このブログを検索

2017年1月19日木曜日

■柄谷行人「建築への意思」




■柄谷行人「建築への意思」/吉本隆明『改訂新版――言語にとって美とは何か』Ⅱ・「解説」・1982年2月28日・角川文庫(角川書店)。 

■解説(文学・言語・思想)。 

■2016年5月5日読了。 


 今となっては仲違いしたままの両者だが*(と云っても吉本さんは鬼籍に入られているが)、正に奇跡とも云うべき柄谷行人の吉本論である。 
 要は吉本の『言語美』を、漱石の『文学論』あるいはマルクスの『資本論』、さらにはソシュールの言語哲学と同じ地平から考えうるとするものである。 
 例えば為さねばならぬ困難の規模からすると小林秀雄の西田幾多郎評を引いて《デッド・ロックそのものを自ら発明し且つ征服する》としている。 
 また、本書が柄谷をして、『資本論』を「言語学批判」として読みう得ることの《啓示》になったという下りは大変示唆的である。 

本論考は以前、柄谷の単著『隠喩としての建築』(1983年・講談社)で読んでいた。今回、吉本の『言語美』を読むに際して再読して大変驚くべき内容であることが判った。 



 □柄谷行人「孤独なる制覇」/『吉本隆明を〈読む〉』1972年・現代企画室(『心的現象現象論序説』書評)p.311 
 □自立・自己本位 《どこにもアイデンティティを求めることを拒絶したあげく、もうなんのためでも誰のためでもない、ただ自分の気のすむまでやるほかはないというようなことではないのか。》p.312
□《本書の叙述は『資本論』と同じく弁証法的な叙述である。》p.317 
 □表出→自己←対他 p.319 
 □自己表出・指示表出/価値・使用価値 pp.320-325 内在する価値は価値ではないのか? 
内在的価値 使用価値 交換価値 本質的な価値 現象的な価格 
 □ソシュールは何を悩んでいたのか p.327 
  

   

……………………………………………………………………… 
* 私の知る限りでは、柄谷は吉本の死に際しても直接的なコメントは一つも出していない。しかしながら後に柄谷は自らの仕事が日本のマルクス主義者たちの伝統の産物であると述べている(柄谷行人/ジョエル・ウェインライト「移動なくして批評なし」2012年/『現代思想』2014年1月臨時増刊号「総特集=柄谷行人の思想」p。170)。そこには、宇野弘蔵や丸山真男と並んで吉本の名がさりげなく挙げられている。近年、あれほど苦手だといっていた体系的な書物を書き始めたのも宜なるかなである。

0 件のコメント:

コメントを投稿