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2024年8月15日木曜日

三浦雅士――人間の遠い彼方へ その10   第5章 展開の方へ(承前)  2 「二つの名前を持つこと」――辻井喬論

 

三浦雅士――人間の遠い彼方へ その10

 

鳥の事務所

 

 


 

 

章 展開の方へ(承前)

 

目次

第5章 展開の方へ(承前)   1

2 「二つの名前を持つこと」――辻井喬論    2

1 辻井喬とセゾン(現代)美術館と三浦雅士    2

2 批評とは何か?    10

3 講演「二つの名前を持つこと」    20

4 『父の肖像』文庫解説    22

5 「激しい無関心」    28

参照文献   43

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 「二つの名前を持つこと」――辻井喬論

 

1 辻井喬とセゾン(現代)美術館と三浦雅士

 

 辻井喬さん(1927年~2013)は言うまでもなく、詩人・小説家であるが、同時に日本を代表する企業群体であった西武流通グループ、後のセゾン・グループの創設者・経営者、堤清二さんでもありました。様々な面からこの辻井=堤の業績は、今後精緻に検討されねばならないが、ここでは三浦さんとの関係、とりわけ三浦さんの卓抜な辻井論について触れおきたいと思います。

辻井喬氏


 三浦さんと辻井=堤さんとの具体的な出会いについての詳細は不明ではあるが、三浦さんの著者「年譜」によれば「一九九〇年(中略)一一月、セゾン美術館の依頼で、パリ、フランクフルト、ニューヨークの芸術状況を視察。」とあります。セゾン美術館(1975年~1999)は堤さんの創設になるもので、現代美術に特化した最前衛の美術の状況を日本に紹介しました。惜しくも、グループ全体の経営の悪化に伴い、99年に閉館したが、その後、収蔵作品などは軽井沢のセゾン現代美術館(1981年~)に引き継がれました。

 これはどういうことでしょうか。

 これから詳しく述べる三浦さんの辻井喬論、と言っても講演だが、「二つの名前を持つこと」において三浦さんはこう述べています。

 

七〇年代から八〇年代にかけての日本文化の基本的な流れは、僕の目には、堤清二がその根幹を作ったとしか思えません。

(中略)

 美術、音楽、演劇など、およそありとあらゆる文化的なものの萌芽を東京中に、あるいは日本中にばらまいたのは、堤清二以外にありません。 しかもそのばらまき方というのは、「俺がこれをやったんだぞ、どうだ」といったしたり顔でなされたのではない。美術館や劇場をつくったり助成財団をつくったりするときに、 自分個人の名前を冠したりはしない。逆に自分の名前が出ないようにしているから、 世間は彼がかかわっていることにはとんど気がつかない。気づかれているのは、じつはほんのわずかなのです。海外の助成財団に寄付するようなかたちでなされた場合には、気づかれようがない。財団内で何らかの発言権をもっていて、日本の芸術家を何人も欧米に留学させているわけですが、金を支給されたほうはまったく気づいていない。

 たとえば彼は、詩人の大岡信を一九六〇年代にパリへ行かせています。大岡はまだ新人でしたが、堤はその段階で才能を見抜いたのです。それも恩着せがましくなく、「行ってくれればうれしい」という態度でした。このパリ旅行は、大岡を一流の美術評論家にする大きな契機になるわけですが――ボードレールからヴァレリー、リードにいたるまで詩人は美術評論家であるというのが現代の伝統です――、堤も大岡もこの経緯についてはまったく触れていない。誰が金を出そうが、そういうことはたいして重要ではないと二人とも思っていたわけでしょう。僕はほんとうにかなり最近になってその事実を知って驚いたのですが、さすが大物は違うと思いました。堤さんも凄いが、大岡さんも凄い。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.p.112-114

 

 三浦さん自身もそうだったと三浦さんが述べている訳ではないが、恐らく同じような状況ではなかったかと推測されます。

 しかし、もっと以前の段階から辻井さんとの接点はあったのではないでしょうか。

 当時はまだ西武美術館(セゾン美術館の旧称)と言っていたが1985年1月2日から2月13日にかけて、フランスの美術家アルマンの個展「アルマン展――破壊と再生」が開かれた際に、三浦さんは図録(1985年・西武美術館)に「変容する事物――アルマンについて」なる「解説」を寄稿しています。これは後に『疑問の網状組織へ』(1988)に収録されました。

 どうでもいいですが、わたしはこの展覧会を観ています。恐らく『朝日新聞』にて評判を聞き駆け付けたものと思います。が、他はほとんど記憶がありません。

 三浦さんが、実は宇佐見英治さんの薫陶を受けていて、美術についての造詣が深いことは、先にも述べました。

 しかしながら、三浦さんの美術に関する評論はさほど多い訳ではありません。その幾つかは「現代芸術ノート」と副題された『幻のもうひとり』に収録されています。先にも触れた、夭折したと言ってもよい、美術評論家・宮川淳さんの著作集完結について触れた「宮川淳の軌跡」*。版画家・画家である加納光於さんについての短文が3本*です。うち一つが、やはり加納さんの個展の図録(カタログ)Mitsuo Kano(19824月・開催地不明)への寄稿「世界という色彩」です。あるいは78年に、美術誌『みずゑ』3月号にて加納さんの特集がされています。筆名・今井裕康での寄稿だが、「加納光於または生成する作品」と題する批評です。こちらには大岡信さんも寄稿しているので、これかも知れないが、当然、辻井さんは三浦さんが『ユリイカ』、『現代思想』の名うての編集長であることは百も承知であったろうが、その三浦さんがこのような美術批評をも、ものすることを何らかの形で知り、件の『アルマン展』の解説執筆依頼という運びになったのかもしれません。

 

*いずれも『幻のもうひとり』に収録。

 

 先にも述べたように、セゾン美術館そのものは1999年に閉館するが、その収蔵物などはセゾン現代美術館に引き継がれました。

セゾン現代美術館


 三浦さんは2004410日より620日まで、東京藝術大学大学美術館と東京都現代美術館にて同時開催された『再考 近代日本の絵画――美意識の形成と展開――』の図録(難波英夫・多木浩二・小林康夫・建畠哲との共著)に「モダニズム再考にあたっての一視点」という小文を寄稿しています。この展覧会はセゾン現代美術館も出展をしていて、図録の刊行はセゾン側が行っています。

 ついで、2013年に、このセゾン現代美術館に関する著書を2冊刊行しています。一冊目が単著『魂の場所――セゾン現代美術館へのひとつの導入』、――と言ってもこれはもう一つの「辻井喬=堤清二論」ですが、二冊目は同美術館の公式図録『セゾン現代美術館コレクション選 = Sezon Museum of Modern Art : selected works from the collection(難波英夫・坂本里英子との共著)に寄稿した形になっています。いずれも同美術館から刊行されているものです。

 この年、2013年の1113日に辻井さんは帰らぬ人となりました。三浦さんは辻井さんの死を急なものとして受け止め、大変驚いているが、逆に辻井さんの方は、その前年にはやがては訪れる自らの死の遠からぬ来訪を予期していたのではないかと思われます。文字通り『死について』(2012年・思潮社)という直截的な題号を持つ詩集を刊行しているぐらいですから。

 従来の辻井さんの詩に見られるような難解な表現を排し、ほぼ日常的な言葉遣いで書かれた著者・最後の詩集にして最後の単著となったものです。自身の死を目前に、戦争で死んでいった若者たちのことなど、思いつくままに思いが連ねられていきます。

 その筆致はあたかも死から蘇ってきた者の、一旦生を抜けた者のような視線で書かれています。三浦さんなら「死の視線」というところでしょう。先ほども言ったように、実際、このあと、辻井さんは、翌2013年の11月には鬼籍に入るのですが。

 恐らく、集中、長歌に対する反歌、つまりまとめのようなもの、船全体に対しての錨のようなものに当たるものが、詩集の末尾ではなく、3分の2辺りを過ぎた箇所に挟み込まれている「二つの間奏曲」と題された二つの詩の、とりわけ二つ目の詩「綱渡り」という詩です。

 この詩集の要約、というよりも、あたかも実業家=堤清二と詩人・小説家=辻井喬という二つの名前、二つの顔を持たざるを得なかったこの人物の人生を見事に象徴する詩に、巧まずしてなっていると言えます。その冒頭の一連と最後の三連を引きます。

 

いつも綱の上を歩いていた

地上よりその方が私には安全なのだ

なるべく目的地を意識しないで進む

正義や理想のような雑念を追い払うため

ただ一心に前を見て

言われたとおりに数値の平行棒を操って歩くのだ

 

(中略)

 

私もたくさんの死者を送ってきた

むしろ送ることしかできなかったのだ

でも戦死者のために鎮魂曲は歌わなかった

綱の上を歩く自分に資格はないと知っていたから

 

だから死者と一体になることはなく

その望みも自らに禁じて

ただ均衡を取ることに集中して

渡り鳥の囀りの意味を知ろうとはせず

陸を失った鯨が哀し気に交わす声にも耳を塞いで

いつも自由だった 自由だと思ってきた

 

それなのにそんな私を呼び出しているのは誰か

まるで終りの時が近付いていると

報せようとしているかのように

 

       (辻井喬「綱渡り」/『死について』p.60,p.p.63-64

 

  セゾン・グループ解体により、会社経営の一線から退いた堤さんの最後の肩書の一つはセゾン文化財団の理事長というものでした。こちらは舞台演劇や舞踊などの助成が目的ではあったが、当然セゾン現代美術館についても「最後の仕事」という意識があったのでしょうか。先の二著の刊行を見届けて辻井さんは旅立つのです。

 

2 批評とは何か?

 

 先にも触れたが、『季刊思潮』、『批評空間』で行われていた、一連の共同討議「近代日本の批評」を実質的に引き継いだのが東浩紀さん率いるところの『ゲンロン』における、やはり一連の共同討議「現代日本の批評」です。それそのものについて触れたい訳ではなくて、実際上の『批評空間』派の、ということは柄谷行人さんの、批評界における布置上の「後継者」が東さん、あるいは東さん達に他ならないわけだが、彼(ら)にとって、これらの先行世代はどのように映っているのでしょうか。

 これも先に触れたことだが、『ゲンロン』第1号に附載された織り込み「現代日本の批評 1975-1989」という年表冒頭に二番目の大きさのフォントサイズ、つまり重要のレヴェルで「三浦雅士が『現代思想』編集長に」という形で登場するが、批評家として挙げられているのは初期の4冊*でいずれも四番目のランクだ。『現代思想』編集長ほどには、さほど影響力を与えなかったということでしょうか。

 

*『私という現象』、『主体の変容』、『幻のもうひとり』、『メランコリーの水脈』の4冊。

 

 実際、東さんは討議の中で、先に述べた「近代日本の批評」シリーズについて、次のように述べています。

 

 ざっくばらんな印象を言うと、柄谷さんはやはり引き出しが少ない。そして蓮實さんは嫌みな人。比べると三浦さんは常識人だし、浅田さんは若いけれど教養がある。柄谷と蓮實のツートップが、八九年の批評のスコープをかなり狭くしていたというのが、いま振り返るとよくわかる。「近代日本の批評」は、批評史の単純な総括というよりも、のちの九〇年代に『批評空間』を「機関誌」とする「柄谷行人を中心とする批評の磁場」ができるわけだけど、その設立に向けての宣言書のような機能を果たしていたと思います。(市川真人・大澤聡・福島亮大・東浩紀「協同討議 昭和批評の諸問題1975-1989」/東浩紀編集長『ゲンロン』1・2015年・ゲンロン・p.49。傍線引用者)

 

 無論、東さんの意図は三浦さんそのものがどうのこうのという訳ではなくて、この発言では、その後半部に主旨があるのは言うまでもありません。

 それはともかく、柄谷、蓮實、浅田の三者には賛否相俟って強い評価になっているが、三浦さんは「常識人」というのはどういうことでしょうか。この文脈で「常識がある」というのは普通のことしか言わない、当たり障りのないことしか言えない、要は詰まらない奴だと言っているに他ならない訳です。

 東さん自身の評価について、どうこう言う気は全くないが、確かにそういう括り方で収まってしまうところが三浦さんにはあるのだが、それは何故でしょうか。つまり、比較的他の三者は、そもそも「批評」などする気はこれっぽちもなくて、自らの思考を述べているに過ぎないのではないでしょうか。――思想家、とはそういうものかも知れません。しかし、それでは「批評」と言えなくなりますね。

 つまり、ここでは、やはり、「批評」とは何か?   という問いが問われているのです。シツコイですが、そういうことです。

 三浦さんは、後に紹介する或る講演で次のように述べています。

 

 他の方のことは知りませんが、少なくとも僕は、文庫の解説を書く場合、作者に向かって書きます。それはなぜか。作者というのは、ほんとうは、自分が何を書いたのか、分からないからです。不思議に思えるかもしれませんが、これは誰でも同じです。自分が行ったことの意味というのは、自分で完全に把握しているつもりでも、たいていは分かっていないのです。とくに詩人や小説家で、非常にいい作品を書いた人、あるいは書けてしまった人というのは、ほんとうは自分が何を書いたのか、分かっていない。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.p.122-123

 

 だから、それを作者に、あるいは読者に伝えるのが批評だ、というのです。

 わざわざ「他の方のことは知りませんが」と断り書きを述べているのも、当然のことながら、三浦さん自身からしてみれば、他の評家たちは、全くそんなことは考えていない、と暗に言いたいところでしょう。

 これは恐らく、三浦さんが、多くの評論家がそうであるように学者兼任あるいは学者出身ではなかったという点も少なからずあるかも知れないが、それよりもなによりも編集者出身、というよりも終生、編集者であり続けるであろうし、あるいは常時編集者の目線で考えるということであり*、一時的なブランク**はあるものの、現に大半がそうであった、というところにポイントがあるような気がします。

 

*著者「年譜」によれば、1982年の1月に青土社を退社し、1990年の12月に新書館の編集主幹に就任しています。この間9年間のブランクがあります。2013(?)年には新書館を退社しているものの、その後も自ら月刊化に尽力した『ダンスマガジン』にインタヴューなどで参加しています。

 

**三浦さんが自著『石坂洋次郎の逆襲』(2020)を刊行するに先立ち、石坂の短篇選集『乳母車・最後の女――石坂洋次郎傑作短編選』(2020)を、三浦さん自身の編集で講談社文芸文庫から刊行しています。恐らく『石坂洋次郎の逆襲』を書こうとしたきっかけがそうだったのだと思うが、その段階で、今もそうであるが街の書店から石坂の作品が一冊もないという状況に義憤の念に駆られたのではないでしょうか。これも編集者的視線である。もう一つ例を挙げておけば、安部公房の実母・安部ヨリミ、唯一の長篇小説『スフィンクスは笑う』(1924年・異端社/2012年・講談社文芸文庫)を、公房の実娘ねりさんの紹介で再発見をして、それを文庫化するように講談社文芸文庫編集部に持ち掛けて刊行させたのは三浦さんです※。これもまた編集者的な視点を三浦さんが持っていたことの一つの証左だと思います。

 

※三浦「安部公房の母の威力――私の文芸文庫⑥安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』」/『群像』2020年6月号。    

 

  編集者であること、編集者の目線を持つこととは一体どういうことでしょうか。これは第1章でも軽く触れた箇所だが、再度、長めに引用してみましょう。編集後記集『夢の明るい鏡』に収録されたインタヴューです。

 

三浦 そのときに一番考えたのは、自分はその著者のことをどれだけ知っているかということでした。その著者の必然性ですね。この著者はこういうものを書かなければならないんじゃないかということを著者の立場に立って考えなきゃいけないということね。原稿料が異常に高いとか、そこに発表されることが非常に名誉であるとか、官庁とか政財界とかに関係ができるとか、そんなことないだろうけど、とにかくそういうメリットが全くないぼくらのような雑誌の場合には、どんなふうにして著者に参加していただくかというと、本当に著者の立場に立って考える以外に何もないですね。その著者が一番やりたいと思っていること、書きたいと思っていること、考えたいと思っていることを、この場では自由にやってもらえるんだということで説得する以外にない。それを印象づけることね。それしか取り柄がないのね。あと何もないですよ。おまけに原稿料の払いが遅いなんていったら、もう最悪ですよ。だから絶対に礼儀正しくしなきゃいけないということね。もっともぼくがどこまで礼儀正しかったかわからないけど*(三浦「編集または回転する運動」/『夢の明るい鏡』p.14。傍線部引用者)

 

*引用者註。無論、三浦さんはとても礼儀正しいのです。この言葉のあと、冬樹社のインタヴュワーがすかさず「いやたいへんに礼儀正しいです。」と言っているが、それよりもこの発言の直前の下りでこう三浦さんは言っています。「ぼくは「極端なおじぎをする」ってよく言われたんだけど、おじぎして拝み倒しでもしなきゃ原稿もらえない、という気持ちだったですね。後になって菅野昭正さんや清水徹さんにだいぶからかわれたけど。」(三浦「編集または回転する運動」/『夢の明るい鏡』p.p.13-14)。個人的な感想だが、この辺りにも三浦さんが、――一概には言えないとは思うが、大学という組織に守られている学者兼任の評論家・批評家たちと一線を画すところのように思えるのですが。

 

 無論、この場合は原稿依頼の話ではあるが、解説を書く、書評を書くと言った場合でも当然同じでしょう。その「著者の必然性」つまり、本当は「この著者はこういうものを書かなければならない」、書かなければならなかったはずだ、そこをこそ批評家は書かねばならないのです。自分の考えはその後に出てくる、というよりも、批評家自身がその対象の作家なりに成り切らなければならないのです。それが批評ということです。

 ポール・ヴァレリーがどこかでこんなことを言っているそうです。

 

真の批評家の目的は、作者が自分自身に向かっていかなる問題を提出したかを発見し、さて作者がその問題を解いたか否かを探ねることであるべきだ。

 

まさに至言と言うべきです。

 

 その為には当然のことながら莫大な読書量が要求されます。大岡信さんは若き日の三浦さんについて、「雑誌で特集号を出すたび、自分の給料をつぎこんでその主題を勉強することに費したという。」*と証言しています。無論、給料だけではありません。それだけの読書をするということはプライヴェイトの時間すらも無くなるということです。要は人生の全てを仕事の読書に費やしていたことになります。それが人生そのものでもあったということでしょう。別の箇所でも引いたが、まさに「勉強するということ、研究するということは、要するに読書するということである。」**ということです。

 

*大岡信「解説 父親探しの話」/三浦『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫・p.326

 

**三浦「読書と年齢」/岩波文庫編集部編『読書のすすめ』2001年(非売品)・岩波書店/岩波文庫編集部編『読書のたのしみ』2002年・岩波文庫・p.177

 

「批評」とは何か、の話に戻ります。先に引用した同じ講演の中で、三浦さんはこうも述べています。

 

 いい作品だとか、記憶に残る作品というのはたいてい、書いた本人にもどうしてそのような作品ができてしまったのかが分からない作品なのです。謎を含むというか。それで、本人自身、無理に説明しようとすると、たいていは間違ってしまう。

 本人にとっても謎であるようなことを書いてしまっている文学作品というのが優れた作品であって、しかもその謎というのは、本人自身それが謎であるとは気付いていないようなかたちで提出されている。それが名作の最低限の条件であるということは、その謎が結局は人間存在というものの謎に繋がってゆくからです。批評というのはその仕組みを解明する以外のことではないとさえ言っていいと思います。それに意味があるのは、その謎というのが、結局はその作品の最大の美点になっているからです。たいてい長所と短所は表裏一体。それを探し出せると、作者にとっては、堤さんがおっしゃったような「あれ、当たっている」という感じになるわけです。 (三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.p.124-125)

 

3 講演「二つの名前を持つこと」

 

 さて、講演「二つの名前を持つこと」は201410月、辻井喬=堤清二の生前の業績を記念して、世田谷文学館にて開催された、5人の論者による連続講演の中の一つです。三浦さんはそのうち3回目、1012日に登壇しました。

 この講演は、無論、辻井喬論としても秀抜だとわたしには思えるが、かなり複雑な、というか、手が込んでいる構成をしています。講演の記録だからと言って、作品としての文芸批評に劣る、などということは全くありません。むしろ、明治以来日本のおける講演やら座談・対談の筆記の名作は数限りがないと言えます。それは漱石の「私の個人主義」や、小林秀雄の「信ずることと知ること」、あるいは江藤淳と吉本隆明の対話「文学と思想」(『文藝』19661月号/『江藤淳 著作集6 政治・歴史・文化』1967年・講談社)を挙げておけば問題はないでしょう。ここには何か秘密がありそうではあるが、一旦措きます。

 いずれにしても、この講演は、文芸としての批評の枠、力、射程距離というものの最大限の可能性を引き出していると思われます。

 あるいは、これはもしかしたら、偶然の神が引き起こした、単なる「事故」だったかもしれません。

 というのは、この講演のいわゆる、本論に当たるところは、三浦さん自作の全文引用なのです。それは何かと言うと、辻井さんの自伝的な作品と言われる、長篇小説『父の肖像』の文庫解説でした。もともと準備をしていたとするなら、全文朗読などせずに、――というのは、当然聴衆の少なからぬ人々は既に文庫で三浦さんの解説を読んでいたかも知れないだろうから、仮に同じ内容であっても、その場の雰囲気に合わせて表現を変えたりして、語りなおすのではないでしょうか。あるいはただ単に準備不足だったために、已む無く既発表のものではあったが、自信のあった文庫の解説を中心にして話すことにしたのでしょうか。

『父の肖像』単行本書影


 実際はどうだったのかは分からないし、――場合によっては本人にすら分からないのです。この場合、それは特に問題ではありません。

 この講演会は各回1時間半の講演毎に500円の料金を徴収しているものでした。全部聴いても2500円だから安いものです。しかし、せっかく生の講演を聞きに来て、前置きはあったにせよ、では、これから文庫の解説を朗読します、というのでは「反則」と言われても仕方がない面もあります。恐らく当日の聴衆はもとより、講演記録を書籍で読み始めた読者もいささかならず、驚くに違いありません。

 しかしながら、「反則」と思われても、これは絶対にこの『父の肖像』の解説を読む必要があったのです。

 それは、先に触れたように、生前の辻井さんに、この三浦さんの解説が「当たっている」と言われたからなのです。




『父の肖像』文庫版㊤書影

 

『父の肖像』文庫版㊦書影





4 『父の肖像』文庫解説

 

 どういうことか、かいつまんでまとめてみると以下のようになります。

 

 僕は堤さんが亡くなる四ヶ月前に会っています。またその一年ほど前にも会っている。ある小さい雑誌のためにインタビューをしに伺ったのです。会うなり、堤さんは「『父の肖像』の解説が、大変よかった」と言いました。

 『父の肖像』 は二〇〇四年に新潮社から刊行された小説です。二〇〇七年に新潮文庫に入って、その文庫解説を僕が書かせていただいたのです。その解説に書いたことが当たっていると言われて、僕はとても嬉しかったのですが、自分の書いたことをにわかには思い出すことかできなかった。 ですから、その件についての会話はそこで終わってしまったのですか、どこが当たっていたのか聞いておけばよかったと少し後悔しています。 (三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.122。傍線部引用者)

 

と言って、さらにこう述べます。

 

 『父の肖像』 の解説で、僕はこんなことを書きました。 この本のタイトルは「父の肖像」だけれど、ほんとうはそうではない、「母の肖像」が描かれているんだ、と。 (三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.122)

 

 つまり、「父」の伝記的小説と見せかけて、いや、そうではなくて、辻井さん自身は意識的には、「父の肖像」を書こうとしていたにも関わらず、実は他ならぬ「母」について書いてしまっている、というのです。このことが辻井さんの言った「当たっている」ことなのでしょうか。無論、それもあるでしょう。また辻井さんが、意識した形で、表面的に「当たっている」と他人に言えるのはこの母のことなのだと思います。

 続けて三浦さんはこう述べた上で、文庫解説の自己引用に入ります。

 

それ(著者自身にとっての「謎」であるような、作品の持つ「謎」〈引用者註〉)を探し出せると、作者にとっては、堤さんがおっしゃったような「あれ、当たっている」という感じになるわけです。

 堤さんの言葉は、僕に対するお世辞ではないと思いました。なぜなら、僕が書いたのは堤さんにとってはちょっときつい話だったからです。どのようなことを書いたのか、解説を引用してみます。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.125

 

 問題は、したがって、この三浦さんが言うところの「堤さんにとってはちょっときつい話」とは一体何か、ということになります。これは先に触れた父ではなくて母のことを書いたということもなくはないが、あるいは果たしてそうでしょうか。   

 この講演の冒頭で、三浦さんは、辻井喬=堤清二には何かしら「謎」*がある。その謎にどこか「悲哀」*というものがある。本人の見た目や実際の受け答えとは違って、それは「非常に大きな悲しみ」*と言うべきものだと述べています。

 

*三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.110

 

 確かに多かれ少なかれ、辻井さんの作品を読んだことのある者には、そのことは首肯できることではあるが、そんなことを言うなら、ほとんどの文学作品や芸術作品には「悲しみ」の感情がどこかしら秘められているものです。むしろ、それのない作品を探す方が困難ではないのでしょうか。

 したがって、辻井文学の中の、この「悲哀」なり「悲しみ」といった色調が辻井さんのどこから来るのか、また辻井さんにとって一体何を意味するのか、これを考えねばならないことになります。

 やはりこれも文庫解説の引用の前置きに当たるところだが、辻井さんが亡くなった際に、三浦さんは『新潮』2014年2月号に追悼文を出しています。「心ここにあらず」という題です。それをここでも説明しています。これは文字通り、辻井さんと日常的に接していると、彼に対して、「心ここにあらず」*という印象を持たざるを得ないというのです。つまり「とにかくここではない、どこか別のところに気持ちが向いてしまっているのだと思わせてしまうところがあった。僕がほんとうにしたいこと、関心を持っていることはこれじゃないんだと、本人自身がいつも思っているように見えた」*というのです。これについては、例えば寺内大吉さんや大岡信さんなどの同様の証言もあるといいます**

 

* 三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.117

 

** 三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.p.118-119

 

 このことは辻井さんが「二つの名前を持っていたこと」と関係があるといいます。それは堤清二が本名で、辻井喬が筆名であるというような単純なことではありません。彼(ら)の場合、――まさに単数なのか複数なのか判然としないが、両者とも社会的に生きていました。つまり、どちらかが公的なもので、もう一方が私的なものとか、そういうことではなく、両者とも社会的存在でした。堤が実業家で、辻井が文学者で、というような区分けも、もしかしたら無意味だったかも知れません。西武流通グループ=セゾン・グループの或る種の特異性は、恐らくそこに辻井喬の視点を持った経営者がいたからだろうし、あるいは辻井喬の文業のどこかに、社会的な責任を持つ堤清二の声が響いていたはずなのです。では二人は一心同体だったのでしょうか。――、いや、そうではなかったからこそ、まさに謎というしかないものなのです。

 更には三浦さんは堤さんが両親の入籍によって、少年時代に姓が変わったということも重視しています。三浦さんはここに「無関心」、つまり、名前なんかどうでもいい、関係ないよ、もっと言えば親が誰だろうが、そんなものは関係ないんだ、という「無関心」こそが表面的には複数の名前を使いこなす理由であり、根源的には、そこに「悲哀」があったというのです。

 つまり、親が誰だろうと関係ないという状況に幼少期からおかれた人間の「悲しみ」がそれであって、小説の形式上はともかく、「父」あるいは、隠された形での「母」への追慕、というのもそこから来るのでしょう。

 という、相当長い伏線があって、本題の文庫解説の引用に入る訳だが、――かと言って、件の文庫解説がそれ自体として弱い、と言っている訳ではありません。それだけでも十分凡百の文庫解説の水準を越えていると言っても過言ではありません。だからこそ、作者である辻井さん本人に「当たっている」と言わしめたのです。言うまでもないが、この「当たっている」云々というのは具体的にどこがどう当たっているかどうかは、本当のところ、問題ではありません。作者自身が、そこで自身の姿を発見できたかどうかだけが問題なのであり、言い換えれば、それは読者自身にとっても同様なことなのです。

 それは一旦措くとしても、恐らくこれは、この文庫解説を含んだ二次テキストになるが、この講演の速記の形で、ひとつの作品として、ひとつの文芸批評として味わうべきものです。

 

5 「激しい無関心」

 

 文庫解説は、三浦さんが若き日に耽溺したというジャコメッティの人物デッサンの話題から始められています。その無数の線が朧気に浮かび上がらせる手法が辻井さんの「父の肖像」ならぬ「母の肖像」を浮かび上がらせているというのです。

 この長篇小説『父の肖像』は、辻井さんの亡父・堤康次郎を、一見第三者の立場から書かれているように思わせながら、その途中、途中で、息子・辻井さんの立場からも書かれる、といういささか複雑な構造を取っています。結局のところ、父を書くといい、実は母が書かれているというが、当たり前だが、実は要所要所に辻井さん本人の悲しみに満ちた顔が浮かんでくるのは否定できません。

 先に触れた「激しい無関心」の最初の出どころは文庫解説にあります。

 

 自分はほんとうの母ではない、あなたのほんとうの母はすでに死んでいると養母に伝えられて、「分りました。別に、どうって事ないや」と、小学四年生の、つまり十歳の「私」は口にして庭に出る (第十八章*)。悲哀を覚えずにはいられないほどに激しい無関心というほかない。理性が感情を抑えている、不自然なほどに。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.130

 

*〈引用者註〉辻井『父の肖像』の第十八章。

 

  辻井さんには実は生みの母と育ての母の二人、母がいたが、そのことと父康次郎にとっての不在の母と育ての母もない交ぜになっていて、この「激しい無関心」は幻の母への追慕として、この作品を根柢で支えています。けだし「母の肖像」、「それこそこの長篇小説『父の肖像』の隠された真の主題だといっていい。」すなわち、「『父の肖像』は、ひたすら母への無関心を装よそおうことによって辛うじて生き延びてきた男の物語なのだ、と。そのことは、語り手はむろんのこと、語り手の背後に潜む作者もまた、充分に意識しているのである。」(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.132と三浦さんは述べています。

 では先ほど述べた「堤さんにとってはちょっときつい話」とは一体何を表しているのでしょうか。構造的にいささか分かりづらいので、次のように区分を分けることとします。講演のレヴェルを、文庫解説のレヴェルを、辻井さんの小説のレヴェルをとします。それぞれ、順に段が下がっています。

 

 第三十一章に次のような箇所がある。

 

 一時、かなり頻繁に会っていた女優志願の友達は、ようやくいい役がついて五カ月ほど地方を巡業することになった時、

 「あなたって分んないところがあるのよ」

 と、ひどく客観的に聞える言い方をした。それはどういうことだろうと見返した私に、

 「なんて言うの、優しさ地獄とでも言ったらいいかしら、こっちのことを考えてくれているみたいだけど、ただそれだけ。若年寄ともちょっと違うんだけどアクションが起らない、起せないって言った方がいいのかな」

 それを聞いていて私は彼女が未練が残っていない訳ではないが、今度の旅をきっかけに私から離れたいのだと分った。それも潮時というものかもしれないと考えた私は、

 「そうかな、そうだとしたら多分、おやじとの戦いでね、 エネルギーを使ってしまっているからだ、仕様がないやね」 

 と、我ながら厭らしい口調になった。彼女は急に涙を迸ほとばしらせて、

 「私、帰る。さよなら」

 と立上った。

 

 作者は誤解している。女友達は別れ話をしたかったわけではおそらくない。語り手の本質的な無関心を詰なじりたかったのだ。どんなときにも、心ここにあらず、と見えてしまうその態度を非難したかったのだ。にもかかわらず、語り手は女友達に対して、非難されている当のもの、すなわち、習い性となったはぐらかしで応じているのである。だからこそ女友達は絶句して涙を流すほかなかったのだ。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.p.136-138

 

(中略)

 

 事態は、たとえば漱石が『彼岸過迄」に描いてみせた、千代子が詰る須永の僻ひがみ根性のありようと寸分も違っていない。須永もまた生母を知らない男だったのだ。

 他者への激しい無関心は、語り手がここで考えるように、父との戦いのせいで生じたのではない。母への関心をみずから封じることによって生じたのだ。

 

 作者が無意識のうちに自分でさらけ出してしまったのは、母への強い関心と、それをさらに上回る強い力でその関心を抑えようとしている自分自身の姿です。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.139

 

(中略)

 

 「父の肖像」に描かれた主人公と女友達のこのやり取りは、非常に本質的です。 フロイトが解明したことですが、ある根本的なトラウマがあると、 それが心の癖を作ってしまう。いわゆるコンプレックスというのは、この心の癖のことです。

 女友達とのエピソードは、 『父の肖像』 の主な筋とはまるで無関係であって、 ほとんど唐突に差し込まれています。どうしても入れなければならない理由はないのです。 しかし、入ってきてしまった。どういうわけか入ってきてしまってそこに落ち着いたというのは、それが堤清二=辻井喬の謎の核心だからです。謎の核心はこの心の癖であって、 それがこの小説の一番のポイントであることがここで噴出してしまったのです。入れないと収まりがつかなくなってしまったそれが理由です。次に、僕はこう書いています。

 

 この一節は、この主題がいまなお作者のもとを去っていないことを示している。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.141

 

(中略)

 

 作者はいまなお、ほんとうには、世界を許してはいないのである。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.141

 

 文庫解説はここで終わっています。鮮やか、と言うべきです。

 女友達の言う「優しさ地獄」というのは、この当時似たような表現があっての借用なのかは不明だが、言い得て妙です。要は彼女からすると辻井さんを思わせる主人公は何でもしてくれる、どんなことでもしてくれる優しい男だが、決定的に愛が足らない、愛が足らないとは、極端に言うと、何もしてくれなくてもいいから、私のことだけを見て、私の心を感じて、ということだが、何も起きないじゃないか、という非難に対して、あ、こいつは別れたいのかと思う段階で愛もへったくれもないし、恐らく、本来は付き合っているわけだから恋人と言ってもいいところを「女友だち」と表現するところでも、一歩引いていることが分かる訳だが、そこにこそ、辻井の母への強い思慕を禁止、抑圧するために発生した、周りの人間に対する「強い無関心」が表れているとするものです。しかしながら、そこのところには問題は必ずしもないのです。

 問題は最後の下り「作者はいまなお、ほんとうには、世界を許してはいないのである。」(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.141という断定です。

 

 強い関心の禁止・抑圧によって激しい無関心が形成される。それは分かります。だが、そのことから辻井さんが「いまなお、ほんとうには、世界を許してはいない」というのはいささか論理的な飛躍があると思うが、文庫解説原文にも、講演にも、その途中の廻廊をつなぐものは示されていないように思います。

 先にも述べたが、辻井さん本人は恐らく「はぐらかす」かも知れぬが、ここの女友達のエピソードの下り、及びそこから導き出される、辻井さんが結局世界を許していないとする、この点こそが、三浦さんが想定している「当たっている」、つまり、この作品の、この作者の急所を突いていることに他ならないのです。したがって、この問題は極めて重要なのです。

 繰り返すが、肉親、あるいは周囲の人間への強い無関心が実は世界を許していないという心情を意味するということにはやはり飛躍があります。許す/許さないというのは積極的な意志を根柢に持つが故に、無関心という、言うなれば受動的、というよりも、気持ち、心情、人格が平坦な状態と相いれないのです。

 確かに、講演の中で、「激しい無関心」という言い方は普通しない、つまり、それは言い換えるなら「攻撃的な無関心」とされているが、つまり、わたしの言葉で言えば強い意志的な無関心ということになります。

 何故か。強い関心の禁止・抑圧は、恐らく激しい怒りとともに、激しい無関心が形成されるのです。強い関心への禁止を加えた世界にこそ、主人公は、また辻井さんは怒りを覚えているのです。ただ、それを、あたかも世界と繋がる一本の木橋を憤怒の炎で焼き払うかのように関心への方途は閉ざされてしまう。われわれがそこに見るのは激しい無関心であり、激しく「心ここにあらず」なのです。

  そう考えれば、一応の納得がいきます。

 しかし、三浦さんはなぜか、ここの下りを垂直に聳え立つ断崖を跳躍するかのように、「激しい無関心」から「世界を許していない」までを一足跳びするかのように飛躍するのでしょうか。

 もちろん、与えられた枚数の制限の問題もあったかも知れません。しかし、そんなことは全く問題にはならなかったでしょう。

 三浦さんにはそのこと、その飛躍が、「飛躍」として認知されていないのです。つまり、そんなことは言わずとも聴衆が、あるいは、読者が理解できると思えるほど、三浦さん自身には如実に「理会」できていたのです。

 何故か。

 それはあたかも三浦さん自身のことだったからです。

 詳細は後に述べることになるが、恐らくここで説明されていることは、まさに三浦さん自身のことだったのです。

 文庫解説の最後の下り「作者はいまなお、ほんとうには、世界を許してはいないのである。」、ここを読み終わって、三浦さんは講演でこう付け加えます。

 

 堤さんが読めば、その真意が瞬間的に理解できるだろう。僕はそう考えてこの一文を加えました。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.142

 

 「真意が瞬間的に理解できる」――、あたかも二人は激戦を潜り抜けた戦友か、革命運動の同志でもあるかのような口振りです。いや、全くその通りなのです。おかれた状況の細部は無論異なります。肉親関係の複雑さ、ということでは、当然辻井さんの方が格段に複雑極まりないと言えるでしょう。だが、幼少期に受けた精神的な構えが、二人に同じ風景を見させてしまうのです。

 われわれはここで寺山修司作詞になる名曲「時には母のない子のように」(田中未知作曲・1969年)を口ずさんでみればよいのでしょうか。ご存じじゃない方もいると思いますので、本とはわたしが歌ってみればよいのですが、そうもいかないので、ちょっとYouTubeで、カルメン・マキさんの歌唱で聴いてみましょう。

 

時には母の ない子のように

だまって海を みつめていたい

時には母の ない子のように

ひとりで旅に 出てみたい

だけど心は すぐかわる

母のない子に なったなら

だれにも愛を 話せない

 

      (寺山修司作詞「時には母のない子のように」)


 詩を素直に読めば分かりますが、詩の中の話者自身は「母のない子」ではないのですが、もし、「母のない子」になれば、だまって海を見つめたり、ひとりで旅に出たりするのですが、「母のない子」は「だれにも愛を 話せない」から、やだな、というものです。――泣いていいですよ。

 さて、三浦さんは無論小説家や随筆家ではないので、ほとんど自己の来歴を語ることはありません。例の著者「年譜」を見ても20代以前のことなどほとんど分かっていません。しかしながら次に引用するのは『言語の政治学』からだが、ほぼ同じ内容が講談社文芸文庫版『メランコリーの水脈』の「あとがき」にも見えるので、三浦さんにとって、かなり根深い記憶なのだと推測できます。三浦さん、小学校5年生時の記憶です。

 

 私は事情があって小学校五年生のときに雪国の山奥から東北太平洋岸のある町に転校したが、おそらく戸籍上の問題か何かがあって、数週間、待機児童のような境遇に置かれていた。幼年の記憶なので期間ははっきりしないが、とにかく学校へ行くこともなく、ほとんど毎日、太平洋岸の広大な砂浜にひとり足を運んで過ごした。早春だった。太平洋岸は雪が降らない。空も青く、海もひたすら青かった。はるか遠くに工場地帯の煙がうっすらと見えていた。風が快かった。そうして、この世のすべてはもう終わってしまっているのだという漠とした思いが、波のように、ほとんど音楽的に、寄せては返すのを感じていた。その思いは強烈で、まるで記憶の中を生きているような気分だった。(『言語の政治学』p.408

 

 まさに「心ここにあらず」です。――ではあるが、恐らく小5のとくにはもっと漠然としたものだったでしょう。それがその後、さまざまな文学的体験を重ねることによって、こうなったのでしょう。

 

 話を講演に戻します。

 恐らく、三浦さんは、文庫解説の最後の一文は最後、脱稿するに当たって、その着想を「発見」し、その発見を書かずにはいられなかったのだと思います。

 きっと興奮していたはずです。

 この講演の時もそうなのです。話しながら興奮していたのです。三浦さんはこう続けています。

 

 少し、のめりこんで話してしまっていますね。こういうときは、ちょっと怪しいのです()。堤さんの中に自分を投影して、熱を込めてしまっているということですから。でも、書くということはそういうことなので、しようがない。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』 p.142

 

 と言って、先にも触れたが、三浦さん自身の青年時代の思い出、詩人・フランス文学者の宇佐見英治さんとの出会い、彼に師事していたこと、自殺することは全人類への死刑宣告である云々という、恐らく自然の流れでその話になっていたことでしょう。

 その後、辻井さんの代表作は詩集(1982年・思潮社)と長篇小説(1998年・文藝春秋)からなる『沈める城』であること。

 また、辻井さんの示した「激しい無関心」というのはラテン・アメリカ文学と類似性があり、その先蹤となるのがアルベール・カミュ、とりわけ、遺作として死後刊行された『最初の人間』(1994/大久保敏彦訳・1996年・新潮社/2012年・新潮文庫)であると、世界文学の中での辻井喬の意味が論じられていきます。大変興味深い問題ではあるが、一旦本稿の主題とは懸け離れるので、ここでは紹介だけに留めます。

 

 

参照文献

カミュ アルベール. (1994年/1996年/2012). 『最初の人間』. (大久保敏彦, ) 原著/新潮社/新潮文庫.

安部ヨリミ. (1924/2012). 『スフィンクスは笑う』. 異端社/講談社文芸文庫.

夏目漱石. (1914). 「私の個人主義」. 青空文庫.

江藤淳, 吉本隆明. (1966年/1967). 「文学と思想」. : 『文藝』19661月号/『江藤淳 著作集6 政治・歴史・文化』. 河出書房/講談社.

三浦雅士. (1981). 『私という現象』. 冬樹社.

三浦雅士. (1982). 『幻のもうひとり――現代芸術ノート』. 冬樹社.

三浦雅士. (1982). 『主体の変容――現代文学ノート』. 中央公論社.

三浦雅士. (1984). 『メランコリーの水脈』. 福武書店.

三浦雅士. (1984). 『夢の明るい鏡――三浦雅士 編集後記集1970.71981.12. 冬樹社.

三浦雅士. (1985年/1988). 「変容する事物――アルマンについて」. : 『アルマン展―破壊と再生』/『疑問の網状組織へ』. 西武美術館/筑摩書房.

三浦雅士. (2001年/2002). 「読書と年齢」. : 岩波文庫編集部 (), 『読書のすすめ』(非売品)/『読書のたのしみ』. 岩波書店/岩波文庫.

三浦雅士. (2003). 「年譜――三浦雅士」. : 三浦雅士, 『メランコリーの水脈』. 講談社文芸文庫.

三浦雅士. (2004). 「モダニズム再考にあたっての一視点」. : 『再考 近代日本の絵画――美意識の形成と展開――』. セゾン現代美術館.

三浦雅士. (2007). 「解説」(辻井喬『父の肖像』). : 辻井喬, 『父の肖像』下. 新潮文庫.

三浦雅士. (2013). 『魂の場所――セゾン現代美術館へのひとつの導入』. セゾン現代美術館.

三浦雅士. (2014). 「心ここにあらず」. : 『新潮』2014年2月号. 新潮社.

三浦雅士. (2016). 「二つの名前を持つこと」. : 菅野昭正 (), 『辻井喬=堤清二――文化を創造する文学者』. 平凡社.

三浦雅士. (2018). 『孤独の発明 または言語の政治学』. 講談社.

三浦雅士. (2020). 「安部公房の母の威力――私の文芸文庫⑥安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』」. : 『群像』2020年6月号. 講談社.

三浦雅士. (2020). 『石坂洋次郎の逆襲』. 講談社.

三浦雅士, 難波英夫, 坂本里英子. (2013). 『セゾン現代美術館コレクション選 = Sezon Museum of Modern Art : selected works from the collection. セゾン現代美術館.

小林秀雄. (1975年/2014). 「信ずることと知ること」. : 小林秀雄, 『学生との対話』. 講演/新潮社.

大岡信. (2003). 「解説 父親探しの話」. : 三浦雅士, 『メランコリーの水脈』. 講談社文芸文庫.

辻井喬. (1982). 『沈める城』(詩集). 思潮社.

辻井喬. (1998). 『沈める城』(長篇小説). 文藝春秋.

辻井喬. (2004年/2007). 『父の肖像』原著1巻/文庫上下2巻. 新潮社/新潮文庫.

辻井喬. (2012). 『死について』. 思潮社.

田中未知, 寺山修司 (1969). 「時には母のない子のように」.

東浩紀 (). (2015). 『ゲンロン』第1号・特集 現代日本の批評. ゲンロン.

柄谷行人, 浅田彰, 蓮實重彦, 三浦雅士, 野口武彦. (1990年・1991年・1992年/1998). 『近代日本の批評』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ. (柄谷行人, ) 福武書店/講談社文芸文庫.

 

 

 

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202408151352改稿

19,713字(49枚)

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