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2018年3月2日金曜日

「尾根道をたどりながら」 西部邁の尊厳的自死について

「尾根道をたどりながら」 

西部邁の尊厳的自死について 



 先日、評論家の西部邁が亡くなった。報道によると自殺とされている。人の生死に関わることを軽々と論ずる訳にはいかぬが、 いささかならず、割り切れなさを感じ、追悼の辞とは別に本稿を起こす所以である。 

 そもそも死者に鞭を打つことを避けるのは人としての当然の美風である。 
 大方の、西部の自裁については残念ではあるがやむ無し、むしろ潔いという見方が大勢を閉めているのか、この件についての批判は見られない。 

 モーリス・パンゲの『自死の日本史』*を待つまでもなく、日本人は古来より自死に大きな価値を認めてきた。所謂「切腹」がそれにあたるが、わたしがここであえて申し上げたいことは、それは本当に正しいことなのか、ということである。  

*モーリス・パンゲ『自死の日本史』1984年(原題はLa mort volontaire au Japon「日本における意志的な死」)竹内信夫訳・筑摩書房・1986年/ちくま学芸文庫・1992年/講談社学術文庫 2011年。 
 本書に関して、西部邁は次のように語っている。 

モーリス・パンゲというフランス人の日本学者がいて、『自死の日本史』という本が筑摩書房から出ています。それを読んで僕がもっともかなと思ったのは、こういう説なんです。/なぜ日本人は腹を切るか。モーリス・パンゲは、腹切りの思想がわかったと言うんですね。それを僕の言葉で解説すると、これ以上生きるほうを選んでいると、たとえば心ならずも僕が 黒鉄さんを裏切るとか、やっちゃいけないとつい1年前に言ったことを自分でやってしまうとか、そういうことが起こり得ます。つまり生きることには、何かしら裏切りとか、堕落 とか、汚辱とか――僕はピューリタンじゃないから、それを毛嫌いしているわけではないんですが――そういう本来拒否すべきものが濃厚に伴いますよね、生き延びようとすると。それがぎりぎりまでくると、神にも仏にも頼らずに、自分の命を抹殺してしまうことで、汚いと自分の思っていることをしないですむというのです。/うろ覚えなんですけど、そのことをこういう言い方をしていた。形而上学  ――この場合は宗教 ですね――に頼らずに自分の生に伴う虚無感 、価値あるものは何もありはしないという虚無感を吹き払うために、死んでみせることを選び、選んだことを一つの文化 に仕立てたのは、世界広しといえども、世界史といえども、日本人だけである。そういう日本礼賛なんですが、これはなるほどなと思いました。 
(西部邁・黒鉄ヒロシ『もはや、これまで――経綸酔狂問答』PHP研究所・2013年)  

 すなわち、自らの死をもって何らかの価値を宣揚するという日本の倫理観は間違いではないかと言いたいのだ。 
 さらに言えば、自殺は自らを殺害することである。だから、自分自身による自分自身の殺人である。従って、自殺者は決して美化してはならず、殺人罪で書類送検、場合によっては近親者への罰金をも検討すべきである*。  

*柄谷行人・村上龍「時代閉塞の突破口」2001年/『NAM生成』2001年・太田出版。 

 西部の場合、その思想的理由もさることながら、病気の問題と配偶者を亡くしたことも大きいとされている*。しかし、なおさらのこと、思想を語るものが生命を軽視してはならない。 


*田原総一朗・猪瀬直樹「追悼西部邁」/『週刊 読書人』2018年2月16日。 

 わたしは西部の「尾根道をたどりながら」という言葉*が好きだった。一旦なにがしかの言説の旗を掲げたのであれば、急峻な崖が左右に口を開く尾根道を最後まで歩み続けて欲しかった。



*西部邁・長崎浩『〈現在〉との対話6――ビジネス文明批判/尾根道をたどりながら』1986年・作品社。 


 日本では、中高年の自殺者が多いとされている。様々な事情があるとは思うが、根本的には「価値は外部に存する、価値は対外的な関係性、対外的な評価に存する」という考え方、社会的なシステムを根本から否定すべきである。これを転覆して、「存在そのものにこそ価値がある」という考え方、システムを構築せねばならないのではないか。 

 だから、決して死んではならない。「死んで花実の咲くものか」という平凡な諺言は、平凡ゆえに人生の非凡な真実を突いているのではないか。  


 2018年1月28日ー3月2日 

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