三浦雅士――人間の遠い彼方へ その8
6 詩人たち
1 那珂太郎
三浦さん自身は決して詩人ではないが*、批評家として詩への親近性が際立って高いことは、彼が詩誌『ユリイカ』の編集長として日本の多くの名だたる詩人たちと親交を結び、日本の詩壇の影として支えてきたことは窺い知れます。
*これはあくまでも「現在のところ」、という条件が付く。公刊されない形で密かに詩業をなしているやも知れません。『言語の政治学』の「あとがき」によれば高校2年生の冬に「人間には生きる根拠がない」、だから「全人類が自滅を選択すべきだ」という主題のもとに小説を書き、その後「焼却した」話が書かれています(三浦「あとがき」/『言語の政治学』p.p.544-545)。無論、誰しも若き日に熱病にでもかかったかのように小説や詩を書いてしまうものなのです。「内面」が存在しないにも関わらず、小説やら詩を書くことで、逆に「内面」が作られます。無論、そのことが病の謂いなのだが、人間はそれらをせずして「人間」にはなれないのです。三浦さんの場合は、その「熱病」が癒えず、小説が編集や批評に置き換えられただけなのです。どこかで詩の何篇かを書いていて、机底に密かに沈めているやも知れません。
もともと三浦さんが、後に青土社を興し、第二次『ユリイカ』を創刊することになる清水康雄さんに紹介したのは詩人の那珂太郎さんでした(三浦「年譜」p.331)。
三浦さん自身にも那珂太郎さんについての文章はあるが(三浦「那珂太郎と山口昌男または祝祭としての虚無」/『私という現象』)、那珂太郎さんの位置を第三者的に見るために、一旦ここでは、詩人・野村喜和夫さんの言葉を引きましょう。
那珂太郎は孤高の詩人だ。しかも寡作である。詩集「音樂」には十九篇の作品が収録されているが、それらを書くのに九年間を要している。そうした長い時間をかけて那珂氏が追求したもの、
ひとことで言うならそれは、詩の空間の自律性である。戦後詩の主流がメタファーを中心とした意味性偏重に傾くなかで、 ひとり那珂氏は、氏自身の言葉を借りるなら、
「虚心にことばの自律的うごきに随」 いながら、「ことばをしてことばを呼ばしめ、ことばをしてみづから行かしめることによって、おのれの未知の領域に達しようと」試みたのだ。
そしてこの「繭」は、戦後詩にあって特異なそうした言語実験の、まさしく極点ともいえる作品なのである。(野村喜和夫「那珂太郎」/大岡信編『現代詩の鑑賞101』1998年・新書館。傍線部評者)
では、ここで論じられようとしている「繭」とはどんなものなのか。全文を引きます。
繭
那珂太郎
むらさきの腦髓の
瑪瑙のうつくしい斷面はなく
ゆらゆらゆれる
ゆめの繭 憂愁の繭
けむりの絲のゆらめくもつれの
もももももももももも
裳も藻も腿も桃も
もがきからみもぎれよぢれとけゆく透明の
鴇いろのとき
よあけの羊水
にひたされた不定型のいのち
のくらい襞にびつしり
ひかる<無> の卵
がエロチツクに蠢めく
ぎらら
ぐび
る
ぴりれ
鱗粉の銀の砂のながれの
泥のまどろみの
死に刺繍された思念のさなぎの
ただよふ
レモンのにほひ臟物のにほひ
とつぜん噴出する
トパアズの 鴇いろの
みどりの むらさきの
とほい時の都市の塔の
裂かれた空のさけび
うまれるまへにうしなはれる
みえない未來の記憶の
血の花火の
(那珂太郎「繭」/『音樂』/前掲・『現代詩の鑑賞101』p.p.64-65より援引)
ここで、那珂さんの詩について論ずることはできぬが、野村さんの解釈にもあるように、いわば、「意味性偏重」に流れることなく、行ってみれば「ことばの、ことばによる、ことばのための」「詩の空間の自律性」を達成せんがために「言語実験の、まさしく極点」に至ったということでしょうか。
繰り返すが、わたしには那珂さんの詩業について云々する資格も能力もないが、三浦さんが高校を卒業するかしないか、いや卒業できるか、できないか、という瀬戸際で青森から東京に出てきて、右も左に分からない青年が、恐らく耽読したであろう世界がこのような詩語の世界だというのは確認しておく必要があります。
この間の経緯については三浦さんにとって「精神的支柱?」とでも言うべき存在だった大岡信さんの文章に詳しいです。三浦さんの『メランコリーの水脈』解説「父親探しの話」の一節です。軽く思い出話の体裁で書かれてはいるが、三浦論として、極めて重要な文書です。
そもそも、残念ながら三浦さんについて何がしか論じている文書そのものがほぼ皆無なのです。全く残念なことです。
「ユリイカ」入社時のいきさつを最もよく知る人は、たぶん詩人の那珂太郎さんであるが、那珂さんの話によると、近づきになった最初は一九六五年に那珂さんの有名な詩集『音楽』が刊行された直後のことだったらしい。三浦雅士はこの本の愛読者として著者と知り合い、それを通して那珂さん経由で、「ユリイカ」復刊を志していた清水康雄に編集者として採用された。そして私のところへ連絡をとってきたというわけだった。言うまでもなく、那珂さんは第一次「ユリイカ」の創始者だった伊達得夫の無二の親友であり、第二次「ユリイカ」を十数年後に復刊しようと志した清水康雄にとっても、最も重要な相談相手だったのである。(大岡信「解説 父親探しの話」/三浦『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫・p.320)
那珂太郎さんが詩集『音樂』で室生犀星詩人賞を受賞をしたのは1965年、その翌年読売文学賞を受賞して、注目されます。が、ここにもあるように刊行直後に那珂と知り合ったことになります。「年譜」ではこうなっています。
一九六五年(昭和四〇年) 一九歳
一月、受験を理由に上京、以後、 アパート生活を始める。出席日数が足りなかったが、三月、 弘前高校卒業。卒業式は欠席。
一九六六年(昭和四一年) 二〇歳
宇佐見英治、 那珂太郎、及川均、辻まこと、入沢康夫らを知る。(「年譜」p.331)
2 宇佐見英治
わたしの分かる限りで、1966年の下りに登場する詩人たちについて、簡単に触れておきます。
宇佐見英治(1918年~2002年)さんは、詩人、フランス文学者、美術評論家で、明治大学の教授でした。ジャコメッティを日本に紹介したことでも知られています。
迂闊にもわたしは宇佐見さんのことはもとより、三浦さんがその初期に、宇佐見さんに「師事」をしていたことなど露ほどに知らず、そのことをつい最近知って驚いた次第です。全く以て汗顔の至りであります。
三浦さんの秀逸な辻井喬論「二つの名前を持つこと」*にこの件が軽く触れられています。
*菅野昭正編『辻井喬=堤清二――文化を創造する文学者』2016年・平凡社所収。この論考(講演の速記なのだが)は大変素晴らしい。第5章第1節第3項にて詳細を論じました。
繰り返しになるが、この「二つの名前を持つこと」は、2014年10月、世田谷文学館において開催された連続講演会の一つです。その中に、辻井さんの代表作とも言ってよい『父の肖像』の文庫化に際して、三浦さん自身が執筆した「解説」の朗読がその中心部分をなします。その「解説」の冒頭にスイスの彫刻家、アルベルト・ジャコメッティの思い出が語られます。このジャコメッティの「ぶれてでもいるような無数の線が、ほかならぬそのぶれによって驚くべき深さを感じさせ」*ることが、辻井さんの『父の肖像』の作風を思わせる、と続くのであるが、このジャコメッティのことを三浦さんに教えたのが宇佐見さんその人だ、という訳です。
考えにつまずいていたころ、詩人でフランス文学者の宇佐見英治さんと知り合いました。師事したと言ったほうがいい。僕にジャコメッティのことを教えてくれたのも字佐見さんなのですが、(後略)。( 前掲・三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.143 )
*三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.125。
三浦さんの読者であれば、しばしば目にする「自殺は、自殺者その人の否定であるだけでなく、全世界の否定でもあ」*り、それすなわち「全人類への死刑宣告なの」*だ、だからこそ「自殺をしてはいけない」と相手を止めるべきなのだ、という論理を、この初対面の高名な詩人に三浦さんはぶつけ、そのことで宇佐見から認められるようになったといいます*。
*三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.144。
なぜ、宇佐見さんは三浦さんの力を認めたのでしょうか。
のちに、三浦さんは、宇佐見さん自身が旧制高校生だった頃、自殺志願を宣告したものの、結局死にきれず寮に戻ってきたことを小島信夫さんの小説『憂い顔の騎士たち』(1973年・旺文社文庫)で知ったといいます。つまり、こういうことでしょうか。
宇佐見さんが僕のことを「天才少年」であると友人たちに吹聴しているということが後になって僕の耳に入って赤面しましたが、それは僕が登場することによって、自身の青春時代の論理の息吹を生き生きと思い出すことができたからだと思います。天才だったのは青春時代の宇佐見さんであって僕ではない。僕はそのことを思い出させただけだったのです。(三浦「二つの名前を持つこと」/菅野編『辻井喬=堤清二』p.146)
宇佐見さんは三浦さんに自身の若き日の姿を見出して三浦さんを認めたということになります。誰しも他人を発見するということは、自身の姿を見出すことに他ならないからです。それは三浦自身も同じことだったでしょう。ちなみに有名な話だが三浦さんは自らの意志で大学には進んでいません。したがって、この場合、三浦さんが宇佐見さんに「師事」をした、というのも、自ら進んで学びに行っていたのでしょう。
残念ながら、その師弟としての「交流」がいつまで続いたのかは不明です。ただ、この3年後、1969年には三浦さんは青土社に正社員として就職するので、さほど頻繁には行われなくなったのではないでしょうか。
那珂太郎さんについては先に触れました。
順番を変えて、及川さんはこの項の最後に触れることとします。
3 辻まこと
辻まことさん(1913年~1975年)は詩人、画家です。一般には「山岳、スキーなどをテーマとした画文や文明批評的なイラストで知られる。日本におけるダダイスムの中心的人物で餓死した辻潤と、婦人解放運動家で甘粕事件で大杉栄とともに殺害された伊藤野枝を両親にもつ。/1975年、首吊り自殺を遂げた。」(「辻まこと」/『Wikipedia』)というような説明を読んだり、あるいは、西木正明『夢幻の山旅』(1994年・中央公論社)などを読むと、本当なのかどうか判断がつかないが、相当数奇な運命に左右された人なのかとは思います。
下は1940年、つまり27歳の辻さんの肖像写真らしい。凄い眼力です。
【図 辻まことの肖像写真
(筆者名不明「昭和の漂泊者 《辻まこと・父親辻潤》」/「ヒンドゥ-クシ海峡をこえて
三千世界の逍遙遊、この世の果てから路地裏まで」貼り付け元
<http://hindukush-sea.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-d78b.html>
2009年7月25日 (土)更新より援引)
ところが、辻さんの文章を読むと相当飄々としたところがあって、どうにもつかみどころのない人のようです。
三浦さんとの交流の詳細は分かりません。
4 入沢康夫
入沢康夫さん(1931年~2018年)は詩人にして、フランス文学者であるが、一般には何よりも、盟友天沢退二郎さんと並んで、1971年から多年にわたって『校本宮澤賢治全集』(1973年~1977年・筑摩書房)『新校本宮澤賢治全集』(1995年~2009年・筑摩書房)の編纂に従事したことの方が有名でしょう。入沢さんは後で触れるように、青土社の初期の経営の危機を救った『ユリイカ』1970年7月臨時増刊号・「総特集=宮沢賢治」の、天沢さんとの共同編集者でもありました。これ以降何回か『ユリイカ』にも登場します。
5 及川均
及川均さん(1913年~1996年)は詩人。
三浦さんは、大岡信編纂になる現代詩のアンソロジーに詳細な鑑賞文を附した『現代詩の鑑賞101』(1998年・新書館)に2人の詩人について鑑賞文を寄稿しています。及川均さんと三好豊一郎さんの二人です。題名の通り、このアンソロジーでは101名の現代詩の代表的な作り手が選ばれているが、鑑賞文の筆者は都合5人で、うち編者の大岡さんが3名担当、高橋順子さんが16名、野村喜和夫さんが17名、八木忠栄さんが17名となり、三浦さんの担当の2名というのが際立って少ない気がします。無論、大岡さんは『折々のうた』の連載などで多忙だったのでしょう。三浦さんは新書館の編集主幹として、この企画を聞き及び、ぜひ、先に挙げた2人を書かせて欲しい、と手を挙げたのか、あるいは他の筆者たちが担当を希望しなかったのか、その辺りは不明ではあるが、わたしの知る限りでは、他の文章でこの二人については書いていないはずです。三浦さんにとって、この二人は、恐らく秘中の秘、とても大切な詩人だったのではないでしょうか。
煩瑣になるので、一旦ここでは及川さんについてだけ触れておきます。及川均さんの1955年に刊行された『焼酎詩集』から「わきめもふらず。ジグザグに。」から全文を引きます。
生きてることの徒労のために。
まず一杯。
ウラニウム状の夜ともなれば。
こころもとなくなりますからね。
焼鳥。 煮込み。 ひややっこ。
正陽門外正陽楼の烤羊肉といきたいが。
どうにも輓近きゅうくつで。
ご存知のように不如意不随意。
しばらく軒昂を祝うには。
決してこれにかぎりまする。
その一杯のあとにまた一杯。
その一杯のあとにはまた一杯。
胃の腑が承知しないまでは
しかたがないから飲むまでです。
兄弟よ。飲め。
飲むにかぎるにかぎる
昨今しきりにきなくさく。
旗と旗とがざわざわざわざわ。
けれどもおたがい大儀だから。
旗持ちなどは絶対おことわり。
まして。 いわんや。 おいておや。
にがくてからいところがいい。
ぐでんぐでんの果の果の果。
やわらかいところへ行きまする。
Vagina Uterus 揺籃の墓へ。
ぼくら。わきめもふらず。ジグザグに。
(及川均「わきめもふらず。ジグザグに。」/『焼酎詩集』/前掲・『現代詩の鑑賞101』p.p.12-14より援引)
何だ、酔っぱらいの詩ではないか、と言うのは容易い。あるいは三浦さんが、初期の三浦さんがこういう、或る種、諧謔性を持った詩、観念に凭れかかるのではなく、労働者の現実からにじみ出てくるような苦い愉しみを詠った詩に惹かれていたというのも、三浦さんの、われわれの知っている面とは違って、大変興味深い。
三浦さんはこの詩について、まず「形式」を持った詩であること、それによって「アイロニー」が滲み出ていると指摘します。「アイロニー」とは平たく言えば「矛盾した表現によって人間の真実に迫ろうとする手法のこと」*です。「わきめもふらず。ジグザグに。」という題名そのものが既にしてアイロニーになっています。「わきめもふらず、まっすぐに」ではないのです。
*三浦「わきめもふらず。ジグサグに。」鑑賞文/前掲・『現代詩の鑑賞101』p.13。
では、「わきめもふらず。ジグザグに。」何処に行くのか。無論、苦渋に満ちた仕事が終われば、毎晩のように赤提灯に向かうのです。本当にそうなのか。三浦さんの鑑賞を引いてみましょう。結論部です。
最終連。Vaginaは膣。Uterusは子宮。酔っ払った果てに、女のところに戻るのか、と反問されそうだが、むろんその意も含んだうえで、 いずれ人はすべて死ぬ、
と述べているのだ。性は同時に「揺籃の墓」。すなわち、突き詰めれば生は死である。
「わきめもふらず。ジグサグに。」とは、それにしても、人生の評言として痛いほど真実を衝いている。人生は決してまっすぐではない。けれど、人は「わきめもふらず」自身の死へ向かってゆくほかないのである。(三浦「わきめもふらず。ジグサグに。」鑑賞文/前掲・『現代詩の鑑賞101』p.14)
まさにその通りだ、というしかない。「詩」とは「死」について語ることだとでも言うかのように。
そして次のように結論づける。
ちなみに、 この表題にはどこか 「まがつたてつぽうだまのやうに」という宮沢賢治の有名な一行を思い出させるところがある。及川均は、形式において草野心平を、思想において金子光晴を継承している。だが同時に、
魂において、同じ岩手に生まれた宮沢賢治を継承していると言いたい気がする。(三浦「わきめもふらず。ジグサグに。」鑑賞文/前掲・『現代詩の鑑賞101』p.14)
と、このように、一般の読者には比較的知られることの少なかったこの詩人の戦後詩の座標軸の上に明確に定位してみせます。つまり、この数行の中に、いかに三浦さんが詩の世界に、言葉を選ばずに述べれば、耽溺したかが分かるというものです。三浦さんは少なくとも日本の戦後詩については誰よりも通暁しているのではないか、と思わされる見通しのようなものが暗示されます。
で、なければ、いかにたった一人の社員だからと言って、かの伝統ある詩誌『ユリイカ』の編集長を20数歳の若者に任せるでしょうか。宇佐見さんが三浦さんの一言で了解したように、青土社社長・清水さんも三浦さんの言動の端々から、三浦さんの知見と能力と、そして熱意を了解したのでしょう。
ちなみに三浦さんが引用した賢治の詩句は、妹トシの死を詠んだ「永訣の朝」の一節です。
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コラム ☕tea for one |
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~『死について』/『詩に就いて』~ 死を目前にした最晩年の辻井喬さんが『現代詩手帖』(2011年1月号~2012年1月号)に、後に『死について』(2012年・思潮社)なる表題の下に纏められることになる連作詩を連載していました(辻井さんは翌2013年に亡くなる)。 その後、谷川俊太郎さんが、こちらは書き下ろしではあるが、『現代詩手帖』を刊行する思潮社から『詩に就いて』(2015年・思潮社)という詩集を出して、刊行記念ということだろうが、やはり『現代詩手帖』(2015年9月号)で、その特集(「谷川俊太郎『詩に就いて』を読む」)が組まれていて、はたと気づきました。 この当然であるべきこと、詩とは死について語ることなのだ、死とは詩であるべきなのだと認識を新たにしたのです。三浦さんは同号に寄稿し、この谷川さんの問いかけに「死の光線」が差し込んでいることを指摘します。「『詩に就いて』は、実際には『死に就いて』なのだと言ってもいい。」と(三浦雅士「世界は誰の思い出?」/『現代詩手帖』2015年9月号・思潮社・p.50)。 📓
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一旦「年譜」の1966年に登場する「詩人たち」を紹介する形を取ったが、詩人たちと言えば、無論、この後、編集者として多くの詩人たちと遭遇していきます。
大岡信、谷川俊太郎、吉本隆明、辻井喬、寺山修司、……と挙げていけば切りがないが、この5人の詩人(その他)については、三浦さん自身もそれぞれ論じている、極めて重要な存在だ。別項にて論ずることにします。
7 編集
これら多くの詩人たちとの交流、交通は、結局は「信頼」関係という、ありきたりな言葉になってしまうが、それが作り上げられたのも単に三浦さんの編集者としての真面目な、場合によっては力こぶが入り過ぎる人柄、仕事ぶりもそうだったかもしれぬが、彼の持っている「詩人」としての魂のようなものが多くの詩人たちの信頼を勝ち得たのではないでしょうか。
『新約聖書』によれば、イエスは「権威ある者のように語っ」て人々を驚かしたと言うが(『マルコによる福音書』1・22)、弱冠30歳の青年編集長の言葉に律法者ならぬ、多くの文学者や専門の学者たちは、その言葉に驚いたのではないでしょうか。でなければどうして「廃刊寸前」とも目された雑誌に錚々たる論者が揃うのでしょうか。
例えば、――どの号でも構わないが、先に挙げた1976年11月号の目次を資料として掲示しましょう。
最初に示すのはその号の表紙です。一目瞭然ではあるが、日本を代表する現代画家・宇佐美圭司さんの手になるものだと推測される。
【図 『現代思想』1976年11月号・特集=死――その総合的研究 表紙】
【資料 『現代思想』1976年11月号・特集=死――その総合的研究 目次(『夢の明るい鏡』p.252)】
*目次の記号は以下のものを示す。A=特集 C=エッセイ E=連載 F=書評(ちなみに抜けているBは対話シリーズ、Dは論文。『夢の明るい鏡』p.244)
●11月号●死
A 高橋義孝 死生のこと
― 山崎正一 死と生
― 稲垣良典 死と希望
― 吉本隆明 <死>はなぜあるか
― 井門富士夫 「社会的死」と「自然死」
― 古田幸男 現代文明における死
― 岸田 秀 死はなぜこわいか
― 野田春彦 生物としての人間の死を考える
― 北沢右三 生態系における死の意味
― 岩田慶治 民俗の死の彼岸
― 大林太良 葬制・他界・男女
― 矢島文夫 不死と復活
― 吉田敦彦 死の神話の論理
― 三枝和子 「死」と観念小説
― 早乙女忠 詩人と死願望
― 加藤 茂 生と死の現象学
― 長谷川博隆 ローマ人と死
― 新倉俊一 中世の死生観
― 阿部謹也 中世における死
― 市川慎一 百科全書派における死の観念
C 佐藤信行 人間的空間とは何か
― 中村雄二郎 パイプオルガンと定義
― 阿部良雄 賢者の石
E 植田祐次 墓からの手紙
― 立川昭一 箱入りを十九で桶へ
― 小野二郎 グラスゴウ・スクール・オヴ・アート
― 蓮實重彦 倫敦塔再訪
― 八杉龍一 進化思想史の一課題
― 矢野健太郎 算数・数学教育の現代化について
― 小原秀雄 動物たちの生と死
― 高階秀爾 不在の椅子
― 木田 元 『行動の構造』と『知覚の現象学』
― 中村雄二郎、高階秀爾、山口昌男 批評は挑発する
― 生松敬三 ドイツ科学の興亡
― 高橋 馨 初期プレハーノフの諸問題
― ホルクハイマー、アドルノ ジュリエットあるいは啓蒙と道徳(徳永・池田共訳)
― 中村元 人間愛の強調
― 津村 喬 破局文学再考
― 福島 章 喪と犯罪
― 似田貝香門 危機の学としての社会学
F 村上陽一郎 クロノ=ソフィの渇き
― 藤本和貴夫 「左派」の可能性
1970年代から80年代の日本の文化状況を或る程度ご存じの方であれば、御覧頂ければご理解頂けると思うが、それぞれの専門のほぼ頂点を為す、あるいはその後頂点に立つに至ったトップクラスの論者たちばかりです。特集の論文にせよ、連載にせよ、これだけの書き手を揃えるのは、時代状況など周辺の事情もあったかも知れないが、少なくとも現在同レヴェルの仕事をするのは至難の業と言うしかありません。
そして、三浦さんはこのレヴェルをほぼ10年間維持し続けたのです。驚嘆に値します。
更に、『ユリイカ』、『現代思想』と言えば「特集」主義で有名で、三浦さんが「年譜」で書いているようにこのことが会社と雑誌を持ち直させた原動力になった訳だが、これもご存じの方には当然のことではあるが、この2誌は「臨時増刊号」というシステムを持っている、というかまさに三浦さんが「発明」したのです。
例えば先に例示した1976年11月(無論、実際には10月)には本号の11月号と、その時は、今でも名高い「11月臨時増刊号 総特集=ニーチェ」が発刊されています。これが年に1、2回本号の刊行に挿入されるのです。無論、別動隊が存在するわけではありません。同じ編集部の同じメンバー(最初期は三浦さん一人)がどちらも編集していたのです。
本号は「特集」、臨時増刊号は「総特集」とされていました。後者はその特集以外の記事を載せないのです。そういうこともあり、例えば、特定の著作家や、テーマに関心を持つ一般読者や研究者はどうしても手に取ってしまう。十分その価値が余りあるものだったから未だに古書店やインターネットで売買されているのです。
三浦さん自身がインタヴューの中で例に挙げているものが、例えば『現代思想』1978年6月臨時増刊号「総特集=現代思想の109人」であり*、同じく、1979年6月臨時増刊号「総特集=一九二〇年代の光と影」です**。とりわけ前者については80年代初頭に始まるニュー・アカデミズム・ムーヴメントと相俟って、現代思想の小事典やブック・ガイドとして座右に置いていた読者も少なくなかったでしょう***。
*三浦さんへの冬樹社編集部によるインタヴュー「編集または回転する運動」/『夢の明るい鏡』p.26。
**三浦・前掲/『夢の明るい鏡』p.p.10-11。
***後に新書館の編集主幹に就任した三浦さんは『ダンスマガジン』や『大航海』の編集長として指揮を執りつつ、同じ発想の類書を多く発刊した。新書館ハンドブックシリーズがそれで、木田元編による『哲学の古典101物語』(1996年)から天沢退二郎編『宮沢賢治ハンドブック』(1996年)と、三浦さんが『ユリイカ』、『現代思想』の編集を通じて培った人脈が生かされた企画でした。惜しむらくは判型の問題か、書店に常置される場所がなかったのがいささか問題だったかも知れません。新書版か選書版であれば、とは今更ながら残念に思います。つまり書店に置いてない!
参考までに、「売り切れ」になり、「雑誌も会社も持ち直」させたという『ユリイカ』1970年7月臨時増刊号・総特集=宮沢賢治の目次を掲げておきましょう。
【資料 『ユリイカ』1970年7月臨時増刊号・総特集=宮沢賢治
目次(『夢の明るい鏡』p.221)】
●7月臨時増刊号●宮沢賢治
入沢康夫・天沢退二郎 『銀河鉄道の夜』とは何か
稲垣足穂 銀河鉄道頌
小野十三郎 賢治の詩と自然
宮沢清六 「臨終のことば」から
天沢退二郎 なぜ<カムパネルラの死に遇ふ>か
入沢康夫 「銀河鉄道の夜」研究のための資料集
大岡 信 賢治断章
三木 卓 賢治の美しいものとは何だったか
いぬいとみこ 奇妙なひとりごと
会田綱雄 「無声働哭」三部作
境 忠一 宮沢賢治の幻想について
福島 章 修羅の意識としての青春
飯吉光夫 ふたり
伊東守男 イーハトーヴは岩手県ではない
堀尾青史 宮沢トシ・その生涯と書簡
宮沢トシ 宮沢トシ書簡集(堀尾青史編)
奥田弘編 宮沢賢治参考文献目録
天沢退二郎編 宮沢賢治略年譜
後に触れることになるとは思うが、後年三浦さんは美術家の荒川修作さんから「文明批評家」と呼ばれるほど、その批評のエリアを拡張していきます。文学・哲学は無論のこと、歴史、舞踊、仏教学、科学へと三浦さんが論じる題材は拡がっていきました。しかしながら、それらの根本には「言語」があり、その言語を論ずることこそ文芸評論家の仕事なのだと、複数の箇所で強い口調で言明しています。
「詩」とは何か、を論じることができるほどわたしには詩は理解できてはいないが、「言語」の究極の形が「詩」であり、「詩」の根本が「文芸」、つまり「文」の「芸」であるとすれば、三浦さんの怒りにも似た自信がどこから来るのかいささか理解できたような気も致します。
相当以前に三浦さん御本人と会ったときに直接言われたことが「文芸としての批評を書きなさい」ということだったのを昨日のように思い出してこのお話をさせて頂いています。
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コラム ☕tea for one |
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~三浦さんとの出会い~ 三浦さん本人とは2回お会いしたことがあります。と言っても一度はサントリーホールでお見かけしただけだから会ったうちに入らないですね。二回目は1993年だから、30年近く前のことだ。問題は30年前ということではなく、30年近くわたしが何もしなかったということです。つい最近まで何もできなかった。「収容所列島」(「群島」ならぬ「列島」、日本だから)=「強制労働収容所」に「囚われの身」だったから已むを得ない。かのイソップは奴隷の身でありながら、数々の寓話を遺しましたが、労働奴隷たるわたしは数多くの始末書を残しただけでした。 さて、横浜で三浦さんの舞踊に関する講演会*があって、その終りしな、この話「文芸としての批評を書きなさい」との話をされました。 *「いま、なぜ舞踊か」1993年11月13日、朝日カルチャーセンター横浜における公開講座。 というのはその前に三浦さんの対談集『この本がいい』に関する書評のようなもの(第2章参照)を書いて、お送りしたところ、まず担当編集者の方から礼状が来て、まず驚いた。さらにはそこで言及されていた論者の方々にもそれを送ってたところ、詩人、評論家の大岡信さんからもお葉書を頂いた。「気持ちのいい紹介で三浦君も喜んでいるだろう」云々という文面で驚愕しました。そして、その直後、すぐ三浦さんご本人からもお葉書を頂きました。驚きを通り越して意味不明とでも言うしかない有様でした。 それで、その時にその件を覚えていらっしゃって件の話に繋がるわけです。 その折、実はサインを求めたのだが、何故か、異様に恥ずかしがられて、その理由は未だに分からないのだが、後で送るからと固辞されたのです。つまり、こういう場ではサインはしないということなのか、そもそもサインなどしないということなのか。媒体(?)もその辺にあるようなメモ帳とかではなく三浦さんの著書『この本がいい』を持参して差し出したのだが。とにかく後で送るからの一点張りだったのです。 その後、何の音沙汰もなく月日が過ぎていった。恐らく、サインに関する何らかの方針のようなものをお持ちでそれに違背したのか、単にお忙しくお忘れになったのだろうと、気にも留めてなかったのです。 ところが、それから2年の(多分?)月日が流れ去り、突如として三浦さんの『身体の零度』のサイン本がご本人から送られてきました。それによるとわたしの住所のメモを発見することができず、このように時間が掛かってしまった、とのことだが、普通なら、そのままお互いに「忘れたことにする」というのが着地点かと思うが、それをそうしなかったところにも、何となく三浦さんらしさが表れていた気もするのです。 📓
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202408131535
12,118字(30枚)


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