目次
三浦さんは、先に述べたように、詩人たちに育まれて、思想的散文詩、批評的散文詩とも言うべき、比較的短い文章によって、自らの地歩を確かなものとしてきました。
思想的には、世にポストモダンの嵐が吹き荒れていたが、それはいうなれば相対主義であって、その相対主義にいかに対抗していくのかが問題で、初期から倫理性を保持していたのです。
それらの解決の一つが第1章で述べた「人間」という基準であって、さらにはそれは第2章で述べたように「生命」とでも言うべきものでした。従来は短篇の集成が三浦さんの単行本の成り立ちであったが、『身体の零度』に至って、初めて体系的な本を書き下ろすことになります。ここから身体論という要素も始まってくるのです。
分岐点になるのが、『青春の終焉』に始まる大著3冊です。つまり、ここから短篇型の批評家から大著を為す批評家へと三浦さんは脱したかに見えました。詳しくは後に論ずるが、従来の短篇であれば許された論理的飛躍や、同じような論理が堂々廻りのように繰り返される、唐突に差し挟まれる思い付き、あるいは結論を決定せず、問題点だけを投げ放しで放置して原稿を閉じるなどという技が、そのような大著では、宙に浮いてしまうことになってしまった。
その意味で言うと、残念ながら『青春の終焉』、『出生の秘密』、そして刊行された分の『孤独の発明 または言語の政治学』は全体としては評価が難しいと言わねばなりません。
ところが、驚くべきことに「孤独の発明」本篇、さらには「言語の政治学」連載最終回の書き直しによってお蔵入りになった分は大変素晴らしい内容なのです。つまり、これらは現段階では一般に目に入る形にはなっていません。まず、この問題があります。
さらに、三浦さんがこの段階で入手した技はなにか。一旦ここでは適切な言葉が浮かばないので、「資料」としておくが、目の前にある「資料」への徹底的なこだわりなのです。
『青春の終焉』以降、三浦さんは或る種「迷走」していると、わたしは考えているが、三浦さん自身はそのことを意識していないのかもしれません。そもそも、その技、手法が最もよく出ているのが、未刊行の「孤独の発明」本篇なのですから。
その先蹤となったのが『人生という作品』に収録された漢字・文字学者・白川静論「白川静問題」と「起源の忘却」です。
もう一つの「孤独の発明」本篇については「「父」・小林秀雄」という章を立てて論ずることとします。
先に述べたように、短篇型、つまり体系性を持たず、断章を或る意味ただ並べたもの、この批評の形式のまま、一大長篇評論へと挑んでいったのが『青春の終焉』(2001年)、『出生の秘密』(2005年)、そして「孤独の発明」(本篇未刊行、後篇『言語の政治学』2018年)の三部作ということになるが、例えば、章の一つ一つをとって読めば、さほど気にならないと思うが、つまり雑誌連載段階では十分読むに堪えうるはずだが、単行本としてまとめられると、果たしてどうだったのでしょうか。
個人的な見解では、やはり、あれだけのページ数*を、何らの体系性を持たずに、論理的な叙述をして、読者の興味を持たせるのは難しかったのでしょうか。
*それぞれ単行本での総ペイジ数を示します。『青春の終焉』(484ペイジ)、『出生の秘密』(617ペイジ)、『言語の政治学』(550ペイジ)。
もちろん、というか、そもそも体系性を持たせることがいいことかどうかは、判断の分かれるところではあるが、これが適切な例かどうか分からないが、例えば柄谷行人もその初期から中期にかけて、短篇、断章型であって、少なくとも体系的な論述をする形式を持っていなかったのです。ところが、恐らく「探究Ⅲ」*を書き継ぐうちに、内的な発見に遭遇し、大著『トランスクリティーク――カントとマルクス』(2001年・批評空間)の成立となりました。その後、『世界史の構造』(2010年・岩波書店)、そして、通称「Dの研究」こと「力と交換様式」**といずれも体系的になっています。
*「探究Ⅲ」は全24回、『群像』1993年1月号より96年9月号まで連載されました。
**「Dの研究」は全6回(ただし未完だと考えられる)、『atプラス』23号(2015年2月)から28号(2016年5月)まで連載の後、中断、2021年『力と交換様式』との名で単行本として刊行するため推敲中とのことらしい(柄谷「思想家の節目」※/『文學界』2021年2月号・p.p.170-171。柄谷「社会運動組織の可能性――「NAM」を検証し再考する」(棚部秀行によるインタヴューを構成した記事)/『毎日新聞』2021年4月14日夕刊)。その後、『力と交換様式』は2022年、岩波書店から刊行されました。現段階では、わたしはこの書については批判的な立場にあります。
※これを見る限りでは、柄谷さん本人は自分のことを「哲学者」ではなく「思想家」だと思っているのでしょうか。
全く個人的なことだが、わたしは柄谷さんの『トランスクリティーク』を一読して、初めて「柄谷が分かった」と思いました。少なくとも日本語の文章の一般的な意味としての意味はとてもよく分かった、と大変に感激した覚えがあり、その年の年賀状には「精読『トランスクリティーク』」なる論考を完成させます、と書いて、未だに一行も書いていないが、先輩、友人たちに宣言するぐらいには感動したのです(恐らく、それは完成することはないでしょうが)。
何故か? 何故、わたしのようなものでも明確に理解できたと思ったのでしょうか?
恐らく、柄谷さんの中で予め結論が見えていたからだと思います。予定された結論を目指して書けば、体系的かどうかは問わず、とりあえずそれは極めて分かりやすくなるでしょう。
それ以前の論考では、何度となく柄谷さんは言い直しをしたり、あるいは、~~ではない、●●でもない、という否定を連ねた挙句、明確にはそのものが言い切れていない、ということがしばしばありました。あるいは途中で定義や言葉の運用が違ってしまうということもあったと思います。あるいは論述の順番が錯綜していることもありました。それは柄谷さん自身が分かってないことを、書きながら考えて、それをそのまま文章にして、発表し、ほとんど編集することなく出版されていたのです。だから、それはやはり難解になるのも当然なのです。
しかし、これが「批評」というべきものではないのでしょうか。「批評」の本来のあるべき姿ではないのでしょうか。
「批評」とは何でしょうか?
「批評」は自分が知っていること、認識していること、自分が信念としていることを基準にして、何らかのものの
価値の有無を判断するのが批評なのでしょうか。この作品は詰まらない、とか面白いとかを書き連ねるのが批評なのでしょうか。
もちろん、日常的にその種の批評、というか評価、というか、最近のインターネットでしばしば見られる言葉で言ったら「review」ということになるが、それは確かに有用ではありましょう。或る作品を、或る商品を(現代社会において、商品ではない作品は原則ありえない)その価格*に見合うかどうか、買って損をしないかどうかという一般的な評価は確かに必要かも知れません。
*「価値」は価格でしか表すことができないが、本当に価値は価格と同義でしょうか。もっと言えば人の価値も価格、この場合は収入ということになるが、収入が高ければ人としての価値が高いのでしょうか。もしそうだとすれば、無収入の、子供や「主婦」や引退者は少なからず、価値が低いとか、価値そのものがない、ということになるが、そんなことがあるはずがありません。「価値」には外的な側面だけではなく、内的な価値をも考慮すべきです。
すなわち、価値には従来「使用価値」と「交換価値」があるとされてきました。交換価値は無論、交換されることによって初めて価値を獲得します。しかしそれとは別にそのもの自体が所有する、使用することによって発現する価値が「使用価値」です。これらはあくまでも、ものそのものと何らかの関係をとることで価値が発生するものです。したがってこれらを「相対的価値」と呼びましょう。
それに対し、ものそのものが本来持っている、つまり内在させている価値これを「内在価値」と呼びましょう、あるいはものそのもの自体がそのままで発現する価値性があるでしょう。この「ものそのもの自体の価値」を「存在の価値」あるいは「存在=価値」と呼ぶことにします。これらを「絶対的価値」と呼ぶことにしましょう。
【図 価値に関する概念図】
しかし、取り分け文学、思想、芸術作品においては、そもそも一般的な評価を拒絶する、無化するところがあることは事実です。逆に一般的な評価では低い判断を下された作品、あるいは歯牙にもかけられなかった作品こそが、実は、十分考察され、論ずるに値するものかも知れません。
いわゆる得体の知れなさ、というのか、一体、この作品の、あるいはこの現象の奇妙さ、分からなさは一体何なのか、そこを考えることこそ批評の批評たる所以ではないのでしょうか。
したがって、柄谷さんが体系的な、理論的な仕事に入ってから、「哲学者」を自称/他称*しているが、「哲学者」そのものの問題については、別に論じなければならないけれども、柄谷さんが文芸批評から手を引いて「理論的な」仕事をするようになったが故に、柄谷は哲学者になった訳ではない。そこに「批評」がなくなったからこそ、彼は「批評家失格」という意味合いにおいて「哲学者」になったのだと言えます。したがってこの場合の「哲学者」は尊称ではないことは確かです。
*恐らく、2005年に柄谷さんが『朝日新聞』の書評委員に就任した時の肩書が既に「哲学者」ではなかったでしょうか。たかが肩書というなかれ。一般的な日本語の理解では「哲学者」というのは、大学などの研究機関に所属する古典的な哲学、哲学者の研究・祖述をする「哲学研究者」のことです。自前で思考して、自らの知の体系を構築するといった、語の真の意味での哲学者など、少なくとも、戦後以後という縛りを付けたとしても現代日本には数えるほどしか存在しないでしょう。それでも、どうしてもというのであれば、それは思想家です。哲学者と思想家は何が違うか。個人的な見解だが、前者はできるだけ具体的な現場を持たず、そこから可能な限り離れる。できれば、次元とか位相とかいう意味で、もう一つ上/下の位置にいる。哲学者は、仮に現場から思考を始めたとしても、思考の過程が現場の軛に絡めとられているにせよ、出される結論は実際の現場を超越したものになるでしょう。
逆に思想家は原則現場から離れない。現場に始まって、現場で考え、場合によっては現場で活動をさえし、そして現場で終わるのが思想家であるとわたし個人は考えています。その意味で言うと、柄谷さんは確かに批評家ではないでしょうが、哲学者でもなく、思想家であると考えています。
しかし、そうは言ったものの、未だに憲法9条や「NAM」についての発言を執拗に(失礼!)繰り返すといった点からも、柄谷さんは哲学者などというものではなくて、やはり思想家なのだとわたしは考えています。
三浦さんの場合、一冊の書物の中で、最も緊密な体系性を持ち得たのが、第3章で述べた『身体の零度』(1994年)です。
その後、単独の論文としては、恐らく発表媒体の問題であろうが、『批評という鬱』(2001年)に収録された書論考が体系的、というか、いわゆる論文の形式で書かれています(と言っても相変わらず註も引用文献もないですが)。
収録元も含めて目次を示してみましょう。
1 「「青春の研究」序説」/『へるめす』1992年3月号・岩波書店。
2 「短歌と近代――隠された身体――」/富岡多恵子編『短歌と日本人Ⅳ 詩歌と芸能の身体感覚』1999年・岩波書店。
3 「舞踊の身体のための素描」/『岩波講座 歌舞伎・
文楽』第5巻『歌舞伎の身体論』1998年・岩波書店。
4 「近代的自我の神話」/『岩波講座 現代社会学』第2巻『自我・主体・アイデンティティ』1995年・岩波書店。
5 「批評という鬱――吉本隆明ノート」書き下ろし。
いずれも岩波書店からの刊行物に収録されていて、単行本『批評という鬱』も岩波書店からの発行です。
どういう訳か「はじめに――近代という幻想」にしても「あとがき――言語という恐怖」にしても、まったくもって、それだけで成立する短文の批評であって、つまり通常の「まえがき」、「あとがき」ではなく、通常書かれてしかるべき、本書の出版に関わる経緯は一言も述べられていません。つまり、編集担当者への社交辞令的な挨拶文ですね。これがありません。もちろん三浦さんの全ての論著にこれが必ずあるという訳ではないが、いささか奇妙です。たまたま文脈的にそぐわなかったのかも知れないが。少なくとも三浦さんの単著という形では、以後岩波書店から出ていません。岩波新書から『漱石』(2008年)が出ているが、単行本の編集部とは部署が違います。岩波書店側、あるいは編集部側と何がしかのトラブルなりなんなりがあったのかとも勘繰られますが、単なる偶然でしょう。
いずれにしても岩波から出している論文がたまったので単著を出すことになり、これで200ページ弱だったのを、もう一本書きましょうということで「批評という鬱」を書き下ろしたのだと思います。
1の「「青春の研究」序説」は言うまでもなく後年の『青春の終焉』の原本です。
2・3・4は一般向けではあるが、いわゆる学術論文ではないが、暗黙にそれに準じる線が要求されたものでしょう。その制約のある中で、なおかつ文芸評論家という立場、資格、文体で、健闘していると思われます。
この後に、『青春の終焉』が来るが、先にも述べたように、これは体系的というよりも、「青春」というキーワードをもとに比較的自由に、思いつくまま、筆の赴くまま、言うなれば、短篇、中篇の批評を蜿蜒と螺旋を描くかのように書き続けられたものです。
ということは、初期の方法論をそのまま、長篇の枠内で書いてみた、ということでしょうか。
これが、果たして成功したのかどうかは異論のあるところです。
それについては別に論ずべきかと思うが、しかしながら、その中でも未だ刊行されざる「孤独の発明」本篇については、若干の編集は必要かとは思うが、極めて素晴らしい、まさに文芸批評の作品になり得ていると私には思えます。そこには或る技が使われていました。
適切な言葉が今のところ思いつかないので、仮にそれを「資料」と呼んでおきます。
「若し或る名作家を擇んだら彼の全集を讀め」*とは小林秀雄の有名な、有名過ぎる言葉です。
*小林秀雄「作家志願者への助言」(1933年)/第5次『小林秀雄全集』第二卷・p.318。
しかし、或る著作家が気に入ったら、別に小林にわざわざ言われるまでもなく、全集じゃなくても、手に入る限りは読もうとするのが、本好き、というよりも何かを好きになる人は本に限らずそうするものです。
それはともかく、できればその際に、その著作家が生きていたのと同じ時代に生きていたかのように、その著作家が、その著作を刊行した順に読んでみたいと思います。「成長」という概念は、あるいはまやかしかも知れないが、その作品を、あたかもテキストだけが宇宙空間に揺曳しているかのように、単独で味わうのではなくて、A、B、C、Dという作品がどのような連関と、あるいはその著作家は何を考え、何を発見していったのかを読み取りたいと思います。
そうであるなら、全集の編集で、最近の或る一流派になっているやも知れぬが、ジャンル別編集ではなくて、とにかく、ジャンルを問わず、書いた順に並べていくというのは大変有難いものです*。
*わたしの知る限りでは『坂口安吾全集』、『安部公房全集』、あるいは『小林秀雄全集』など。
小説家はただ小説だけを書いている訳ではありません。並行して、エッセイを書いたり、対談をしたり、旅行にも行っていたりするでしょう。そこに詳細な著者年譜と同時代の社会・文化状況が分かる年表の類があるとさらによいですね。
作品や著書が空中に浮かんでいる訳でもなく、作者もそれらを何もない虚空から念力でひねり出している訳ではないのです。
その時代、同時代の同時間帯で、その作家を、その作品を取り巻いて、一体何が起きていたのか、「資料の同時代的体感性」という方法がここに浮かび上がってきます。
新聞の文化面とか雑誌には、たいてい「論壇時評」と並んで「文芸時評」というのがあります。これを任せられるというのは、これはなかなかステータス向上を意味するものです。それで、これは全く冗談だが、「文芸古評」なんかがあると面白いと思ったことがあります。例えば、30年前、と言えば1991年の7月の文芸状況を報告するのです。
わたしは、あまり意味もなく、二束三文で売られている(そうじゃないのもあるが)古雑誌を古書店で買ってくるのが密かな趣味です。
パラパラ見ていると、結構未知の著作家がいたり、この作品とこの作品はほぼ同時に連載されていたのか、とか、その種の比較的些細な発見があります。
何のアタリも持たずにやっても仕方がないが、いずれやろうとは思っています。
まだ、わかりづらいとは思うが、実際に例を挙げてみましょう。
恐らく、現在で白川静(しらかわ しずか、1910年~2006年)を知らぬ者を探す方が至難だと思われるが、不世出の漢字学・文字学者です。その業績は字書三部作『字統』(各・平凡社、1984年)、『字訓』(1987年)、『字通』(1996年)はもとより、岩波新書『漢字――生い立ちとその背景』(1970年)、中公新書『漢字百話』(1978年)から、小学生向けの漢字の解説本や絵本などを通して、賛否、好悪はあるだろうが、日本人の漢字に対する考え方、見方を根本から変えた、と言ってよいでしょう。
最も有名なものが「口」という漢字の起源です。「口」は元来、目鼻口のそれではなく、「祝禱を収める器」を意味する「」(さい)であったといいます。
例を示してみましょう。
従来、古代漢字学の権威は最古の部首別漢字字典、後漢の許慎の手になる『説文解字』(100年)を以てその第一としました。漢字を540の部首に分けて体系付け、その成り立ちを解説し、字の本義を記すもので、Wikipediaの該当ペイジを参照するとこう書かれています。
現在から見ると俗説や五行説等に基づく牽強付会で解説している部分もあるが、新たな研究成果でその誤謬は修正されつつも、現在でもその価値は減じていない。(説文解字/Wikipedia)
ということらしいが、どうでしょうか。
そこで、「名」という漢字と「告」という漢字について『説文解字』と白川静さんの解釈例を見てみましょう。
「名」
・『説文解字』……夕暮れは暗く、姿が見えないので、口で名を告げることから。
・白川静……子供が生まれた後、祖先に名前の使用許可を求める儀礼を行う際、祭祀用の肉(夕)とともに祝詞を収めた(サイ)を用いることから。
「告」
・『説文解字』……文字の上部は牛の角であり、牛が人に告げるときはその角で人に触れることから。
・白川静……文字の上部は木の枝であり、祝詞を収めた(サイ)につけて神に告げ、祈ることから。
無論、事の真偽はわれわれ素人の判断するところではないが、白川さんの呪術的な世界観の一貫性と比べて、従来の説は牽強付会というよりも単なるこじつけ、謎々の類としか思えないのも事実です。
大変興味深いので例を挙げてみたが、実のところ、白川さんの漢字学が本項のテーマではありません。
三浦さんは、後に『人生という作品』という評論集に収められことになる白川さんを論じた「白川静問題――グラマトロジーの射程」を論壇誌『アステイオン』2007年秋号に発表したが、いささか言葉足らずと思ったのか、単行本刊行に合わせて、その続編「起源の忘却――グラマトロジーの射程・ノート2」を書き下ろして、これに収録した。あわせて、先の論考も「白川静問題――グラマとロジーの射程・ノート1」と改題されています。
それにしても、いささかならず唐突です。なぜ人もあろうに漢字学者白川静さんを論ずることにしたのでしょうか。同年、2007年の6月には、三浦さんが編集長を務めていた雑誌『大航海』No.63では「白川静」の特集を組んでいます。したがって、この時以前の段階で何らかの遭遇があったのかも知れません。
【資料 『大航海』No.63 「白川静」特集部分のみの目次】
特集 白川静と知の考古学
京都の一夜 水原紫苑
特別論文・白川静論ノオト
線状の思考と東アジア文字学 石川九楊
白川先生から学んだ二三のことがら 内田
樹
白川教授、初期論文三篇をめぐって 小南一郎
文字解釈と古代的観念の探求 高木智見
起源への意志 白川静の力動 工藤
隆
白川静と折口学 民俗学における内と外 辰巳正明
白川詩経学の方法 谷口義介
大航海インタビュー
白川静が政治の現在を叱る 御厨 貴×三浦雅士
白川静は本当に偉いのか 小谷野
敦
『孔子伝』の神託 浅野裕一
白川・松本論争 論戦よりみた白川説の特質 小寺
敦
原日本語の探求 古語辞典としての『字訓』 工藤
進
白川静氏と中国の神話研究について 森
雅子
恐らく、三浦さんの元々の関心の在りかは副題にあるように、「グラマトロジー」、すなわち「文字学」ということだが、当然のことながら、「グラマトロジー」という言葉で想起するのはジャック・デリダの『ド・ラ・グラマトロジー』De la grammatologie(『文字学について』1967年/『根源の彼方に――グラマトロジーについて』足立和弘訳・1976年・現代思潮社)に他なりません。
白川静さんの漢字学が単に漢字文化圏のみの問題を示している訳ではなくて、それが広く文字学として、デリダが論じた射程と重なる、あるいはそれをも凌駕するものとして論じたものです。
しかし、本稿ではその問題そのものは一旦問いません。
ここで問題にしたいことは、三浦さんの白川さんの置かれている状況についての、三浦さんの異様な肉薄力なのです。
白川静さんが置かれている状況とは一体どういうことでしょうか。
1970年、岩波新書から『漢字』を刊行したのは、白川さん60歳の時です。一般向けに書かれたのはこれが最初だったので、遅いデビューではあるが、これ以降、字書三部作を始めとして、旺盛な著作をなし、広く一般に知られるところとなり、それだけに留まらず、莫大な人気をも獲得したのは、例えばその著作集が正篇全12巻、別巻全23巻、合計35巻が刊行されていることでも分かります*。
* 『白川静著作集』全12巻・1999年~2000年・平凡社。『白川静著作集 別巻』全23巻・2002年~2019年・平凡社。「別巻」とあるが、通常の全集などの、資料や雑纂などを収めたおまけ的な意味での別巻ではなくて、正篇につぐ「続篇」の意味です。
ところがそれとは反比例するかのように、学界からは袋叩きとまでいかぬものの、基本的は完全無視、という状況に長く置かれることになります。恐らくそれは今でもあまり変わりはないのではないでしょうか。
三浦さんはこの完全無視の状況を、何かのきっかけで、怪訝に思ったのかもしれません。時代を1970年当時に戻って、子細に周囲の状況を考察してみましょう。
まず、当時東京大学助教授であった藤堂明保さんの批判を取り上げる。藤堂さんは、1971年からはNHKテレビの『中国語講座』講師を担当するなど、マスコミでも活躍し、1972年より早稲田大学政治経済学部客員教授に、その後1976年から日中学院長に就任しています。日中学院は、1951年、著名な中国語学者・東京大学教授倉石武四郎さんによって設立された中国語の専修学校で日中友好会館の事業として付設されたものです。ということからも分かるように、当時助教授ではあったが、その名声は白川さんが全くの無名であったことを考えると、言葉は悪いが、全くの雲泥の差でした。
その藤堂さんが白川さんの『漢字』を書評の形で批判したのです(『文学』1970年7月号・岩波書店)。三浦さんの言を借りれば「専門家が初学者を優しくたしなめるといった風情のもの」ということになるが、結局は「白川静の民俗学的、宗教学的方法が常軌を逸していること、ほとんど偏向とさえ言えるものである」(三浦雅士「白川静問題」/三浦『人生という作品』p.29)ということになります。
藤堂さんはこう言っています。
白川さんは「象形字の理解は、みたところ容易なようでも、その内包する意味を把握するには、周到な古代学的方法が用意されなくてはならない」(21ページ)とのべておられる。そこにいう古代学的方法とは、古代の社会、原始宗教など、民俗学的・宗教学的な知識をもりこんだ方法ということであろう。そのこと自体はけっして誤りではない。けれども、
一つ一つ神さまや家廟や、さては呪術にかこつけねば気がすまぬという、強引なやり方が全書にわたって現われる。それは主観的であり、個別ばらばらであって、そこには語学で用いるような方法論がない。(藤堂明保/三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』p.29)
そして次のように結論づけます。
要するに白川さんのこの書は、「漢字のなりたち」を説いた書としては、どうもふさわしくない。そうではなくて、古代に発した宗教儀礼が後世にどう変貌し、古代人の心がどのように後世の事象に反映したか、という中国の文化史の一つとして読めば、たいへんおもしろい。じつをいうと、その点では私もたいへん教えられた。この本を読んでおもしろいと感じるのは、まさにその点である。だから責任は、「漢字のなりたち」という企画を白川さんにおしつけた書店編集者にあるといってよい。「ことば」の問題といえばまず語学畑の者にきくべきであろう。(藤堂/三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.p.29-30)
これは痛烈です。三浦さんは「専門家の傲慢がいささか鼻につく文章である」(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』p.30)と難じているが、それよりも何よりも、藤堂さんは白川さんのことを民俗学者か宗教学者だと勘違いして、全く漢字学者だとは思っていないのです。要するに或る専門分野を持つものが、全く別の専門分野の領域の問題について安易に口出しすべきではないというようなところでしょうか。
それは一つの見識ではあります。ただ、事前に調べるべきではありました。新書『漢字』も雑誌『文学』も同じ岩波書店発行なのだから、編集部に問い合わせれば、白川さんの閲歴や業績はもとよりその専門分野など立ちどころに分かるはずです。それをしなかった藤堂さんはやはり手抜かりがあったと言われても反論できぬところです。
それはともかく、白川さんの専門は無論漢字学以外の何物でもないので、当然この批判に対しては、漢字の研究の方法論そのものを問うという根本的な問題から反論されることになります。
そこで、同じ雑誌『文学』1970年9月号において「文字学の方法」なる反論を寄せて、徹底的に藤堂さんの主張を「論破」しています。ここで、自身の経歴、業績、方法論について縷々述べていくわけだが、それの詳細は一旦措きます。
この「論争」については世間的にはよく知られていたのかも知れないし、「文字学の方法」が収録されている『文字逍遥』や同じく『著作集』などを参観すれば、藤堂さんの書評まで遡ることは可能ではあります。
その意味で言えば、1979年に刊行された『初期万葉論』(中央公論社)は、白川の本来の専門である古代漢字学から逸脱するものです。要は『詩経』と『万葉集』には、その呪術的な世界という意味で通底するというのだが、これはいささか牽強付会とされても文句は言えないでしょう。
そこに三浦さんは宮﨑市定の「中国古代史概論」から、西アジアから中国、そして中国から日本に鉄器時代・青銅器時代は順を追って圧縮して伝播している様を示す図を引用して、宮﨑と白川の近縁性を述べています。そこから、白川が宮﨑を始めとして、内藤湖南、貝塚茂樹、吉川幸次郎といった京都支那学派*に属する人々の著作、それも全集を丹念に読んでいただろうことを、白川自身の随想から推測しています。
*現在、「支那」、「シナ」という名称は戦時中日本人の中国に対する蔑称であるとされています。したがって一般的な文書作成ソフトでは「しな」と打っても「支那」とは出てきません。しかしながら、念のために註記しておくと、この場合は京都大学の東洋史学者らが『支那學』なる学術誌を発刊していたことに拠るので固有名詞に近いものです。
しかしながら、白川は内藤を例外として、これらの人々に直接言及することもなければ、またその逆も同様であったといいます。これらの人々が白川の仕事に直接触れることは絶えてなかったのです。
それは近年においても変わりません。その例として、新進気鋭の中国文学者・加藤徹を挙げています。三浦さんは2002年からサントリー文化財団が出しているサントリー学芸賞の芸術・文学部門の選考委員となっているが、その年に加藤は『京劇』にて同賞を受賞しています。加藤の業績については、この「白川静問題」はもとより、『言語の政治学』でも言及されています。
その加藤の、まさに漢字を通じて中国人、中国文化を論じて卓抜な『貝と羊の中国人』(2006年・新潮新書)こそ、白川の研究領域と重なるのだが、その参考文献には白川の『字通』はないが、藤堂明保共編『学研 新漢和辞典』はある、無論、本文中に白川についての言及は一言もありません。加藤は1987年東京大学文学部中国文学科卒業、1993年同大学院博士課程単位取得満期退学。その後北京大学、広島大学を経て、現在は明治大学の教授です。
三浦さんはこう言います。
(前略)『貝と羊の中国人』 のその「貝」が殷を、「羊」が周を象徴し、中国の現在を殷周にさかのぼって考えようとしている以上は、賛否はともかく、
世上有名な白川静に批判的にであれ一言もしないというのは不自然である。学界には、白川静に触れてはならないという禁則あるのではないかと疑われても仕方がないだろう。
少なくとも藤堂明保と白川静の論戦にかんするかぎり、分があるのは圧倒的に白川静の側である。その説は網羅的かつ体系的である。漢字は起源において躍動し、浮かび上がる世界は濃密である。にもかかわらず学界においては白川静を黙殺し藤堂明保を称揚すべしという掟が東京大学にはあるということになる。(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.38)
これは比較的分かりやすい構図です。猫だと思ったら虎だった尾を図らずも踏んでしまった藤堂さんに嚙みついた白川さんを、あるいは白川さんに関する様々な件をなかったことにする、黙殺するという風が東京大学近辺に出ていたとしても、分からぬではありません。加藤さんとしても何か意図があるというよりも、無意識にそうなってしまったのでしょうか。そういう意味でも極めて人間的な構図で、お互いご苦労様とでも言っておくしかありません。
ところが白川さんに対する評価は西高東低で、白川さん自身が出身であるところの京都大学近辺は大丈夫なのか、というと実はそうでもないのです。先ほどの引用から続けます。
そして、 それを黙認する風潮が、ほかならぬ京都支那学の発祥地・京都大学にもあるということになる。/その元凶を吉川幸次郎に求めることはたやすい。
(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.38)
つまり、何故に白川さんの学問的周辺が白川さんに関して無反応なのかを探って、内藤湖南以降の、日本の中国史学の総帥たる吉川幸次郎の全集を三浦さんは繙いてみたのでしょう。
三千年前、文献の生まれた瞬間の意味よりも、後世のものではあっても、やはり何千年かの人人がもり伝えて来た解釈の方に、私の興味はある。(中略)文献の伝不伝には、歴史の選択が働いており、流伝の少い書物に、価値のあるものは少いという論理を、私はこの全集のあちこちの巻の論文で、使っているが、それは必ずしも懶惰への弁解ではない。早く接触した先輩の一人、小島祐馬氏から、人の知らない資料をふりまわすのは、学問でない。誰でもが読む書物を読んで、新しい見解を出すのこそ、学問だと、告げられたのが、事がらへのさいしょの啓示であった。 (吉川幸次郎「自跋」/三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.39。傍線再引用者)
文中の「小島祐馬」(1881年~1966年)は、京都帝国大学教授で東洋史学者・東洋思想史研究者(中国社会思想史)であるが、先に註記した研究誌『支那学』に関わっています。1920年9月、京大支那学の研究誌として『支那学』が創刊されたさい、本田成之・青木正児と共に発起人に名を連ね、その後長く同誌の編集に関わったという人物です。
言うなれば京大支那学派にとって、この小島の言う「人の知らない資料をふりまわすのは、学問でない。誰でもが読む書物を読んで、新しい見解を出すのこそ、学問だ」というのは、あえて、ここで(全集の自跋で)確認しなくても、暗黙の了解だったのではないだろうか。それをあえてこう書いたのは、この後白川さんがその全貌を表すことになるが、この小島のポリシーとは全く相容れない、正反対の方向の研究が、燎原の火の如く白煙を上げていたからに他なりません。
しかしながら、漢字研究も含めて歴史研究の基本は東西問わずこれが基準となっていたに相違ありません。
つまり、ここにある対立はもはや学問の方法というよりも、もっと根深いものがあったのではないでしょうか。
では、吉川は白川さんのことを全く知らなかったのか。そんなことはありません。なにしろ白川さんに博士号取得を勧めた張本人だったのですから。白川さんの「略歴」*によれば、1961年に「橋本循、吉川幸次郎博士に勧められて、 [興の研究]を京都大学に博士論文として提出、文学博士の学位を受く」とある(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.40)。
*正確には「白川静 略年譜」だと思われる。Webサイト『立命館大学 中國文學専攻 白川静の世界』にアップロードされています。
橋本 循(1890年~1988年)は、中国文学者で、白川さんの師匠に当たります。この当時立命館大学の大学院科長。白川さんの『私の履歴書』を見ると、「(『詩経』研究の)通論篇・解釈篇を出したとき、京都大学の吉川幸次郎博士から、旧制による学位請求をしてはどうかという申し入れが、橋本先生を通じて伝えられ」(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.40)た、とあります。ということはあくまでも吉川が推したということになります。
吉川は一体どういうつもりだったのか。白川さんが何を対象として、いかなる研究方法を取っているか、またそれは先に論じた自らの研究方針に違背することも十分分かっていたのです。
ここが或る意味肝に当たるところだが、三浦さんが例を挙げるのが、筑摩書房版『世界文学大系』第七巻『中国古典詩集』(1961年)の本体ではなくて「月報」に寄せた白川静さんの短文「揚之水三篇」です。無論、本好きの人なら分かるが解説、月報の類まで目を配らせるのが通ですし、この月報の類まで目を光らせるところに三浦さんの技の冴えが窺えます。
[コラム]~「月報」って何?~
コラム ☕tea for one |
恐らく、時代状況を考えると「月報」とは一体何? という方々もいらっしゃると思うので念のために註記しておきます。この場合の月報とは月ごとの報告ではなくて、全集などに別刷りで付けられるエッセイや編集上のこぼれ話などが記載された印刷物で、通常はA5判2枚を冊子上に折って8ページ建てに付録として付けたもののことです。もとは改造社や春陽堂が始めた文学全集、いわゆる「円本」(1冊1円だったので)に付けられたのが始まりで、現在に至るまでこの出版慣習は続いています。問題は意外に重要な筆者の文章や事実が記載されているにも関わらず、検索などで探しづらいことや、図書館や古書店では紛失されたままになってしまうということです。これを本体に同時収録するのは、やはり日本人の固定観念からすると、難しいのでしょうか。 📓 |
しかし、この場合、両者の全集から単行本未収録のチェックをして辿り着けるものではないでしょうか。
この『体系』第七巻は二分冊になっていて、上下巻とも吉川が解説を書いています。事実上、吉川の責任編集と言うべきものです。上巻には師匠・橋本が「詩経国風」を訳している関係か、月報執筆の依頼が来たものでしょうか。上巻月報執筆者は、貝塚茂樹、白川静、松本雅明、小川環樹と言った錚々たるメンバーです。
[コラム]~「揚之水三篇」先行研究~
コラム ☕tea for one |
~「揚之水三篇」先行研究~ 白川さんの「揚之水三篇」は突如として書かれた訳ではありません。1958年に、先に触れた月報にも寄稿している松本雅明の大部になる論著『詩經諸篇の成立に關する研究』が東洋文庫 (東洋文庫論叢)から刊行されています。この東洋文庫は平凡社の出している古典シリーズのそれとは違います。松本は東京帝国大学出身で、後、熊本大学の教授となります。1961年には先の論著に収められた論文にて東京大学から博士号を取得しています。 問題はこの著書に対して、同年、吉川幸次郎が研究誌『東洋史研究』(第17巻第3号・1958年12月1日・京都大学)にて書評を寄せていることです。一応通り一遍褒めた上で、欠点を幾つか述べるという形になっているが、1000ページにもなんなんとするこの大著の中でも「揚之水」の解釈について紹介したうえで吉川が褒めているという点です。すなわち、従来「政治に關連した諷刺詩」とされていたものを「男女の誘引の詩」であるとしたことです。 さらには松本の『詩経』の成立年代の確定について、白川静さんが『立命館文學』(1958年9月)にて批判していることもご丁寧に紹介しています。無論、白川の主論はそこにはなく、したがって、偶々機会を得て、一言述べることになったのでしょう。 📓 |
問題は白川さんの書いた「揚之水三篇」の内容です。『詩経』に「揚之水」で始まる3篇の詩があります。その意味について書かれたものです。参考のために一例を挙げてみます。
揚之水
揚之水 白石鑿鑿
素衣朱襮 從子于沃
既見君子 云何不樂
跳ね上がる水
跳ね上がる川の水を浴び、白い石がキラキラと。
白い着物に赤い袖、曲沃の城の殿様に従おう。
あのようなお方と出会えれば、どんなに幸いなことだろう。
確かに普通に読めば、「政治に關連した諷刺詩」などとんでもなく、「男女の誘引の詩」としか読めません。ところが、白川さんはこう言っているのです。
詩経では采薪が祭事・祝頌・恋愛の詩に多く発想として用いられているが、それは采草とともに、古い民俗に発するものであった。興とよばれている発想の本質は、概ねこのような民俗を背景とするものである。/このような采薪の俗を背景として、揚之水三篇の表現を考えてみると、その発想の意味がよく知られるのではないかと思う。采薪の俗は古くわが国にも中国にも存し、わが国では柘枝伝や桃太郎系の説話を生んだが、中国では空桑や竹生の説話となったらしい。しかし柴を山川に投じて予祝する風は彼我ともにあったものとみてよく、揚之水三篇は、その水占の俗を伝えたものとみることができる。彼我の古代歌謡をこのような立場から比較しながら考えてゆくと、そこに興味ある収穫が期待されそうである。(白川静「揚之水三篇」/三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.42。傍線再引用者)
つまり、「川に木片を浮かべて恋の成就を占う俗信、古代中国、古代日本に広く見られる俗信などを合わせて考えれば疑問は氷解するという趣旨であ」*り、引用文中にある「興」には「『万葉集』の序詞や枕詞に対応する古代的な発想が潜んでいると考えた」*のです。これが博士号請求論文「興の研究」の骨子です。コラム「「揚之水三篇」先行研究」で触れたような、白川からすれば、「政治的諷刺」はもとより、「男女の誘引」だけに留まるものではなく、もっと広い文化的背景があったのです。
* 三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.42。
三浦さんはこう続けます。
片言隻語で怒りもすれば喜びもするのが人間である。不用意に侮蔑の言葉を吐いて命を落とすことさえある。言葉の力は恐ろしいが、とすれば、山川草木、鳥獣虫魚にしても同じことではないか、と古代人は考えた。山川草木、鳥獣虫魚への礼にかなった挨拶こそが詩歌の根源なのだ。枕詞や序詞の淵源だが
、興もまた同じ背景を持つというのである。文字の起源は占トに、詩歌の起源は呪術にある。漢字の起源は詩歌の起源と時をへだてはしても重なり合うのである。(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.43)
したがって、とすれば、逆に瞠目すべきなのは吉川の度量の広さでしょう。学問上の方法論が違っても、また更に「揚之水三篇」においては、仮に手を嚙まれていたかも知れぬのを全く歯牙にもかけず、月報に掲載し、その翌年には博士号を同じ主題の論文で与えてしまう。流石大御所は違うと思わせもするが、わたし個人の考えを差し挟めば、結局のところ、吉川は白川さんの学問的方法がいかなる世界と繋がっていたのかを見てないし、見えていない気がする。要するに分かってはいなかったのではないでしょうか。
その吉川と白川さんの違いを、三浦さんは端的に要約してみせる。
吉川幸次郎、貝塚茂樹、白川静、みな孔子を描いていて、三者三様である。吉川幸次郎と貝塚茂樹の違いは文学者と歴史家の違いだが、吉川幸次郎と白川静の違いはより大きい。
一言でいえば、孔子は吉川幸次郎にとって「儒」の始めだが、白川静にとって「呪」の終わりなのである。白川静『漢字』末尾に「文字が神の世界から遠ざかり、思想の手段となったとき、古代文字の世界は終わったといえよう」とあるが、孔子はなお古代文字の世界に属している、『詩経』の詩を暗誦し口ずさむ世代に属している、というのが白川静の『孔子』の骨子なのだ。吉川幸次郎にとってはそうではない。孔子は古代文字の世界に終止符を打ち、仁すなわちヒューマニズムをはじめた人間なのである。(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.44)
以上のように考えてくれば、単に「黙殺」というよりも「敬遠」という事態に近いと言うべきなのか
とは思います。
その意味では三浦さんも述べているように「吉川幸次郎の立場はそれなりに潔いとしなければならない」(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.44)。
だが、白川と同じ方向性を持っていたはずの貝塚茂樹もほとんど白川への言及はないのです。貝塚茂樹(1904年~1987年)は、白川が『漢字』にて世に出た1970年には既に京都大学を定年退官して名誉教授となっていたが、日本の東洋学、中国史学の大御所として学界に君臨していました。従前の文献学的な中国古代史の研究に対して、甲骨文字や金文に代表される出土資料に着目した研究方法を日本で初めて提唱したという点が白川と同じ方向性を持つとした所以ではあるがどうでしょうか。主著は『孔子』(1951年・岩波新書)、『諸子百家』
(1961年・岩波新書)、『史記――中国古代の人びと』(1963年・中公新書)、『論語――現代に生きる中国の知恵』(1964年・講談社現代新書)、『中国の歴史』(上中下・1964・69・70年・岩波新書)という具合で一般の読者層に知られることが大きかったのです。
その貝塚です。
貝塚と白川は全く無縁ではなく、むしろその反対によく識る仲だと言ってよいのです。『貝塚茂樹著作集第四巻』『中国古代史学の発展』(原著1946年・著作集1977年)の「あとがき」に白川についての言及が一行見られます。あるいは1957年刊行の、貝塚編『古代殷帝国』に白川も寄稿しています。
白川の「略歴」によれば1954年「九月、平凡社[書道全集]第1巻の殷・周・秦の解説・釈文を担当。これより先、内藤戊申氏の提案で、京都大学人文科学研究所の貝塚茂樹氏を班長とする甲骨・金文の解読班に参加」(白川「略歴」/三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』p.46より援引)とあります。三浦さんの考えでは「すなわち、白川静は一九五四年以前に貝塚茂樹の知遇を得ていたのであり、両者の関係は少なくとも一九五七年の『古代殷帝国』刊行時まではかなり緊密だったのである。」(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.46)となります。
ところが、それとは正反対に、学問上は「緊密な関係」を思わせるようなことは全くなかったのです。一体何が起きたのでしょうか。三浦さんは以下のように推測を進めます。
だが、貝塚茂樹も白川静も、その後、ということは一九七〇年以降、互いに互いを論じることはなかった。貝塚茂樹著作集月報にも白川静は寄稿していない。版元の中央公論社とは白川静も入魂の間柄である。『漢字』『詩経』がベストセラーになって白川静はすでに有名であった。出版社が忌避するわけがない。かりに貝塚茂樹の仕事に多少の批判があったにしても、白川静が先輩の依頼を断るとは思えない。とすれば、貝塚茂樹が忌避したと考えるほかない。
(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.46)
ではなぜ貝塚は白川を忌避したのでしょうか。
三浦さんは貝塚の著作集のやはり「月報」に注意する。中国古代思想研究者・赤塚忠が貝塚著作集第九巻月報に一文を寄稿しています。題して「貝塚先生の門を叩く」です。赤塚 忠(1913年~1983年)は、この当時東京大学教授、のち名誉教授。主著は全7巻にまとめられている専門家向けの著作集よりも、何よりも『新字源』(小川環樹*・西田太一郎共編・1973年・角川書店)と『漢文の基礎』(1973年・遠藤哲夫共著・旺文社)を挙げるべきでしょう。この二著のお世話になった高校生、浪人生は日本中に数多存在するはずです。小西甚一の『古文研究法』もそうだが、学習参考書や一般向けの啓蒙書をどれくらい熱心に書けるかで、その学者の、或る一定の実力が分かると言うものです。
* ちなみに、ご存じの方も多いと思いますが、念のために触れておきます。この小川環樹は貝塚茂樹の実弟で、湯川秀樹とも兄弟です。昔なので養子縁組の関係で名字が違う訳ですね。一応、書き出してみるとこうなります。ちなみに小川家はこの他にも亡くなった五男の方と娘さんが二人いますが、ちょっと悲しいですね( ノД`)シクシク…。
父:小川琢治(地質学者・京大名誉教授)
長男:小川芳樹(冶金学者・東大教授)
次男、貝塚茂樹(東洋史学者・京大名誉教授・文化勲章受章)
三男:湯川秀樹(理論物理学者・京大・大阪大学名誉教授・ノーベル物理学賞受賞)
四男:小川環樹(中国文学者・京大名誉教授)
閑話休題。さて、赤塚が言うには1951年以前に、日本中国学会の大会で『詩経』の「興」について発表し、それを貝塚が認めてくれたというのです。
(前略)要するに、「興」は、もと祭礼から始まって情趣化の道をたどった表現であって、その意味は一定の象徴化の軌跡を描いている。こういう「興」の起源を論証したのが卑見であった。(赤塚忠「貝塚先生の門を叩く」/三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』p.48より援引)
ところが、
貝塚先生に激励された『詩経』の研究はその後の調査問題に忙殺されて、まだ纏め終えていない。もっとも、この方面では、畏友白川静さんが、細部は異なるが、私とほぼ相似た観点を基本にして、まことに逞ましい精力で、『詩経』解明の論著を続々と出しておられる。
「もっとも」にはじまる最後の一行は思わせぶりなほどだが、その思わせぶりのさらに後に、「研究所の真前のお邸に、昼食に招待していただいたとき、令夫人の『主人は、あれはわたしの着想だとすましていますが、それを用いた論者は知らぬ顔をしていることがありますよ』という憤懣の御口吻を、先生が笑って聴いておられたのを覚えている」という一行が登場する。
明言されていないだけで、白川静は貝塚茂樹の着想を盗んだのだと受け取られてもいいという書き方である。(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』p.p.48-49。傍線部再引用者)
これは酷い、と言わざるを得ないが、このような文書が固有名を挙げていなくても印刷され、公表されてしまうということは、そういう認識、すなわち白川静は剽窃者であるとの認識が広く共有されていたのもかもしれません。
ただ貝塚のような高潔な人格者は、あえてそのことに触れず、黙殺したのでしょう。
結論である。
むろんここで、貝塚茂樹と白川静が不自然なほど互いに言及しあうことがないという事実の背後にスキャンダルが潜むなどと言いたいのではない。切磋琢磨するもののあいだに似たような着想が生まれることは少なくない
人文科学においてはむしろ着想は盗まれるべきもの、さらに発展されるべきものなのである。貝塚茂樹にしても、着想を盗まれたといった次元で白川静に言及しなかったのではないだろう。
だが、そういった憶測が登場して不自然ではないほどに、貝塚茂樹、白川静相互の黙殺が一般の目に奇異に映っていたことは確かなのだ。
貝塚茂樹が黙して語らなかったのには、いずれにせよ理由があったと考えるほかない。京都支那学の学風から推して、それは学問上の理由であったに違いないと思いたい。
興についての着想まではいい。折口説が援用されるのも当然だし、フレイザーやハリソンが参照されるのも当然だろう。だが、口がであり、 《引用者註。「阜」の下の十を取った文字》が脤肉であり、道が異族の首を掲げて進むさまであるとする学説にいたっては黙するほかなかった。説得力がないからではない。むしろ、説得力がありすぎるからである。白川静は、あたかも自身が古代人であるかのように、漢字の起源を語って縦横無尽かつ断定的である。漢字の組織体系が一挙に形成されたように、白川静の学説もまた一挙に形成された。それこそ学説の真理性を高めたものだが、同時に異様な飛躍をも感じさせたのである。
白川静の学説の芯を形成するのはこの飛躍すなわち詩的直観とでもいうべきものである。それは、ト片をトレースし、さらにそのトレースを自身が筆耕して油印すなわち謄写版印刷に付するという身体的修練によって獲得されたものである。貝塚茂樹はその詩的直観に学者として違和感を覚えたのである。吉川幸次郎が覚えたのもまた同じような違和感であっただろう。そう推測することができる。(三浦「白川静問題」/三浦『人生という作品』 p.p.49-50)
以上、長々と述べてきたが、かくのごとく三浦さんは、その白川がその名が高くなるほどに、斯界においてはほぼ黙殺されていくことを丹念に跡付けています。読むや、あたかも推理小説を読むかの如く、謎は繙かれていくのです。その姿は学問的探求者であるよりも、白川自身が漢字の起源の場に際会していたかのような、むしろ呪者のそれであるといいます。
例えば白川漢字学を象徴するものとして本書にも度々言及されているが、「口」という漢字の起源は目鼻口のそれではなく、「祝禱を収める器」を意味する「」(さい)であったといいます。ことほどさように、ありとあらゆる漢字の起源が呪に持つものとされるのです。
しかしながら、では「呪」とは何か、そして漢字のこの呪的起源の忘却は如何にして生じたのかは白川自身の仕事としては未解決のままであるといいます。
三浦さんはこれを呪の終わりとしての孔子、及び象形文字と形声文字の断裂に見ようとします。しかし前半の「白川静問題」ほど、後半「起源の忘却」は成功しているようには見えません。
いずれにしても端倪すべからざるのは白川静の学的業績ではあるが、白川漢字学の射程は単に漢字の問題を超えて、文字そのものの問題、そしてその文字を使うに至った人間自身の根元の問題をこそ問いかけているのです。
以上の前提の上で、わたしたちは、ここに三浦さんの資料を同時代的布置において眺めるという、例えば全集の月報の細部にまで目を光らせるといった、言うなれば、資料の具体性、資料への身体的修練」をも兼ね備えた接近法にこそ、文芸批評の、古くて新しい方法論の萌芽を見て取るべきではないでしょうか。
[拡大コラム①]~もしかして「苦手」ですか?~
拡大コラム① ☕tea for one |
~もしかして「苦手」ですか?~ |
と、このように特定の人物に焦点を絞って、全著作を読んだり、履歴について調べたりすると奇妙なことに気づくことがあります。それは極めて些細なことであるが故に、あるいは忘れてしまってもいいことかも知れないし、あるいはそこにこそ、その当該人物の何らかの文学上の、思想上の秘密が隠されているのではないか、とも思ったたりします。
適切な例かどうか分からないが、以前、作家の加賀乙彦の作品のほとんどを読む中で、きっと加賀さんは北杜夫と辻邦生が苦手(この「苦手」というのは無論、含みがある)なのではないか、とりわけ一族の来歴が似ているように捉えられやすい北の方にとりわけ強く感じていたのではないか、と思ったことがあります。
根拠はない。全くない。
ご本人(たち)に尋けば、そんなことはない、と言下に否定するだろうというのも、容易に予想がつきます。ま、それが大人の対応というものです。
で、話は戻るが、三浦さんにとっても今言ったようないわゆる「苦手」なのではないか、と思われる何人かの人物が存在します。あくまでも推測、いや、推測というよりも、単なる、そんな気がするぐらいの直観、いや、重いな、単なる「感」です。
例えば、哲学者(と言っていいのか分からないが)・梅原猛。文芸評論家の加藤典洋。この二人はもう鬼籍に入られています。さらには哲学者(を自称されているが、思想家というべき)柄谷行人さん。柄谷さんについては恐らく、1990年に勃発した湾岸戦争に対して、翌1991年1月、柄谷さんたちが発起人となり「湾岸戦争に反対する文学者声明」への参加を呼びかけ、43人の文学者(編集者も含む)が署名をしました。周知のようにこれについて吉本隆明は署名を拒否、のちに『私の「戦争論」』(1999年・ぶんか社)において痛烈に批判しました。ちなみに先に述べた加藤典洋も署名拒否の上、後に大波乱を呼んだ『敗戦後論』(1997年・講談社)で批判をしました*。
*この「声明」に関わる様々な対応と考え方については別稿「「オフサイドの感覚」――加藤典洋全戦後論解題」を立てて論ずる予定です。
「年譜」によれば、その時の三浦さんの行動は不明です。空白になっています。
しかし、その後、97年から98年にかけての一連の『近代日本の批評』の共同討議には参加しています。
が、その後、2000年に至り、例のNAM「騒動」が起きます。運動当初こそ猫も杓子も、という感じではあったが、そもそも事の発端から三浦さんはNAMにはノータッチだったのではないでしょうか。実際問題この当時の三浦さんは自らが編集主幹を務める出版社・新書館の切り盛りをどうするのかという問題と、舞踊の価値をいかに世間に伝えていくのか、という問題があったに違いありません。ま、それどころではない、というところだったのかもしれません。もう一つ考えられるのはマルクス、マルクス主義への否定的な立場があろうかと思います。
どう見ても、共同討議『近代日本の批評』以降、柄谷さんとは、というよりも柄谷さんたちとは没交渉になっていった気がするのですが。
これは第2章でも引用した箇所だが、柄谷はこの共同討議の中で次のように述べています。
柄谷 (前略)ぼくは、七〇年代後半以後グループをつくったのは三浦雅士だという感じがする(笑)。
三浦 ぼくはつくらないよ。だいたい入れてくれないよ。
柄谷 つくるというより、 つなげてしまったわけだね。
三浦 つなげるのは異質な人をですよ。仲間同士、仲良くなんてのはない。
柄谷 ただ、八〇年代において顕著になる編集者的なもの、 エディターシップの優位を先駆的に示したのが三浦さんだね。
(柄谷行人編『近代日本の批評』昭和篇〔下〕・p.169)
これを引いて、わたしは、そこではこう書いた。「若干揶揄の気味がないでもないが、三浦雅士の仕事の一端はあるいはここに尽きているかと思う。」「若干揶揄の気味」と書いたが、いや、柄谷さんは三浦さんを揶揄しているのです。からかっているのです。それに対して、三浦さんは色をなしているのです。今読み返せば、そう読むしかない。
さらに言えば、柄谷さんこそ「グループ」を作ったのです。1988年に『季刊思潮』を「創刊」し、まさに「湾岸戦争に反対する文学者声明」の出された1991年に後継誌『批評空間』を創刊し、2002年に休刊するまで、その圧倒的な影響力は他を圧していました。無論、柄谷さんはグループ云々についても影響力についても否定すると思いま
す。多分、柄谷さんにとってはそんなことはどうでもいいことなのです。柄谷さんには全く悪気はないのです。ただ、そのような、或る種の「傍若無人」ぶりにいささか辟易とする人々もいるのであろうことは容易に想像はつきますが。
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[拡大コラム②]~見田宗介=真木悠介という空白~
拡大コラム② ☕tea for one |
~見田宗介=真木悠介という空白~ |
意外に柄谷パートが長くなってしまったので本題に入れませんでした。本題はここからです(まじか?)。
三浦さんが密かに「苦手」としているのではないかと思われるもう一人の大御所が社会学者、見田宗介=真木悠介その人である。根拠は全くない。これもまあ、単なる勘である。見田宗介が本名で、真木悠介が筆名です。
見田=真木さんは1965年に『現代日本の精神構造』(弘文堂)にて論壇にデビューしました。この間、今に至るまで数々の名著と言っても過言ではない論著をなしてきました。三浦さんは1970年から『ユリイカ』の実質的な編集長となり、75年には『現代思想』の編集長となります。これ以降、三浦さんは『大航海』という思想誌、というか人文誌? をもっていました。が、いずれの形でも接点が全くと言っていいほどないのです。これは単なる偶然なのでしょうか。例外は一つだけあります。1995年から97年にかけて刊行されていた『岩波講座 現代社会学』への寄稿です。三浦さんはその講座の第二巻「自我・主体・アイデンティティ」(1995年・岩波書店)に「近代的自我の神話」なる論文を書き下ろしているがその巻の序文を見田宗介さんが書いている。そもそもこの講座の編集委員たちは言うなれば、その過半を「見田学派」とでも言うべきメンバーで占められているのです。井上俊(大阪大学)、上野千鶴子(東京大学)、大澤真幸(千葉大学・見田門下)、見田宗介(東京大学)、吉見俊哉(東京大学・見田門下)の5人です。
とすれば、やはり、当方の勘違いでしょうか。
しかし、気になります。
そもそもこの『岩波講座 現代社会学』という学術色が強い*と思われるこのシリーズに、なぜ文芸評論家の三浦さんに執筆の依頼が舞い込んだのでしょうか。先に挙げた「近代的自我の神話」は後に三浦さんの単著『批評という鬱』(2001年・岩波書店)に収録されました。
*実はそうでもないかもしれません。簡単には言えないが、数ある「岩波講座」の中でも比較的先進的な、学際的な編集方針を取っていて、必ずしも専門の社会学者だけが執筆しているわけではありません。これは社会学という、言うなれば社会に関することなら、とりあえず何でもOK、という学問上の性質と同時に、先に挙げた見田さんを始めとする編集委員たちの学問上の態度の広さ、深さに拠るのでしょう。
その巻頭に「「青春の研究」序説」なる論考が収められています。無論、これは後に大著として完成する『青春の終焉』(2001年・講談社)の「序説」に当たるものだが、一般に「序説」と付けられた書物の本論が書かれたためしがない、とは巷間つとに言われることだが、これはまさに前例を破る試みで慶賀という他はありません*。
*ちなみに三浦さんにはもう一つ「序説」がある。三浦さん自身も理事をしているサントリー文化財団が刊行しているオピニオン誌(?)『アステイオン』(2017年~2020年・CCCメディアハウス)に全7回連載終了後、なぜか単行本化されていない「世界史の変容・序説」がそれです。とりあえず現段階ではこの「序説」の単行本化を待つことになります。
と言いながら、さらにこれを打ち破るものが、かの吉本隆明の『心的現象論』です。『心的現象論序説』が北洋社から刊行されたのが1971年のこと。その後37年の時を経て『心的現象論・本論』が文化科学高等研究院出版局から刊行されたのが2008年のことです。この間37年です。吉本は84歳になっていました。内容については賛否あるだろうが、この執念は畏るべきですね。
話を戻します。先に挙げた「「青春の研究」序説」は季刊同人誌『へるめす』1992年3月号(岩波書店)に掲載されました。同人誌と言ってもアマチュアのそれではなく、プロの書き手たちが編集に参加する体のものだから、「編集同人」とは言っても「編集委員」とでも言うべきでしょう。それまで三浦さんは岩波書店のものには寄稿していません。それがなぜ?
この時の編集同人は磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男の6人です。これで分かった。この6人のうち誰でもよいが、三浦さんに書いてもらいたいと誰かが言えば、誰も難色を示すことはなかったであろうからです。
恐らく、この『へるめす』所収の「「青春の研究」序説」に目に止めて、この講座に推薦したが、恐らく上野千鶴子さんではなかったでしょうか。根拠は薄弱だが、上野さんと三浦さんは堤清二=辻井喬を蝶番としてつながっているとも言えます。上野さんは辻井と『ポスト消費社会のゆくえ』 (2018年・文春新書)なる対談(というよりも上野による堤=辻井へのインタヴュー)を出しているし、三浦さんは、辻井の最初の小説『彷徨の季節の中で』(原著1969年)の新潮文庫版(1989年)の解説を書いています*。
*この解説も人間が「視線」だけになることの意味について(だけ)論じられているとも言ってよい秀逸な解説です。まさに「生きているまなざし」とでも言いたい主旨です。
が、そもそもは1991年、セゾン・グループの社史『セゾンの発想――マーケットへの訴求』(リブロポート)を外部委託で発刊した時の執筆メンバーが上野さんと三浦さんだったのである。上野さんは「イメージ戦略」、三浦さんは「文化・芸術戦略」を担当しました。ちなみにこの社史は全6巻からなります。
ただ、この段階までで言えることは、見田=真木さんの側に三浦さんを避ける理由はなく、偶々初遭遇がこの時期になったということなのでしょう。当然です。ここまでで声を掛ける側にいたのは編集者であり続けた三浦さんの側なのだからです。
と、すれば、声を掛けなかった、あるいは声を掛けそびれた三浦さんの側にいかなる理由、心理的「障壁」が存在したのでしょうか。
例のごとく、以下はわたし個人の完全な推測、あるいは妄想に近いです。まず、その点をお断りしておきます。
三浦さんの重要なキーワードの一つに「視線」があります。例えば「死の視線」がそれにあたります。あるいは『言語の政治学』で展開されていることの一つが「見ることの政治学」です。「見ること」は必然的に支配/被支配の関係を生む、といった具合に。
「視線」、――ありふれた言葉です。ですが、もっと日常的な言葉に言い換えてみましょう。
「まなざし」です。――この「まなざし」、という言葉を聞いて、1970年代から80年代にかけて日本の「読書空間」、「読書共通知」を共有していた方なら容易に「まなざしの地獄」なる言葉、実際には書名を想起する方々は少なからずいるのではないでしょうか。無論、これは日本を代表する社会学者・見田宗介の、ある一方の代表作とも目される論文です。この論文は、1968年10月から11月にかけて発生した連続殺人事件(4人殺害)を起こした永山則夫(逮捕当時19歳。後、1997年に死刑となりました)に取材する、個人の履歴、思想、心情に竿を差して描かれた社会学の論文としては相当な奇手に属するものです*。ただし、この論文の中で永山則夫はN・Nとしてしか登場しません。
*同じ(と、わたしには思える)方法論で書かれたのが『宮沢賢治――存在の祭りの中へ』(1984年・岩波書店)である。
見田さんはこれを文学的なエッセイ、評論の形ではなく、社会学の論文として書いているのです。副題はもともと「都市社会学への試論」とされていたが、後に「尽きなく生きることの社会学」と改められました。そもそも「尽きなく生きる」という問題と「社会学」はあたかも水と油のような関係です。異和感しか残りません。つまり、それだけ見田さんの意識と方法論が先鋭だったということです。
本論文は1973年、当時の代表的な論壇誌『展望』に掲載された後、1973年に『現代社会の社会意識』(弘文堂)に収録されたあと、その後、35年の時を経て、2008年に至って、単著『まなざしの地獄』(河出書房新社)として刊行されました。
永山は青森県板柳町出身で、この当時は珍しくもないが、中学を卒業すると、集団就職で東京に出てきます。1965年の3月のことです。1965年は、前年1964年に第18回オリンピック競技大会、すなわち東京オリンピックが開催されており、戦後の復興象徴の一つ目の頂点とされました。二つ目は無論、1970年の大阪で開催され日本万国博覧会、大阪万博です。
永山が連続殺人を起こすに至ったその起因を一言だけで言えば社会に内在する関係の網の目こそが「まなざしの地獄」として彼を追い詰めていったとするものですが、ここではこの問題を詳細に論ずることはしません。
問題はどこにあるのか?
「1965年」、である。1965年3月、後に連続射殺魔として知られることになる15歳の少年が一人ひっそりと「上京」したとき、三浦さんはほんの2月前、1月に「受験を理由に上京」していました。同じ1965年3月に見田さんは東京大学博士課程を満期退学、翌同年4月には東京大学専任講師に就任、同時に最初の著書『現代日本の精神構造』(弘文堂)を刊行します。28歳の俊英です。
これは単なる年号の符合でしかありません。単なる偶然です。偶然は、しかしながら、必然の裏返しに他なりません。
三浦さんの出生地は「年譜」などによれば、弘前市です。別の箇所で言及したが、仮に弘前市で生まれたとしても、その後、すぐ近くの大鰐町に転居し、その後、恐らく母親の再婚に伴い八戸に転居、弘前高校進学に際し、弘前に戻る、という動きではなかったかと推測されます。
さて、弘前を中心として三浦さんが幼少期を過ごしただろう大鰐と、永山の出生地・板柳はほんの目と鼻の先なのです。弘前から大鰐温泉までJR奥羽本線で11分。弘前から板柳までJR五能線で27分の距離だ。そもそもこの段階では大鰐のことは無視してもいいでしょう。ほんの30分ほどの距離の同県人が罪を犯した。さらにそのことについての「論考」のような何物かが出回っている。「まなざしの地獄」が掲載された73年4月(5月号だが、実際は4月)に三浦さんは何をして、何を考えていたのでしょうか? そのとき三浦さんは『ユリイカ』の青年編集長で、それどころではなかったかもしれません。あるいはそもそも手にとってはないのかも知れません。
仮に手に取ったとすれば、何か釈然としないものを感じたかも知れない、と考えるのは深読みに過ぎるでしょうか。
【図 青森県 弘前市・大鰐町・板柳町 (Google MAP)】
それにしても、偶々機会に恵まれず、ともに仕事をすることや、遭遇することが叶わなかった人々はもっと多くいるかも知れません。なぜ、ことさら、見田=真木さんのことを問題にするのでしょうか。
主題が近接しているからです。それについての詳細は本書の何箇所かで触れることになるが、例えば、見田=真木さんは『宮沢賢治』を論じました。その記述は「私といふ現象」から始まっています。
見田=真木さんは『時間の比較社会学』で近代人のニヒリズムを問うました。つまり、われわれ自身から「生きる意味」を奪い去っていくものの起因を論じたのです。
見田=真木さんは『自我の起原』で、生物学上の知見を動員して、それに社会学者的視点で、「自我」、すなわち「私という現象」の「起源」を論じました。
われわれの窺い知れぬところで何かあったのか、それとも何もなかったのか。
結局は分からないのですが……。
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三浦雅士――人間の遠い彼方へ
第Ⅰ部 批評家としての三浦雅士
α篇 三浦雅士――批評的散文詩の発明
了
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