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2022年6月19日日曜日

ついに「力と交換様式」(「Dの研究」)脱稿か?   柄谷行人「社会科学から社会化学ばけがくへ」

 

ついに「力と交換様式」(「Dの研究」)脱稿か?

 

柄谷行人「社会科学から社会化学(ばけがく)へ」



 

■柄谷行人「社会科学から社会化学(ばけがく)へ」/『群像』2022年7月号・講談社。

■エッセイ(哲学・社会思想)。

2022年6月12日・丸善丸の内店にて・1500円にて購入。

2022年6月12日読了。

■採点 ★★★☆☆。

 

 今月(20226月)刊行の『群像』に掲載された、思想家・柄谷行人の標記のエッセイによると、長らく執筆、推敲が続けられていた「力と交換様式」、いわゆる「Dの研究」が、この5月、ついに脱稿して編集に渡されたらしい。

 「Dの研究」が、既に休刊となっている『at プラス』(太田出版)に連載が始まったのが2015年のことで、6回連載された後、翌2016年から長い休眠期間に入って、6年にもなる。




 あるいは、このような著作での休止期間としての6年はさほど長くはないのかもしれない。しかし、2018年に鞍替え出版された『内省と遡行』*[1]の「あとがき」に「力と交換様式」という表題が明示され、尚且つ、その力とは「霊的なもの」との断定がされているように、早い段階で交換様式Dに関する主題は、柄谷の中で、明確になっていたと考えられる。

 にも拘わらず、何故に、刊行が遅れたのかは、考察に値する問題ではあるが、今は、そもそも、本当に、このまま刊行の運びになるのかも、実は半分ぐらい、わたしは疑っていて、『トランスクリティーク』、『世界史の構造』に次ぐ、理論水準の高い長篇論文としては、相当な準備と考察と点検を自己に課していることであろうから、本当に刊行されるのか、未だ不明である。あくまでも一応「書き終え」た、ということに過ぎない訳だ。

 そのような訳で、今はとにかく、無事に『力と交換様式』が刊行されることを心から祈っている次第である。

 ところで、何故に執筆が遅れたのかという点については、今回のエッセイで、実は触れられている。それによれば2019年頃から柄谷はスランプ、不調、つまり、書けなくなったという。その原因はその年にイェール大学に集中講義に行ったことによるという。言うまでもなく、イェール大学には、柄谷のかつての盟友とも言うべきポール・ド・マンがいたことで知られる。柄谷はその若き日にイェール大学でド・マンを知り、彼のために「マルクスその可能性の中心」を書き直したぐらいである。

 その後、不調になった柄谷だが、2021年の夏ぐらいに、「精神としての資本」という観点から、その精神とは霊に他ならないと気付いて、――言うなれば、柄谷自身はそうは言っていないが、ルイ・アルチュセールの言葉を流用するならいわば「認識論的切断」とも言うべき思考の刷新が行われたのだと思われる。

 さて、ここで、問題にしたいのは、この「霊」という視点である。

 詳細については、やがて刊行される『力と交換様式』を見るしかないのであろうが、柄谷はこう述べている。

 

 それまで私は、「精神としての資本」という観点から、資本を見ていた。つまり、マルクスのいう「物神」(フェティシュ)を、ただの比喩ではないとしながらも、比喩として見る視点から抜けきれないでいた。しかし、このとき、それを「物神」というより、むしろ「霊」として見るようになったのである。(柄谷「社会科学から社会化学へ」/『群像』2022年7月号・p.116。以下「柄谷2022年」と略記)

 

ということは、つまり、「霊」というのは単なる「比喩」で言っているのではなく、紛うことなく、「霊」が存在する。その「霊」の存在が人間を動かしている、と述べているのだ。

 今回の表題にしても、要はド・マンとジャック・デリダ(『マルクスの亡霊たち』(1993年))の霊に突き動かされて、「『力と交換様式』を根本的に書き直すことができた」(柄谷2022年・p.117)を指して「社会化学(ばけがく)」と呼んでいる、という訳なのだが、このように、いつも渋面な柄谷も実は冗談が好きなのだ、ということが、無論、言いたい訳ではなく、柄谷が実は人の交誼を大切にしていて、取り分け死者への恩義を忘れたことがない、とかそういうことが言いたい訳では、無論、全くない。

 問題は柄谷が「霊」を恐らく「実体」視、つまりは、霊を実在する、少なくとも、霊的な「力」は実在するとしている、と読める点である。

 かと言って、それ自体は別段驚くべきことではない。

 いわゆる近代的な知性を代表する何人かの哲学者や、思想家が霊の実在性の「真顔」で語っている。例えばイマニュエル・カントの「視霊者の夢」*[2]。あるいは、本朝の本居宣長、あるいは柳田國男、更に小林秀雄など*[3]、探せばいくらでも探せるだろう。それは単なる時代精神の問題であろうか。であれば、今回のような柄谷の先祖返りをどう捉えたらいいのか。

恐らくほとんどの後世の評家たちは、それらをあたかもなかったかのように見過ごす、あるいは見て見ぬ振りをするのだ。これは真剣に考えるに値する問題だ。

 いずれにしても、この「霊」の実在の問題は生半(なまなか)なことでは解決できぬようだ。その霊的な力が、例えば、交換様式Dにおいては、柄谷の言に従えば、「〝神〟としてあらわれる」(柄谷2022年・p.117)とすれば、現代人の誰人も、この「神」の問題を解決していないのと同様に、霊の問題も解決していないのだ、ということになる。

 『力と交換様式』の刊行を刮目して俟つことをここに断言しておきたい。

 

 《追記①》

以下のように柄谷のインタヴューの公開配信が行われます。「力と交換様式」についても何か話があるかも知れません。



【配信あり 要登録】73日(日)14時〜16時 「柄谷行人さんに聞く〜疫病、戦争、世界共和国」 聞き手 國分功一郎 コメンテーター:斉藤幸平 ※対面は学内関係者のみ 東京大学駒場キャンパス 

https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2022/07/post_245/ #s_info

《追記②》本稿には関連稿が2本あります。ご参考までに。

(1)「いよいよ「Dの研究」完成間近か? ――柄谷行人『内省と遡行』文芸文庫版刊行」

https://torinojimusho.blogspot.com/2018/04/d.html

(2)「「Dの研究」いよいよ推敲すいこう段階へ ――柄谷行人「社会運動組織の可能性――「NAM」を検証し再考する」」

https://torinojimusho.blogspot.com/2021/04/d.html

 

2891字(8枚)

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202206192256



*[1] 柄谷行人の『内省と遡行』は講談社学術文庫から刊行されていたものの、何故か、同じ講談社内の文芸文庫から2018年に刊行されたことを指す。

*[2] カント『視霊者の夢』金森誠也訳・2013年・講談社学術文庫。この「霊」の問題は巻末に付せられた、三浦雅士の解説「批評家の夢」を参照。

*[3] 柳田國男、小林秀雄の「霊」の問題についても、三浦雅士の、未だ刊行されざる「孤独の発明」(『群像』2010年1月号~2011年6月号・講談社)に詳細が論じられている。

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