゴルによる、有無を言わせぬ圧政の激甚さは言語を越えている。この世にこんなことがあるのだろうかと、目を塞ぐのみである。このような中で、なんとか、自国の自由や安楽を希い、人知を絞り抜き、果敢に行動した、高麗王朝の宮廷の人々の苦労が偲ばれる。
可能であれば、是非、韓国を中心に、何らかの形での映像化を望みたい。
参照文献
井上靖. (1960年).
『蒼き狼』. 文藝春秋新社.
井上靖. (1968年).
『おろしあ国酔夢譚』. 文藝春秋.
井上靖. (2021年).
『歴史というもの』. 中央公論新社.
篠田一士. (1963年). 「解説」(『風濤』). 著: 井上靖, 『風濤』. 新潮文庫.
森鴎外. (1982年/2006年). 『現代語訳 舞姫』. (井上靖,
訳) 学習研究社/ちくま文庫.
大岡昇平. (1961年/1962年). 「『蒼き狼』は歴史小説か――常識的文学論⑴」. 著: 大岡昇平, 『群像』1961年1月号/『常識的文学論』. 講談社/講談社.
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