三浦雅士――人間の遠い彼方へ その9
「文芸としての批評」とはどういうことでしょうか。三浦さん自身がこれについて他のどこかで語っているところを少なくともわたしは知りません。したがって、これは三浦さん自身の考えではなくて、あくまでもわたしが勝手に想像した内容に過ぎません。また、これについては後に詳しく論ずることにします。
前章で述べたように「「言語」の究極の形が「詩」であり、「詩」の根本が「文芸」、つまり「文」の「芸」である」という意味で、批評も「文芸」、「文」の「芸」であるべきだ、ということだと、一旦は理解できます。「芸」は「芸術」、「芸能」どちらでも、一旦は構わないが、わたしの頭にあるのは或る種の「技能」、「職能」に近いとも言えるので「芸能」だろうか。何でもかんでも横文字にするのはいい趣味とは思えないが、「技術」という意味での「art」ということになりましょうか。
その上で「批評」とは何ぞや、ということを考えてみることにします。
そもそも批評とは何らかの他者の手になる作品の善し悪し、出来
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言うまでもなく、「自然」を「批評」の対象として「発見」されるためには内面が「発見」、というよりも「発明」、形成されねばなりません。無論、この経緯を最初に明らかにしたことになっているのが、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(1980年・講談社)であるが、同書の影響力は相当強いものがあって、言うなればその段階での「日本近代文学史」の「勢力地図」を塗り替えてしまったのだが、個人的な意見としては、ちょっといろいろ言いたいことがあるのです。 詳細は別稿「「漱石試論」を読みなおす――日本近代文学の起源と終り」で展開する予定だが、そもそも、『日本近代文学の起源』冒頭は「風景の発見」だが、柄谷は國木田独歩の「忘れ得ぬ人々」(1898年)に「風景の発見」を見ているが、この作品に「風景」が「発見」できた人、はい、手ーあげて! と、言いたいぐらいで無理無理ではないのでしょうか? 本当に「風景」は「発見」されたのですか? 無論、わたしは柄谷さんの業績を貶めて言っているわけではありません。 通読すれば、柄谷さんの主題も理解できます。 が、この作品が未完成であることは柄谷さん自身も述べているが*、偶々、柄谷さんがアメリカの大学で日本近代文学について講義をすることになり、そこでの思い付き(失礼、「発見」と言うべきですね)を、徒然なるままに書き始めて、雑誌に断続的に掲載し、それを、ほぼそのまま単行本として上梓する。――分かりづらいのは当然なのです。 *柄谷行人「定本版への序文」/『定本 柄谷行人集 1 日本近代文学の起源』2004年・岩波書店・p.2。 恐らく、既にして柄谷さんがこれを書き直すことはないだろう。ということは誰かが、要約、再編集するべきなのでは。題名は「シン・日本近代文学の起源」となるのでしょうか? 📓 |
コラム~「風景」は「発見」されたか?――柄谷行人小論~
不出来を論ずるものでしょう。実際には人為的な製作物以外にも、
勿論、論ずることはできるし、そういう批評も存在するでしょう。言うまでもないが、そのような「自然」そのものも「批評」の「対象」として「発見」された段階で、それは「人為的な」何物かに変質してしまうのです。
つまり、言葉として摑まれたものはもうそれは既に「言葉」の世界に入っているのです。
いずれにしても、批評には論ずるべき「対象」が必要とされます。
とりわけ狭義の「文芸批評」には、まずもって「対象」となる「作品」が存在し、それを論ずる、評価する、説明する、解釈する、そのような言語行為を行うのが「批評」だとされてきました。
とすれば、当然のことながら、この問題は、先に触れておいた、「文庫解説の自立性」の問題と全くの相似形を成していることに気づきます。つまり、文芸批評、あるいは批評一般の自立、あるいは対象となる作品からの乖離の問題です。
すなわち、まず「作品」が存在する。それの価値判断をするのが「批評」です。だが、長らく批評は作品の添え物でした。ところがある段階で、批評が自らの力、権威を持ち始めたのです。だから、誰が、何を褒めているのかが問題になったのですね。言うなれば、小林→江藤/吉本→柄谷といった日本の批評史がそれを物語っているのです。繰り返しになるが、小林が典型的な例だが、何を語っても要するに自分のことではないか、という批判です。それで批評といえるのかということですね。しかし、仮に自分をなくして何事かを語ることなどできるのでしょうか。無論、作品に即して、逐語的に語釈を述べたり、一般的な解釈を展開することが批評というのであれば、そうかもしれないが、まさにそれこそ、文庫の解説に他ならないわけです。
批評はそこから自立したのです。まさに自分を語ることによって。
それと同時に「テクスト論の嵐」が吹き荒れました。それと伴って、ポストモダンの嵐も吹き荒れて、批評は、一般には「超難解」なものになってしまいました。
本来批評はやはり、何らかの作品、先行する複数の作品群、論考に依拠する形で論じられるものです。まず前提となる予備知識が不十分だと、当然全く理解できないものです。
少なくとも、例えば、小林にせよ、吉本にせよ、あるいは1980年代初頭に流通していた様々な批評は、当初、わたしには全く理解できなかった訳です。これらの論者の主旨が朧気ながら理解できるかな、と思えてきたのはつい最近のことです。
いずれにしても基本的な勉強が不足していたし、今も不足していると言わねばなりません。しかし、批評とは、批評に接するとは、ねじり鉢巻きをして「勉強」することなのでしょうか。
三浦雅士さんの著書を見かけたのは丁度そのころでした。世にニュー・アカデミズム・ブームの、これまた嵐が吹きまくっていた(気がする)頃です。
友人たちの間で『構造と力』はもう読んだか? というのがあたかも合言葉のように交わされていました。その爆心地とでも言うべき浅田彰さんの同書が刊行されたのが1983年の9月のことでした。翌84年の4月には、筑紫哲也さんによって週刊誌『朝日ジャーナル』がリニューアルされ、浅田さん本人が、インタヴュー・シリーズの「若者たちの神々」の最初の一人としてインタヴューを受け、表紙を飾るという事態になります。三浦さんもそこに小論を寄稿しています。
この卓抜な浅田彰論「荒々しさの意味――浅田彰という現在」は現在は、先にも触れた書評集『自分が死ぬということ』に収められているものの、実際には書評、というよりも時評に近いものです。これについても先述した通り、三浦の書評集『自分が死ぬということ』は書評の枠を越えた批評が多く収録されているので、それについてはいささかも異和感を感じさせません。
浅田彰さんは、その影響力の巨大さを考えると、単著こそ稀に見る少なさではあるが、思想、文学、芸術その他多岐に渡る該博なる知識と類まれなる編集、調整能力を以て1980年代からつい最近までいささかも衰えることなしに現代日本の思想界に君臨した「宰相」、あるいは「参謀」、「軍師」だったと言えます。無論、この場合「皇帝」に当たるのは柄谷行人その人であることは言うまでもありません。浅田さんは『構造と力』でデビューするとほぼ同時に思想誌『GS』を編集、刊行し始めました。その後、柄谷さんとタッグを組むことで、『批評空間』の長期政権時代がやってきます。
しかしながら、恐らく今後書かれるだろう日本の思想史、文学史には『構造と力』の一冊を以て、浅田彰の名は記憶されるに違いないと思います。『批評空間』の実務的な編集こそ、浅田さんが行っていたとしても、やはり柄谷さんの名前のインパクトは巨大でした。
それと比べても、浅田さんの『構造と力』の起爆力、破壊力はまさに前代未聞の偉業と言わざるを得ません。難解とされるフランス現代思想をかなり図式的に概説する。構造主義から、「力」に力点を置くドゥルーズ=ガタリまでを一望のもとに論じ切った内容*そのものよりも、やはり内外に与えた圧倒的な影響力こそ記憶に値するでしょう。
*要は、難し気なことを言っている現代思想なんて、たったこんなもんだよ、というのが主題かと思います。
後に、と言ってもつい最近のことだが、柄谷・浅田の『批評空間』終刊後における後を襲う位置に取って代わったのが、東浩紀編集になる『思想地図』本編、β、及びその後続誌『ゲンロン』だが、その第1号で、東さんは「現代日本の批評」という特集を組んでいる。無論、これは『批評空間』の前身『季刊思潮』から継続して行われていた、一連の「近代日本の批評」というシンポジウムのシリーズの後を狙ったものです。
それは兎も角、そこに織り込みで「現代日本の批評 1975-1989」という年表が附載されています。大澤聡さんが作成し、共同討議参加者(市川真人さん・大澤聡さん・福島亮大さん・東浩紀さん)の合議を経て確定したものらしいです。そこでは重要度に表すためにフォントの大きさを4段階に変えているが、最も大きいフォント、最も重要とされたのは柄谷の『近代日本文学の起源』と、浅田の『構造と力』なのです。
ちなみに、と言って、どっちがちなみか分からなくなってきましたが、三浦さんは年表冒頭に二番目の大きさのフォントサイズ、つまり「重要」のレヴェルで「三浦雅士が『現代思想』編集長に」という形で登場します。その後に刊行される三浦さんの著書は軒並み4番目の扱いです( ノД`)シクシク…。
その意味では、当然のことながら、かなり『ゲンロン』派、特有のバイアスがかかっているのは言うまでもありません。一応参考のために。
1972年、学生の頃、自ら会社を設立し、創刊して今に至る、今や老舗と言ってよいだろうロック・アンド・ロール専門の音楽批評雑誌に『rockin' on(ロッキング・オン)』があります。今は編集長を別のメンバーに譲っているが、ロッキング・オン・グループの代表にして、音楽評論家の渋谷陽一さん、その人です。
誌名(会社名でもある)の「rockin'
on」=「rocking on」、すなわち「ロックし続ける」です。
一旦、それはともかく、渋谷さんの代表的な論著の一つに『ロックミュージック進化論』(1980年・日本放送出版協会)というのがあります。題名が示唆するように、渋谷さんの考えでは、ロックは前代のロックの否定として存在し、その時代の先端に位置するバンドなりシンガーがいる、つまり進化していることの中にロックの存在意味があるというものです。
つまり、エルヴィス・プレスリーからザ・ビートルズへ、ザ・ビートルズからレッド・ツェッペリンへとロックは進化した、というのです*。
*全くどうでもいいが、なぜ70年代初頭までのバンド名には定冠詞「the」が付くのに、或る一定の時期以降からそれが付かなくなるのは何故でしょうか。何か理由があるんですかね。
時代錯誤も甚だしい、というべきではあるが、「進化論」とあるが、典拠となっているものは、チャールズ・ダーウィンのそれではなくて、恐らく、吉本隆明さんを経由したマルクスの段階説に他ならないと思います。何となれば、恐らく渋谷さんは吉本ファンで、吉本さんの著作解題のインタヴューやら、吉本親子の対談などを企画して書籍も出しているくらいだからです。
わたしはその『ロック・ミュージック進化論』を高校1年生の時に手に取り、極端に言うと、高校の3年間は渋谷さんに提示された図式通りに、細々とレコードを買い集め、音楽を聴いていました。レコードを買うためだけに毎週2回のスーパー・マーケットのアルバイトもこなしていました。
残念ながら、大学に進学するために実家を離れると、音楽どころではなくなり、いつしか、それが普通になってしまい、音楽も映画も美術も何もない生活になってしまいました。今でも買い集めたレコードは実家にある(はずです)。
というわけで、この下りは相当うろ覚えの記憶によって書かれていることを、途中ながらお断りしておきたいのです。
渋谷さんの考えの当否については一旦措くとするが、そこで、ロックの一つの到達点として示されているのがレッド・ツェッペリンの7枚目のアルバム『presence』(1976年・スワンソング)つまり「現在」だが、言うまでもなく、「過去→現在→未来」という時の経過の中における「現在」ではなくて、――無論、その意味も含めて、ということだろうが、神や精霊などが目の前に「現れる」=「顕現する」=「現在する」、そういう意味での「現在」=
「presence」であると渋谷さんは述べていた(気がします)。
渋谷さんによれば、当時、ギタリストのジミー・ペイジがブラック・マジック、つまり黒魔術に凝っていて(本当か?)、アルバムのジャケット・カヴァーで家族が見詰め合っている物体(オベリスク)こそ、その証拠だというのです。つまり、ペイジが彼らの音楽の極点における忘我感のようなものをアルバムとして提出したということのようだ(った)。
実際には「バンドとしての存在感(presence)」という割りとチープな理由だったようだが、実際がどうであろうとそんなことは関係なくて、少なくとも高校生のわたしは、ブラック・マジックの現在、現に在らしめるものとして愛聴していたのです。
【図 レッド・ツェッペリン『presence』】
結論から言えば、三浦さんの浅田さんについての小論「荒々しさの意味」は、――雑誌初出時の原題は「荒々しい現在を走り抜ける」だったが、内容もさることながら、その疾走する文体こそがその内実を支えていると思います。まさに文体の勝利と言うべきで、これこそ「文芸としての批評」の名に恥じないものなのです。
恐らく掲載誌『朝日ジャーナル』編集部としては、浅田さんの「紹介者」である三浦さんにその辺りの経緯、あるいは元『現代思想』編集長でもある三浦さんに、浅田さんの仕事の、現代思想的な意味合いのようなものを予定していたのかも知れません。しかし、まさに、これこそ、批評、文芸批評なのです。
第1章でも軽く触れたが浅田さんが世に出る切っ掛けを作ったのは他でもない三浦さんである。1984年に編集後記が単著『夢の明るい鏡』にまとめられる際に、版元の冬樹社・編集部スタッフによるインタヴューにその辺りの状況が詳しく述べられています。引用文中の「―――」はインタヴュワーの発言です。
―――いま最もスター的に持ち上げられている浅田彰さんも、最初に『現代思想』臨時増刊の「ラカン」からデビューしているわけですが……。
三浦 浅田さんは今村仁司さんの紹介だったんだよね。今村さんにもずいぶんお世話になってたわけです。で、あるとき学部の学生が書いたっていう文章を見せられたわけね。ふつうだとそう簡単に読めないじゃない。学部の学生が書いたものを忙しい最中にパッと読むということはちょっとないと思うよね。とにかくしばらくはそのままにしておいた。それであるときパラパラと読んで、なんかすごいなという感じがしたのでとにかく「ラカン」を頼んでみたわけね。ほんとにすごいかどうかってなわけで。(笑)その「ラカン」を読んでびっくりしたのね。こいつが一番よくわかってるんじゃないかと思ってね。彼はすごく若かったでしょう。あれは何年だったっけ。
―――八一年です。ただ浅田さんがこういう雑誌の舞台、商業誌に登場するのはこの年からです。『中央公論』のほうが出るのは少し早かったけど。
三浦 「ラカン」にも感心したけど、会って話したときにもっとびっくりした。一抜けた、じゃないけど、もう参ったね、いやになったよ。そんなふうに思った人はそれまでいなかったと思う。みんなすごいとは思ったけど、恐れいったなという感じは浅田彰が初めてだね。
―――カルチャー・ショックだ。(笑)
三浦 ただ、別の意味で似ているなと思ったのは、たとえば村上龍ね。知性では浅田彰、
感性では村上龍、知り合ってよかったなと思っていますね。(三浦「編集または回転する運動」/『夢の明るい鏡』p.p.30-31)
さて、以上のような前提のもとに本文に移ります。本来は全文引用したいというのが正直なところです。
浅田彰について語ることが困離なのは、それがまさに現在の現象だからである。現在という現象、現在という出来事だからである。いうまでもなく同時代について語ることは難しい。それは誰もが知っていることだ。だが、浅田彰について語ることの難しさはそれとは違っている。(三浦「荒々しさの意味」/『自分が死ぬということ』p.286)
何故、浅田彰について語るのが難しいのか。そこで生じていることは一体どういうことなのでしょうか。
そこで、三浦さんは、「時間」の観念、例の「過去-現在-未来」、この構造について語ります。
だが、誰でも考えてみればすぐにわかることだが、人が経験しているのはただ現在だけなのだ。未来も過去も経験できはしない。現在だけが世界とじかに取引できる唯一の時間なのだ。にもかかわらず人は、この現在を未来から意味づけ、意味づけた瞬間に過去へとほうりこむ。あるのはただ現在だけなのに、それは未来と過去から挾撃され雲散霧消してしまうというわけなのだ。ここであらためて資本主義の時間について述べるのは不粋というものだろう。要するに現在は一貫して収奪されつづけてきたというわけだ。(三浦「荒々しさの意味」/『自分が死ぬということ』p.286)
つまり、生物にとって、本来時間は存在しません。人間は「現在」を〈現在〉することによってのみ生き生きと生きることができます。にもかかわらず、近/現代に生きる/生きざるを得ないわれわれは「現在」は「未来」への恐れの下に「現在」は忘れ去られ、「現在」は絶えず「過去」へと消滅していきます。つまり「現在」は全く〈現在〉しないのです。
浅田彰が拒否するのはまさにそのような未来と過去である。この若々しく荒々しい知性が標榜する逃走は、したがって、現在からの逃走ではなく、現在への逃走なのだ。それが逃走と名付けられるほかないのは、現在は現在であるにもかかわらず、いまや雲散霧消してしまっているからである。そんなことはありえないにもかかわらず、誰もが現在に気付こうとしないからである。
未来から意味づけられては過去へとほうりこまれる現在が示すのは、方向づけられた直線状の時間だが、現在からさらなる現在へと展開してゆく時間は網目状の時間とでもいうほかないものだ。ほんとうは誰でもこの網目状の時間つまり現在に生きているのだが、頑なに気付こうとしないのだ。いわく立派な大人にならなければならない、いわくアイデンティティを確立しなければならない、いわくよそ見をしてはならい、いわく過去を反省して未来に備えなければならない――そう、まさに現在という網目状の時間から眼を離せと叫びつづけているのである。
現在はつねに若々しく荒々しい。簡単にいえば何が起るかわかったものではないのだ。この波立ち騒ぐ世界との接触面が私でありあなたであるとすれば、私が何になりあなたが何になるかさえそれこそわかったものではない。私も事件のようなものであり、あなたも事件のようなものである。いや、不断に生起しつづける事故のようなものだ。考えてみればこれは自明のことなのだが、誰もがそれを忘れたようなふりをしている。浅田彰はただ、忘れたようなふりをするのはもうやめようといっているのである。
とすれば、浅田彰は不断に現在でありつづけようとしているということになるだろう。浅田彰について語ることが困難なのは、したがって、当然であるといわなければならない。語ることが過去へとほうりこむことを意味しているとすれば、浅田彰が拒否しているのはまさにその語ることにほかならないからである。(三浦「荒々しさの意味」/『自分が死ぬということ』p.p.286-287)
にもかかわらず、浅田さんは語り続ける。何故か。「語ることとは、ほんとうは現在を語ること」だからです。浅田彰は世界の知について、哲学から、文学、芸術までありとあらゆることを語り続け
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~浅田彰の横断的知~ 浅田彰さんの驚異的な「横断的」な知、――つまり、「知」というのは本来様々な領域を横断していくところに発生するものであって、それこそが「知」が「知」であることの所以とも言うべきものだが、その浅田さんの「横断的な知」については、後に、その最前衛とも言うべき先進的レヴェルで世界中の思想界・批評界から注目されていた『批評空間』の編集、毎回の共同討議を、浅田さんが仕切っていたことだけでも瞠目に値するが、それ以前の、『構造と力』などに見られる哲学・思想領域だけに留まらないことを示したのが、伝説的思想誌『GS』です。よくもまあ、こんなことまで、と舌を巻くしかなかったが、更に驚いたのは講演などの浅田さんの語り口です。立て板に水、とはこのことで、次から次へと話題が溢れ出てきて、なおかつ間然とすることがありません。わたし自身は2回、浅田さんの講演会に参加したことがあるが、まさに、そのような場にこそ浅田さんの本領を発揮する場があると得心したことを覚えている。浅田さんの単著がたった3冊、それも1985年の『ヘルメスの音楽』(筑摩書房)以降、全くないというのも或る意味ではこういうところに理由があるのやも知れません。 さて、話を戻すが、その中でも特筆すべきは1986年9月12日深夜フジテレビ系列、「VHS録画チャンネル4.5」枠で放送されたテレヴィ講義「テレビ進化論」です。内容は多岐に渡るが、冒頭浅田さんが触れたのが理系と文系のクロス、科学技術と芸術の融合の問題でした。すなわち17世紀、オランダ・デルフトの画家ヨハネス・フェルメールは当初、当時開発されたレンズ磨きをして糊口をしのいでいたらしいのですが、すなわち、そこから類推されることは、フェルメールの対象の人物なりがくっきりと焦点が当たっていて、周りの背景がうすぼんやり描かれているのは、フェルメールがレンズを通してみた解像度を基に自らの絵画を描いていたからだというのです。つまり、それは現代でも同様なことが言えます。テレヴィジョンやコンピューターなどのテクノロジーと芸術に限らず、人間の持つ文化は、切断、別の領域だと互いに排別し合うべきではなく、むしろ相互の緊密な影響関係があると考えるべきだ、というもので、夜中に一体全体何事が起ったのかというぐらい驚天動地のテレヴィジョン・プログラムでした。 これは後に『GS』 Vol.5 「特集 電視進化論」(1987年・UPU)としてまとめられました。また、当該番組は、動画サイト『YouTube』で、現在でも視聴することができます。 また、フェルメールについては、これとは別に浅田『ヘルメスの音楽』で触れられています。 📓 |
るのです。
コラム~浅田彰の横断的知~
引用を続けます。
この明快さは類例のないほどのものだが、それは浅田彰の行っていることが紹介ではなくまさに裁断であるからだ。そして、
このような裁断を可能にしたのが、現在そのものでありつづけようとする浅田彰の姿勢であることはいうまでもない。(三浦「荒々しさの意味」/『自分が死ぬということ』p.288)
(中略)
この若々しさ荒々しさは、たとえば差異として語られ、決定不能性として語られ、自然成長性として語られる。あるいは笑いとして語られ、道化として語られ、交通として語られる。したがって、浅田彰という瞠目すべき現象を用意したのが、山口昌男であり蓮實重彦であり柄谷行人であり岩井克人であることはいうまでもない。この事実は、浅田彰という現象自体がひとつの交通にほかならないことを物語っている。まさにその場で、先行する幾人もの思想家が出会っては火花を散らしあったというわけだ。(三浦「荒々しさの意味」/『自分が死ぬということ』p.289)
そして、こう述べます。
浅田彰は移動する鍛冶屋だ。そこではいつも火花が散っている。飛び散った火花は草原を焼きながら走る。(三浦「荒々しさの意味」/『自分が死ぬということ』p.289)
これが結語です。
それは偏差なのだ。ずれなのである。明晰への激しい志向だけが絶対的な曖昧さを浮かびあがらせ、整理しつくそうとする意志だけが根源的な錯綜を浮かびあがらせる。
いずれも、ずれとして浮かびあがってくるのである。また、鳥瞰しつくそうとする眼だけが、その眼もまた鳥瞰される位置にあることに戦慄を覚えるのだ。さらに戦慄さえもが鳥瞰の対象であることに気付くとき、ここにもまたひとつのずれが、いや、ずれの連鎖が浮かびあがってくるというわけである。若々しさも荒々しさも、まさにそのずれに胚胎するのだ。いうまでもなく、これこそ現在という力の場だが、浅田彰が現在としてあるのはその場を疾走しつづけようとしているからにほかならないのである。(三浦「荒々しさの意味」/『自分が死ぬということ』p.286)
以上、縷々述べてきたのは、必ずしも浅田彰のことを述べたかった訳ではありません。それはそれで適切な場があるでしょう。ここまでは三浦さんの批評言語について、一貫して(脱線しつつ)、述べてきました。
批評が対象としている作品を、仮に読者が読んでいなかったとしても、読んで分かる、読んで面白い、と思えるのは批評そのものに価値がなければなりません。その場合多くのケイスでは、思想的に価値があるか、批評の方法論的に価値があるかのどちらかでしょう。加藤周一によれば、日本では、古来より、文学者が哲学者、思想家を代行していたことを考えれば同然とも言うべき事態です。
しかし、そうでない道があるとすると、それは何か。それすなわち、文芸として価値のある批評、ということになります。
かの吉本隆明が若き日の全精力を傾けて完成させたのは『言語にとって美とは何か』(1965年・勁草書房)であるが、もし批評家が自らをして文学者あるいは文芸家の端くれであると考えているのであれば、まずもって言語の美について考えるべきでしょう。
三浦さんの場合、期せずして、その若き日に詩人たちと接触する機会が多くあった。さらに、これも期せずして雑誌編集長として短文の編集後記を書く「義務」が生じた。そして並行する形で文庫解説、書評といった「批評」の原型を少なからぬ本数を書くようになった。これらのことが、対象と独立して味わうことができる「批評」、「批評的散文詩」とでも言うべきものが作り上げられた所以でありました。
この浅田論の、とりわけ浅田さんを「移動する鍛冶屋」であると評するあたりに、三浦さんの「批評的散文詩」の或る一つの頂点が来ていると言っても過言ではありません。
詩とは何か、などと問いかけるのは、批評とは何かを問うこと以上にわたしにはおこがましいこと限りがありません。況や、それらの問いに答えようなど人後にもとる振る舞いと言わざるを得ません。
しかしながら、かのスペインはカタルーニャの騎士の如く蛮勇を揮って、わたしは答えてみたいと思います。
詩の価値の一つに、言葉の配列の絶妙な冴えという点があるとは間違いないが、それが詩であるためには、多かれ少なかれ、そこに、何らかの意味での「比喩」が存在していることです。「美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。」と言ったのは、無論、小林秀雄の「当麻」*ですが、確かにこれは散文詩にはなっていると言ってよいです。発想の妙、言葉の排列の妙が、ここには存在するが、比喩はありません。詩になる/詩であるためには、その花がどのように美しいのか、それをこそ、まさに、花の美しさではないもので読者に伝えて欲しいと思います。無論、小林は詩を書いているつもりはありませんから、当然のことです。
*小林秀雄『モオツァルト・無常という事』1961年・新潮文庫p.p.77-78。
比喩とは何でしょうか。詩人が伝えたいと思ったもの/ことと何らかの共通する要素を持っているもの/ことを別の言葉、別の表現を使って、読者に差し出すこと。
批評も同じです。批評家が対象の作品について何らかの評価を下す。しかし、それは恐らく抽象的な表現を取るでしょう。そこでその評価を別の何らかのもの/ことで表現する。そこに詩と批評が組み合わさる余地ができるのではないでしょうか。
したがって、その意味で批評は詩であり、詩は批評なのだと言えるのです。
比喩の効果は視線/次元の多層化です。
しばしば取り上げられるが、村上春樹さんはその比喩の頻出で知られるが、『羊をめぐる冒険』(1982年・講談社)の冒頭、多発する葬式に参列するために主人公が路地を彷徨うシーンがあります。葬式が多発するということは、言い換えれば、当然のこと、死者が多数発生しているということだから、その理由の如何に関わらず、不吉な、不穏な、あるいは陰惨な事態を示しています。恐らく、これは「内ゲバ」による死者を暗に示しているだろうから「陰惨」というのが正しいのだが、その路地を村上さんは「マスクメロンのしわのような路地」と表現したのです。この場合共通点は細い線というだけだが、この比喩を使うことで、世界のファンタジー化が行われているわけだが、無論村上さんは無意識に行っているわけだが、事態を陰惨なまま書くのではなく、この比喩を使用することで、事態そのものから、一旦距離を取ることによって、むしろ批評的な表現にすらなっていると考えられます。
最近たまたま、村上春樹さんとのコラボレイションで大手衣料製作販売業者ユニクロが、村上さんの作品と彼が主宰しているラジオ番組に関わる、数種類のTシャツを製作・販売して話題になりました。その中の1枚は村上さん2作目の作品『1973年のピンボール』を題材にしたもので、フロント面にカヴァー・イラストの上下に次のような文言が印刷されています。「JUST ABOUT ANYTHING LOOKS BETTER /FROM A
DISTANCE.」出典はこれです。
「あなたは二十歳のころ何をしてたの?」
「女の子に夢中だったよ。」一九六九年、我らが年。
「彼女とはどうなったの?」
「別れたね。」
「幸せだった?」
「遠くから見れば、」僕は海老を呑み込みながら言った。「大抵のものは綺麗に見える。」
(村上春樹『1973年のピンボール』1980年・講談社・p.p.104-105。傍線部引用者)
近くから見れば、――実際には、醜いもの、陰惨なものも、「遠くから見れば、大抵のものは綺麗に見える」。無論、この文脈では、距離を取ることで本当のことが分からなくなるということを自分で自分を皮肉っている訳だが、しかし、人は距離を取ることによってしか批評的な位置に立てないし、そのことが世界を美しく見ること、詩的に見ることの裏合わせなのだと、われわれは言わなければなりません。
しかしながら、何かを伝えようとすることは、それをまた別の何かで言い換えることに他ならないわけだから、それらが比喩的になってしまうというのも当然の話であって、そこに何らかの問題が生じる訳でもない。
詩と批評という言語芸術の根本に仮に、この「比喩」があると考える時、一体この問題の射程はどこまで及ぶのでしょうか。
問題は比喩とは何か、ということになるのだが、つまり言い換えると、比喩を使うことで何故、話が通じるのか*、という問題です。
ここでは、主旨がずれるので、この問題、すなわち「比喩と言語コミュケイション」の問題は、いずれ別稿を挙げることといたします。
*この問題の示唆を与えてくれたのが、比較文学者で、今は亡き小宮彰さんの『ディドロとルソー 言語と《時》――十八世紀思想の可能性――』(2009年・思文閣出版)である。残り時間を考えると到底そこまで辿り着けないのが、極めて残念である。
参照文献
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『presence』. Swan Song.
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東浩紀 (編).
(2015年~). 『ゲンロン』. ゲンロン.
東浩紀, 北田暁大 (共同編集). (2008年-2010年). 『思想地図』1-5. NHK出版.
柄谷行人. (1980年/2004年). 『日本近代文学の起源』/『定本 柄谷行人集 1 日本近代文学の起源』. 講談社/岩波書店.
柄谷行人, 浅田彰 (共同編集). (1991年-1994年/1994年-2000年/2001年-2002年). 『批評空間』第1期/第2期/第3期. 福武書店/太田出版/批評空間社.
鈴木忠志, 市川浩, 柄谷行人, 浅田彰 (共同編集).
(1988年-1990年). 『季刊思潮』. 思潮社.
國木田獨歩. (1898年). 「忘れ得ぬ人々」. 著: 『国民之友』1898(明治31)年4月. 青空文庫.
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14,409字(36枚)
202408140829


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