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2017年9月12日火曜日

西洋哲学史の根本的な読み変え   木田元『ハイデガー拾い読み』

 木 田 元 を 読 む  


西洋哲学史の根本的な読み変え 

木田元『ハイデガー拾い読み』 







木田元『ハイデガー拾い読み』 
2004年12月・新書館/2012年9月1日・新潮文庫。 
■長篇評論・啓蒙書(哲学)。 
■2017年9月12日読了。 
■採点 ★★★☆☆ 

 冒頭、あるいは「あとがき」の木田さんの話によると、ハイデガーの著書は確かに難解だが、その講義録は著書と打って変わって、噛んで含めるような論行で、脱線もあって大変面白いという。なおかつ哲学史を根本から覆すようなことをさらりと言ってのける、らしい。 

 実際読んでみると、なにやら現代の思想家たちのような講演の速記のようなものを想起していたのだが、当然そんなわけはなく、わたしのような素人からすると、難解さはあまり変わりようがないのだが、それなりに、というのはわたしのような哲学史やギリシャ語、ラテン語、ドイツ語に疎い者でも、それなりに面白い。 
  
 哲学史を根本から覆すようなことも、わたし自身が哲学史的な背景を分かってないので、今一つピンと来ないこともあるが、幾つか感想めいたことを書くとすれば、ハイデガーを考えるのに、その先行者であるところのフッサールであったり、デカルト、カントについても検討すべきなのはもちろんのことだが、それにとどまらず、ソクラテスやプラトン、アリストテレスといったギリシャの哲人たちへの論究が大変多いということだ。 

*例えば「実在性」と「現実性」はどう違うのか(第二回)、とか、「世界内存在」の生物学的由来だったり(第三回)とか。 


 これはハイデガー自身もそうなのだが、木田さんも恐るべき深度でギリシャ哲学の様相を的確に把握しているのだ。これには驚いた。 
 プラトンをはじめギリシャ哲学については若年のころいささかかじったものの、幾つかの疑問を残したまま、そのまま放置していた。 

*そもそもプラトンのイデア論からして未だに分からない。今、にわかに出典箇所を明示するのは困難ではあるが、確か田中未知太郎(岩波版全集の解説、及び『プラトン』4部※※など)や藤澤令夫のりお(岩波版全集の解説、及び『ギリシャ哲学と現代』※※※など)、あるいは竹田青嗣(『プラトン入門』※※※※)なども、「イデア論は二元論ではない」と言っていたと思うが、ここがすでにして躓きの石なのだ。詳細は別稿「悪の倫理学」の続稿にて論じる。 

※田中未知太郎・藤澤令夫編『プラトン全集』全14巻・1975年・岩波書店。 
※※田中未知太郎『プラトン』全4巻・1979年ー1984年・岩波書店。 
※※※藤澤令夫『ギリシャ哲学と現代』1980年・岩波新書。 
※※※※竹田青嗣『プラトン入門』1999年・ちくま新書。 

 今般、約30数年ぶりに「悪の倫理学」の筆を執るに当たって大変参考になる視点を幾つも得た。有り難いことだ。 

 ハイデガーの講義録はギリシャ以来の哲学上の古典的作品の逐語読解の形をとる。すなわちそれを読むことは西洋哲学史の根本的な読み変えを読者に強いることになる。本書でもその片鱗は窺えるが、読みながらふと想起したのが、文脈は全く異なるが、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』の、対象に対する徹底性、構築性、あるいは、言うなれば建築性といってもよいかもしれぬ言語的な態度である。思えば柄谷行人も旧版の角川文庫版『言語美』の解説**で、本文の内容にほとんど触れずにマルクスの『資本論』***との相似性を述べていた。  

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1965年・勁草書房。 
**柄谷行人「〈解説〉建築への意志」/吉本隆明『改訂新版言語にとって美とはなにか Ⅱ』1982年・角川文庫。 
***カール・マルクス『資本論』全3巻・1867年ー1894年。 

 巻末に文芸批評家の三浦雅士が卓抜な解説を寄せているが、デカルトの「我思うゆえに我あり」の「思う」というのは「感じる」という要素と「考える」という要素を含むとした上で、カントの「超越論的観念論」とは、「文学と哲学という視点から見れば、超越論的というのは実際には言語論的ということである。言語こそ超越論的なもの、人間を超越論的な存在にするものなのだ。」とした上で、「ハイデガー自身がまず何よりも文芸批評家だったのではないか」と言うのだが、まさに我が意を得たりとはこのことである。 

*三浦雅士「木田元はなぜ面白いか」/本書。 
 これは凄い。単に文庫本の解説の閾を越えて、つまり木田元の『ハイデガー拾い読み』の解説でもなければ、木田元論でもない、より広く木田元の置かれている思想的状況を論ずる、一篇の作品としての文芸評論になっているのだ。 
 サリンジャーから始まり村上春樹に言及し、リルケへと至り、解説が始まり6ぺージになって、やっとハイデガーが登場するというものだ。すなわち20世紀の精神史を通して、哲学と文学の相似性を論じ、究極のところでハイデガー以降の哲学は文芸批評なのだと断定する。恐るべき文庫解説である。 
 思えば三浦さんは自身が主宰する詩誌『ユリイカ』、思想誌『現代思想』(いずれも青土社)の編集後期後記で、一篇の散文詩を思わせるような、編集後記にあらざる編集後記を書いていた。 宜なるかな、である。 これについては別稿を起こす。 

※これは後に単行本としてまとめられた(三浦雅士『夢の明るい鏡――三浦雅士 編集後記集1970.7~1981.12』1984年6月30日・冬樹社)。編集後記だけで一冊の本が作られるなんて通常はあり得ないことだ。 





□カントのカテゴリー表 「偶有性」、「必然性―偶然性」 39頁。→大澤真幸 参照。 
□ヤーコブ・フォン・ユクスキュルの「環境世界理論ウムウェルテンレーレ」 66頁。→ソシュール、丸山圭三郎 参照。 
□「ある」ことと「なる」こと  140頁。→田中未知太郎『プラトン』第Ⅳ部 参照。 
□【大変重要】プラトンのイデア論をそれだけを抜き出して論じてはいけない。 175頁。  

20170912 12:57ー15:16 

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