これが民意なのか? その3
新たなる政治言説空間へ①
可能なる民主主義
――國分功一郎『来るべき民主主義』を読む
【改訂版】
■國分功一郎『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』2013年9月30日・幻冬舎新書。
■論著・啓蒙書(地方自治・住民投票・政治哲学)。
■2017年10月27日読了。
■採点 ★★★★☆
さて、先に行われた第48回衆議院議員総選挙の結果に関して、今さらながらではあるが、これは「民意」を正確に反映していないのではないかと述べた(その1)。
無論それは「小選挙区制」という制度がもたらす側面も当然あるのだが、公明党の立ち位置いかんによっては全く逆の結果になるということを小熊英二の所論にしたがって述べた(その2)。
そこで今回はその1においても予告していたように、そもそも現行の選挙制度を通じて成立している議会制民主主義の有効性はいかほどなのか、あるいは新たなる政治言説空間のようなものは存在するのかという点に関して、さらにもう一歩議論を進めたい。
気鋭の政治哲学者・國分功一郎の著した本書『来るべき民主主義』は簡潔にして、かつ独創的な好著である。 結論は極めて明快である。近代政治制度のごく一般的なシステムである議会制民主主義に基本的な欠陥があるというのである*。
*一旦ここでは地方行政のことはカッコに入れて議論を進めることとする。
われわれ国民は主権者として、国政に関わる最終的な決定権を所有するとされているが、よくよく考えてみると数年に一度やって来る「選挙」を通じて立法府(国会)への代表者を選ぶことしか、実はできない。
三権のうち司法権(裁判所)に対しては最高裁判所の裁判官についてのみ国民審査がある。
問題は行政府、すなわち内閣については「世論」、例えばマスコミ各社が随時行っている内閣支持率などを通じてしか意思表示ができないのであるが、無論これは憲法にも法律にも明記されていない、つまりは法的拘束力がないのだ。したがって、いかに内閣支持率が下降したとしても、ときの内閣は総辞職する義務 は発生しないということになる。
さて、問題はここにある。従来政治というものは立法権にあるとされていた。だから、数年に一度であろうと、その立法府の構成員が選ばれているわけだから、国民に主権が存するという前提を疑うものは誰もいなかった。 もし、民意が反映されてない、というのであれば選挙制度を変えればよいという議論に終始してきた。
ところが筆者・國分功一郎はとあること*から、この前提が 間違っているのではないかと気づいたのである。
*ことの発端は、國分自身が住民として住んでいる小平市に道路の建設問題が生じた。そこで住民のあいだから反対運動が起こり、次いで住民投票が行われたことによる。本稿では詳細を触れることができないが※、都道の建設を差し止めようとする住民の行動、すなわち行政に関与しようとすることが、「地方自治」という政体にも関わらず、大変に困難な状況にある、というよりも高い壁に阻まれて辿り着けないのだ。読んでいるとカフカの『城』(の悪夢)を想起させる。
※可能であれば、是非、現地取材の上で別稿を立てて地方自治、住民投票の問題について絞って論じたい。
これも冷静になってよくよく考えてみれば分かることなのだが、政治の実体は立法にはない、政治の実体は行政にあるのだ。無論、国会がおよそ基本的なことは法律で定める。
これもよく知られていることだが、法案は内閣が提出する閣法と国会議員が提出する議員立法の二種類がある。
例えば直近の通常国会(常会)の例を挙げてみる。2017年1月から6月まで開催された193回常会である。 内閣提出の法案が66本あり、そのうち63本が成立した。対して議員提出のものは136本あった。ところがそのうち成立したのはたったの10本なのである*。
*内閣法政局のホームページ(http://www.clb.go.jp/contents/all.html)。
法案の成立率は内閣案95.5%に対して議員案たったの7.4%なのだ。そんなに内閣の大臣たちは凄いのか、というと、無論そんなことはなくて、実際の行政の現場で長期的なヴィジョンを立て、細かい判断をし、従ってこれこれという法律が必要であると考え法案を練り上げてくるのは数多くの優秀な国家公務員、つまり、平たく言えば官僚、もっと平たく言えば役人たちなのだ。その数なんと約64万人。無論この64万人が全員、行政の基幹部分に関わっているわけではない(だろう)が、いずれにしても国政の重要な判断、決定は国会では行われていない*。その大半は行政の実際の現場で無数の官僚が下しているのだ**。
*だからといって国会や国会議員が不要だといってるわけではない。
**出典を今すぐ挙げられないが※、経済学者の野口悠紀雄は大蔵官僚出身※※だが、かつての大蔵省の役人たちはとにかくハードに仕事をしていた。大蔵省の地下に仮眠室があり、予算成立間際になるとみんな泊まり込み状態で、夜更けになると役人たちは代わる代わるその仮眠室に倒れるように束の間の眠りを貪ったという。そんなわけでその仮眠室はモルグ、すなわち「死体置き場」と呼ばれたという。
あるいは、彼らはありとあらゆるところから税収を得られぬものかと電車に乗っているときでも目を凝らして探し回ったというエピソードが紹介されていたが、つまりはそれほど(今はどうか不明だが)、役人たちは真剣に行政に取り組んでいる(いた)ということで、それ自体は大いに結構なことではある。
※確か『「超」勉強法』(1995年・講談社)か『「超」整理法』(1993年・中公新書)だと思うが探しきれなかった。
※※現在の財務省。
問題はそこに主権者である国民が関与するチャンネルが皆無に等しいということであり、そしてこのことを恐らく今まで誰も指摘しなかったということにある。
そこで國分はフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの「制度と法」についての考えに依拠した上で次のように述べる*。「法は人の行為を制約する。それに対し、制度とは行為のモデルである。」したがって「法は社会の起源に見出されるものではなく、制度の後に来るもの考えられる」。つまり「法という否定的・消極的なものによってではなく、制度という肯定的・積極的なものによって社会を定義する新しい社会観」がここに浮かび上がってくる。
これを国家の政治に当てはめれば「法が多ければ多いほど国家は専制的になる。それに対し、制度は行為のモデルであるから、制度が多ければ多いほど、国家は自由になる。」
*本書・144-145ページ。
以上の議論の上で、ドゥルーズは次のように結論づける。「専制とは、多くの法とわずかな制度をもつ政体であり、民主主義とは、多くの制度とごくわずかの法をもつ政体である。」*
*ジル・ドゥルーズ「本能と制度」/『哲学の教科書』加賀野井秀一訳・2010年・河出文庫76-77ページ//本書・146ページから援引。
したがって主権者である国民 が立法権ではなく、公的な形で行政権に関与できるシステムを構築すべきだということになる。
さて、ここからが、わたしの個人的な感想を言えば、いささか歯切れが悪い。
無論、先の所論に従えば多くの制度があり得るわけだから、その考えに従っていくつかの提案がなされる*。
*本書「第四章 民主主義と制度――いくつかの提案」。
一つ目として、本書のきっかけともなった「住民投票」であり、二つ目として「審議会などの諮問機関の改革」、三つ目として「行政・住民参加型のワークショップ」、四つ目として「パブリック・コメントの有効活用」が挙げられている。
なるほど、このような、ある意味で地道な住民の努力というのは大切だと思う。棚から牡丹餅的にありうべき民主主義が天から降って来るわけにはいかないのであるから。
しかしながら、やはりいささかの異和感を禁じ得ない。國分は「根本から変えることなどというのは実に難しい」*というが、本当にそうなのだろうか。
*本書・143ページ。
本書の表題「来るべき民主主義」は、フランスの哲学者ジャック・デリダの言葉に拠っている*。國分はこのデリダの言葉には二重の含意があるとしている。一つは、「民主主義というのは「常に来るべきものにとどまる**」」ものだ、「つまり常に実現の手前にあり、十分ではないものであり続ける***」という意味と、もう一つは、だからこそ「民主主義を来らしめねばならない****」のである。
*本書「第五章 来るべき民主主義――ジャック・デリダの言葉」。
**「とどまる」に傍点。
***「あり続ける」に傍点。
****「来らしめねばならない」に傍点。
もちろん、そうなのであろう。わたしはフランス語を解さないので、デリダの原文での意味は不明ではあるが、國分の解釈で妥当なのだと思う。
しかし、日本語で捉え直すとすれば、そのような持って回ったような言い方をしなくてもよいのではないかとは思う。すなわち、「来るべき民主主義」とは「これから来るであろう民主主義」、より端的に言えば「未来の民主主義」ではないのか。思想家の東浩紀の用語を借用すれば「民主主義2.0」である。
おそらくそれはいわゆる市民運動・住民運動・消費者運動という枠を越えて、それらの既成概念を根本から覆す形で、市民の行政へのアクセスを可能にするのではないか。また、そうあるべきなのではないか。
マルクスの言葉を借用すれば、それは「可能なるコミュニズム」*ならぬ「可能なる民主主義」なのである。
*「もし連合した協同組合組織諸団体が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、〝可能なる〟共産主義以外の何であろう」カール・マルクス『フランスの内乱』1871年/柄谷行人編著『可能なるコミュニズム』2000年1月1日・太田出版・9ページより援引。
次稿、東浩紀の『一般意志2.0』に依拠してこの問題を展開する。
要御期待。
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■20171108 09:37ー1110 01:49
■4422字 (400字詰め原稿用紙換算11枚)
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