遍 歴 ~105~
自分の人生は自分で取り返そう、あるいはタックス・ヘイヴン異論
2017年11月22日 (水) 晴れ
とにかく寒い。そして時間がない。
新聞を止めよう。
携帯を別の会社にしよう。
もう疲れた。
2017年11月24日(金曜日)晴れ 暖かい
俺の部屋と寝床と心は凍えるばかりだ。悲しい。金もない。時間もない。やる気もない。何もない。
柄谷行人の『哲学の起源』を読みなおす。とても面白い。面白いと思えることがあるだけでも有難い ことと諦めることか。
どうせやがて死ぬのだから。
2017年11月27日(火曜日)晴れ とても暖かい
精神的な疲労と肉体的な疲労で何も手につかず。
昨夜、団地のゴミ捨て場で大量の古書を拾う。以前は旧版の漱石全集を拾ったり、テーブルや本棚を拾ったので、このゴミ捨て場には大変お世話になっている。
あまり古書が増えるのはどうかと思ったが、つまりもう置く場所置く場所がないので、迷った。
しかし昨夜は『資本論』全3巻、それも刊行100周年記念版で、とても重厚な装丁である。他にも宇野弘蔵編『資本論研究』やら『経済原論』、なんと、見田宗介のデヴュー作『現代日本の精神構造』、第二作『価値意識の理論』すらもあったのでゲットする。他にも聖書関係、福祉関係、共産主義関係とあったが、諦める。
世の中いったいどうなっているのか。何度も往復したので疲れた。
柄谷さんの『哲学の起源』の「イソノミア」関係の箇所を読むが、あくまでも「哲学の起源」が主題なので、当然ながら明確に「イソノミア」が論じられているわけではない。単に自由と平等が制度化された「無支配」とされているばかりだ。
結局のところ交換様式Dについて論ずるしかないのか。それは大変だ。連載中断となっている「Dの研究」の完成が待たれる。
というよりも積極的に働きかけていくべきだな。
たまたまなのだが、この「イソノミア」論に付随してNAMについて、具体的に(実践面)ではなく、理論的に再考すべきだと思って「これが民意なのか?」の目次に挙げておいた。
ほぼ同じ頃、柄谷さんは明治大学で講演をすることになっていて、その予定されていた演題は「資本の"力"とは何か」だったが、柄谷さんの公式ホウムペイジによると「NAM再考」に変わっていた。実際に何が語られたかは分からないが、偶然、シンクロニシティ*というものはあるものだなと思った。
*「意味のある偶然の一致」。カール・グスタフ・ユングの術語。河合隼雄により紹介された。
まー、そんなこともあり、しばらく柄谷さんの本や雑誌の論文を再読するか。
SK返済が余りにも重圧なので、新聞の購読を一旦止めることにする。残念。
携帯電話代も重圧なので、auに行って料金プランの見直しをする。安くはなるが、機種変更をせよとのこと。そこは別に望んでないんですけどね。まー向こうも商売だから仕方ない。
まったくどうでもいいが、新聞屋にせよ、携帯屋にせよ、いやにあっさりしている。わたしの業界なら、辞めますって客が言っても、そう簡単には辞めさせない。新規の客が来たら次の約束をした上で帰す。より具体的な話をして資料なども山ほど持って帰ってもらう。
つまりはうちの業界が、いやうちのKSが異常なんだな。そりゃTS者ががんがん出るわな。
昨年の冬からとても寒いことに気づいたので*、ついに我慢できず、格安の電気ストーヴを買う。山善なる会社で1600円(税別)。とても暖かい。執筆も捗る。しかし足元しか暖かくならないので(1600円ですから)、上にはウルトラ・ライト・ダウン・ジャケットを着込む。
*それ以前は休みもなく、あまり家にいなかったので、家が寒いことに気づかなかった、って寒いですか。
で、そんなことを言うと布団も薄い、というか夏布団の綿だけみたいなものを毛布とシーツを被って寝ているのだが、これが保温性がまったくなくとても寒い。
これも気づいたのは、つい最近なので、休みなしで働いているとそういうことになる。
そう考えると、本当にひどい人生を送ってきたなーと我ながら感心する。
まーいいや。20年ぐらい刑務所に入って、強制労働をさせられていたようなものだな。
自分の人生は自分で取り返そう。
そこで考えたのが、布団は高いので、寝袋を買うというアイデアだ。ネットで見ると-15度まで使用可と書いてあるので、これはバッチリだ。いつ家がなくなって、野宿をするようになったとしてもバッチリだ。
という訳で明日見に行こう。
ところで、今世間を騒がせていることのひとつに「タックス・ヘイヴン」の問題がある。いわゆる「租税回避地」のことだが、詳しくは別稿を起こす予定だが、各マス・メディアはあたかも鬼の首をとったかのような報道ぶりだが、ちょっと待てよ、その情報はどうやって手に入れたものなのか、究極の個人情報だが、そんなに簡単に露出していいものなのか。
そもそも節税の努力をすることが悪なのか、犯罪なのか、強い異和感を感じる。
もっと言えば納税の義務は本当に義務なのだろうか。国家が武力的な手段で「国民」から収奪するものが租税である。いうなれば国家的な規模で「国民」全体が国家によって恐喝されているのである。とすれば税も「みかじめ料」もなんら変わることがなく、国家とはいうなれば規模の大きな、文字通り「広域暴力団」に他ならない。規模が大きすぎて人々はその暴力性に気づかないだけなのだ。
さて、そんなわけで本日はなにもせず。
銀行に行ったりした関係で、すべてがストップ。
昼食はクラッシュした木の実のパスタ。
夕食は鶏唐揚げ・偽ジャーマンポテト・茹でモヤシのサラダ・茹でた野菜の脱け殻コンソメスープ。チョコパン。
今に至る。
🐔
■2017年11月22日 11:36ー2017年11月28日 01:16
■2467字(6枚)
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