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2018年4月23日月曜日

いよいよ「Dの研究」完成間近か? 柄谷行人『内省と遡行』文芸文庫版刊行

いよいよ「Dの研究」完成間近か? 

柄谷行人『内省と遡行』文芸文庫版刊行 




■柄谷行人『内省と遡行』1985年・講談社/1988年・講談社学術文庫/2018年・講談社文芸文庫。 
■中篇評論集(哲学・現代思想)。  

📝ここがPOINTS 
①本書は未完ではあるが、そこに重大な意味がある。 
②連載中断になっている「Dの研究」は「力と交換様式」となるようだ。その際の「力」とは「霊的な力」である。 
③いよいよ「Dの研究」は完成間近か? 


 柄谷行人の『内省と遡行』が2018年4月12日、講談社文芸文庫から刊行された*。 

*本書はすでに講談社学術 文庫から刊行されている。講談社内のこのような文庫間の住み替えについては意図がよく分からないが、販売促進のためなのだろうか。以前も柄谷の『反文学論』が当初学術文庫に入っていたが、文芸文庫に移籍したことがある。あるいは学術文庫の編集部となにか方針などで合わないものがあったのか。そう言えば講演集も学術文庫に入っていたがちくま学芸文庫に移籍した。 



 1 未完成の意味 

 今回この件に触れようと思ったのは、新たに附された文芸文庫版へのあとがきで極めて重大なことが触れられているからだ。 
 言うまでもなく『内省と遡行』は「内省と遡行」及び「言語・数・貨幣」という、いずれも未完の論文からなっている。 
 これを言うと柄谷本人は嫌がるだろうが、小林秀雄の、やはり未完に終わったベルグソン論「感想」と比定されるものである。 
 未完に終わった、ということは言うなれば失敗作に他ならないわけだが、実はそこにこそ思想家本人が本来的に気づくことができない思想上の重大なポイントがあると考えられる。 
 俗に「デビュー作にその作家の全てが書かれている」とはよく言われることだが、同様に「失敗作、あるいは中絶作にはその作家の急所が書かれている」と言っても過言ではない。 
 したがってこれらの未完の作品は作家自身の本丸に攻め込むための重大な関門、隘路なのだ。 
 小林の「感想」は本人が禁止しているのだから全集に収録すべきではなかった*と考えられるが、柄谷は無論、他にも重大な未完、未刊行作品が存在する**ものの、その代表作たる本書は公刊してきた。ひとつの見識***だと思う。 

*小林の「感想」は長らく筆者本人が単行本、全集の類いに収録することを厳禁していることは多くの読者の知るところであったが、新潮社は2001年に刊行を開始した第5次全集、並びに第6次全集に「著者の遺志の了知を請う」ためとの名目で、全文を収録した。筆者の遺志を裏切る愚行と言わざるを得ない。必要だと思う研究者や批評家は図書館に行ってコピーを取ればよいのである。 

※新潮社ホームページ「小林秀雄全集」。 

**本書・「あとがき」によればこの『内省と遡行』に至るまで次の作品群が未刊行で残されているという。蛍光色のラインマークが未刊行。 
 つまり1974年の「マルクスその可能性の中心」連載開始から1985年の「探究」の連載開始に至るまでの、約10年間の柄谷行人の迷走、格闘の意味をこそわれわれは問わねばならない。詳細は、やがて書かれる別稿「柄谷行人試論Ⅰ 失われた10年」(仮称)を参照のこと。 

①「マルクスその可能性の中心」1974年・未刊行。 
②"Interpreting  Capital"1976年・未発表。 
③「貨幣の形而上学」1977年・未刊行。 
④『マルクス可能性の中心』1978年・①を大幅改稿の後刊行。 
⑤「手帖」1979年・未刊行。 
⑥「内省と遡行」1980年・『内省と遡行』(1985年)として刊行・本書。 
⑦「隠喩としての建築」1981年・『隠喩としての建築』(1983年)として刊行。 
⑧「形式化の初問題」1981年・『隠喩としての建築』(1983年)として刊行。 
⑨「言語・数・貨幣」1983年・『内省と遡行』(1985年)として刊行・本書。 
⑩「探究」1985年~1988年・『探究』Ⅰ・1986年、Ⅱ・1989年。 

***「むろん私は後をふりかえろうとは思わない。いいかえれば、自分の過去の仕事に、私的な意味づけを強いようとは思わない。したがって、「内省と遡行」と「言語・数・貨幣」という未完の論文を、そのままで読者の手に委ねたいと思う。」(本書・「あとがき」・学術文庫版・p.316) 

  
2 内部の自壊による外部への脱出 

 一頃、と言っても今を遡ること40年前ということになるが1980年代のニューアカ時代に柄谷は「外部」の思想家と目されていた。しかし、彼が「ポストモダン」派と見なされて、それを否定、批判する「批評とポスト・モダン」*を書いたように、外部についても同様に重大な誤解が蔓延している。 

*柄谷「批評とポスト・モダン」1984年/『批評とポスト・モダン』1985年・福武書店。 

 人は突如として外部に出られる訳ではない。むしろ徹底的な「内省」こそが「外部」に至る唯一の方途みちであることを示そうとして、残念ながら座礁してしまったのがまさに本書に他ならない。 
 柄谷は本書「あとがき」にて次のように述べている。 

「内省と遡行」において、はじめて真正面から言語について考えはじめたとき、私はいわば《内部》に閉じこめられていた。というより、ひとがどう考えていようと、すでに《内部》に閉じこめられているのだということを見出だしたのである。一義的に閉じられた構造すなわち《内部》から、ニーチェのいう「巨大な多義性」としての《外部》、事実性としての《外部》、いいかえれば不在としての《外部》に出ようとすること、それは容易なことではなかった。それは、内部すなわち形式体系をより徹底化することで自壊させるということによってしかありえない、と私は考えた。(本書・学術文庫版・p.315) 

 まさに文字通り、この二篇の論文に至る道筋において「自壊」を遂げてしまった柄谷はやむを得ず「探究」Ⅰ・Ⅱへと迂回路を辿り、『探究』Ⅲ、すなわち『トランスクリティーク』*に至り、いわゆる「交換様式」の問題へと突き当たり、今に至っているということになる。 

*柄谷『トランスクリティーク』2001年・批評空間社。 

 ところで柄谷は先の「あとがき」にて「私は後をふりかえろうとは思わない」*と述べていることを、先年行われた別の講演において言及して「三〇年前に未完に終わった「言語・数・貨幣」をこれから完成することも、考えています」と述べている**。 

*前掲。 

**柄谷「移動と批評――トランスクリティーク」2015年/『柄谷行人講演集成1995-2015』2017年・ちくま学芸文庫・p.280。 

  
3 「力と交換様式」 

 さらに今回の『内省と遡行』文芸文庫版「あとがき」でも、そのことに言及して、『トランスクリティーク』以来書き続けていたことが実はこの「内省と遡行」及び「言語・数・貨幣」で挫折した「形式化の問題」であること、そしてそれこそが「力と交換様式」であるとされているのである。 
  いうまでもなく、これは雑誌『atプラス』に連載後、中絶したままになっている「Dの研究」*に他ならない。つまり「Dの研究」はついに自らの主題を顕かにしたのである。 

*柄谷「Dの研究」現6回(中断)/『atプラス』23号~28号・2015年~2016年・太田出版。「Dの研究」の「D」とは柄谷が『世界史の構造』(2010年・岩波書店)などで展開した「交換様式」の4形態の4番目の象限に当たるものである。 
B 略取と再分配 
   国家 
A 互酬 
   ネーション 
C 商品交換 
   資本 
D X 
   X 
 (柄谷『世界史の構造』岩波現代文庫・p.15より図1と図2を接合した) 

  
  
4 「霊的な力」 

 そして、さらに瞠目に値することが、この「力」というのが「霊的な力」とされていることである。ついに柄谷も焼きが回ったかと批難するのはいささか早すぎる。無論、この場合の「霊的な力」とは実体的に霊が存在すると言っているわけではなく、人々が、彼らを交換に仕向ける力を「霊的な根拠」を持つものとして感受しているということである。 
 柄谷はかつて、日本人はいかなる事態に立ち入ったとしても絶対に憲法第9条は改正しない、改正できない、と述べ、その理由として日本人が持つ「無意識」に求めたが*、まさにそれこそがこの「霊的な力」に当たると考えられる。  

*柄谷『憲法の無意識』2016年・岩波新書。 

 したがってわれわれ読者としては「Dの研究」すなわち「力と交換様式」の完成、並びに「言語・数・貨幣」の、ほぼ40年ぶりの完成を刮目して待つ、ということに尽きる。 

 今回の、この『内省と遡行』の文芸文庫での再刊はその先触れの狼煙のように思えてならない。 

🐤 
□2018年4月23日 22:21 

2 件のコメント:

  1. >そして、さらに瞠目に値することが、この「力」というのが「霊的な力」とされていることである。

    およそ、あらゆる現象の背後には「力」が働いていると、我々は想定します。そういう意味で、力学的「力」も含めてすべての力は我々の観念の中にしか存在しません。

    ニュートンによって万有引力の法則が提示されるまでは、誰もそのような力の存在に気づきませんでした。それまでは、「ものはただ下へ行きたがっている」と考えられていたのです。現在ではほとんどの人が万有引力を「ある」と感じていると思います。ここで注意しなくてはならないのは、万有引力が「ものが下に落ちる」ということだけを説明しているのなら、「万有引力がある」と言うのは「ものが下に落ちる」と言うことは全く同じことで、言葉の言い方を買えただけであります。しかし、万有引力の法則はそれだけではなく天体の運行や弾道計算というような他の色々な現象を整合的に説明することができます。この「他の色々なことを説明できる」ということが科学では重要で、そこに万有引力の存在論的意義というものがあります。


    交換様式の背後に「霊的な力」を想定することは決して瞠目すべきことでも突飛なことでも無いと思います。ただその存在論的意義を主張するためには、「霊的な力」が数学的なベクトルとして表現できて、いろんな現象を整合的に説明できるようにならなければならないと思います。

    今のところ、柄谷さんの「霊的な力」は交換様式を成立させているだけのもので、「霊的な力がある」は「交換様式が成立している」の言いかえに過ぎないような気がします。

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  2. コメント、有難うございます。
    まさにそこのところが「Dの研究」が座礁仕掛かっている所以なのかもしれません。
    鳥の事務所

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