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2017年10月3日火曜日

「白川静問題あるいは起源の忘却」 三浦雅士『人生という作品』

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「白川静問題あるいは起源の忘却」 

三浦雅士『人生という作品』 






■三浦雅士『人生という作品』2010年3月31日・NTT出版。 
■短篇評論集(漢字学・文学・芸術・舞踊・現代思想)。 
■2017年10月2日読了。 
■採点 ★★★☆☆ 

 以前、読みかけで中断していたのだが、あるきっかけがあって再び手に取った。 


 三浦雅士はたとえて言うなら鋭いナイフの刃先のような、或いは剃刀のような切れ味を持つ批評家だ。別の言い方をすれば詩歌を書き付けるかのように批評を書く。だから、その仕事は短篇、それも可能な限り短い批評にこそ、その力を発揮する。 
 本書も例外ではなく、文字学(グラマトロジー)に始まり、歴史の逆説を問い、安部公房、太宰を論じ、美術と舞踊の関係性、舞踊の最前線を語る。恐るべき射程範囲である。いずれも鋭い切っ先で問題点を露出させていく。いずれも大変刺激的で面白い。 

 しかしながら、冒頭の言に反することになるが、恐らく本書の白眉は、言い換えれば、書題にされるべきは漢字学者白川静を詳細に論究した「白川静問題」と「起源の忘却」ではなかったか。すなわち「白川静問題あるいは起源の忘却」と。 

 言うまでもなく、白川静は『字統』『字訓』『字通』のいわゆる白川字書三部作でその名を知られる不世出の漢字学者である。 

*順に1984年、87年、96年・いずれも平凡社。 

 三浦は、その白川がその名が高くなるほどに、斯界においてはほぼ黙殺されていくことを丹念に跡付ける。読むや、あたかも推理小説を読むかの如く、謎は繙かれていく。その姿は学問的探求者であるよりも、白川自身が漢字の起源の場に際会していたかのような、むしろ呪者のそれであるという。 
 例えば白川漢字学を象徴するものとして本書にも度々言及されているが、「口」という漢字の起源は目鼻口のそれではなく、「祝祷を収める器」を意味する「 **さい であったという。ことほどさように、ありとあらゆる漢字の起源が呪に持つものとされる。 

*厳密には旧字体「示壽」。 

** 

 しかしながら、では「呪」とは何か、そして漢字のこの呪的起源の忘却は如何にして生じたのかは白川自身の仕事としては未解決のままであるという。 
 三浦はこれを呪の終わりとしての孔子、及び象形文字と形声文字の断裂に見ようとする。しかし前半の「白川静問題」ほど、後半「起源の忘却」は成功しているようには見えない。 

 いずれにしても端倪すべからざるのは白川静の学的業績ではあるが、白川漢字学の射程は単に漢字の問題を超えて、文字そのものの問題、そしてその文字を使うに至った人間自身の根元の問題をこそ問いかけているのだ。 
  

20171002 02:19-20171003 22:31 
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