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2021年4月17日土曜日

人間の労働 そのⅩ   「イゴコチ」のいい場所を

 Ⅹ  

 

 
 

 
 

人間の労働 そのⅩ 

 
 

「人間の類的本質は労働である」 ――カール・マルクス『経済学・哲学草稿』 (1844年/的場昭弘『超訳『資本論』』2008年・祥伝社新書・p.55より援引)  

 
 

 
 

「イゴコチ」のいい場所を 

 
 
 

柄谷行人大切にされない場にはいないで――学校、行かなきゃいけないの? 雨宮処凛〈著〉」/『朝日新聞』2021年4月10日・朝刊・「読書」面 

トミヤマユキコ「友達とローン組んで風通しよく――女ふたり、暮らしています。 キム・ハナ、ファン・ソヌ〈著/『朝日新聞』同上 

吉川一樹「著者に会いたい――心安らぐ「縁側」増やそう――「『イドコロをつくる――乱世で正気を失わないための暮らし方』――ナリワイ実践者 伊藤洋志さん(41)」/『朝日新聞』同上 

須藤靖「無職、ときどきハイボール――酒村ゆっけ、〈著〉」 /『朝日新聞』同上 

 

 
 

📝ここがPOINTS 

① 今、わたしたちが当たり前だと考えている社会の制度は作られたものだ 

② 学校も家族も働き方・暮らし方も自分なりの「イゴコチ」のいい場所を探してよい 

③ あなたを大切にしてくれない場所にはいてはいけない 

  

 

1 学校って行かなきゃダメなのか? 

 

 柄谷行人は『朝日新聞』の書評欄*で、実は幼稚園のときに「登園拒否」で、小学校に上がっても「二年間口をきかなかった」と書いている**。世の中、意外とそういうことがあるものだ。よほど「イゴゴチ」が悪かったに違いない。 

 

*柄谷行人「大切にされない場にはいないで――学校、行かなきゃいけないの? 雨宮処凛〈著〉」/『朝日新聞』2021年4月10日・朝刊・「読書」面。以下、この読書面からの引用は評者名を付けて「評者名『朝日』2021」と略記する。 

 

**大澤真幸のインタヴューでも同様のことを述べている。「僕は小学校二年生の終りまで、教室で、ものを言わなかったのです。」(柄谷行人・見田宗介・大澤真幸『戦後思想の到達点』2020年・NHK出版・p.27)。 

  

 この書評では、作家・活動家の雨宮処凛かりんの『学校、行かなきゃいけないの? ――これからの不登校ガイド』*が取り上げられている。 

 

 


 

  

* 雨宮処凛『学校、行かなきゃいけないの?――これからの不登校ガイド』2021年・河出書房新社。 

 

 副題にあるように「不登校」そのものを「勧め」ているわけだが、それはもちろん日本において不登校が、あまりにも大変な数で増えている現実に対する一つの提言だろう。不登校者は「少子化にもかかわらず、小中学生だけで全国に一八万人いるとされている」*らしい。当然、これには理由がある。恐らく一九八〇年代から「不登校」は広く社会問題になったが、「大学への進学が一般化し」*、そのため「日本人の生き方が学校制度を通じて平準化された」*からだろう。 

 「平準化」とは、一定の基準、レベルのようなものが「常識」となったことだろうが、「そこから外れること」*は当然のことながら「非難され、いじめられる」*。したがって一般には、それは、「本人に根性がない」とか「規則正しい生活習慣ができていない」、あるいは「家庭のしつけがなってない」というような「レッテル」が貼られる。つまり、本来行くべき学校に行かない、行かせないのは、すなわち、これ「悪」である、とされるわけだ。 

 柄谷もそうだったように、筆者の雨宮も「学校に行くことが極めて苦痛」*だったようだ。こんなこと(?)を自慢しても仕方ない(?)が、わたしも、長期的な不登校まではいかなかったが、学校をサボることについては、人後に落ちない、とまではいかぬが、それなりの「実績」を持っている。 

 

*柄谷『朝日』2021。 

 

 恐らく、何らかの「制度的なもの」に異和感を持つ人々はそもそも幼少のころからそういう感覚を持っているものだ。そのため、たいてい「社会」や周りの人々に「迷惑」をかけて「嫌がられる」ことになる。 

 

 閑話休題それはさておき 

 

 さて、そう考えてくると、そもそもの視点を変えるべきだ、ということにならないか。近代・現代に入って「制度化」されたものは、別に学校だけとは限らない。前近代的な身体を、ということは精神をも「平準化」したものは、複数の論者が述べているように「学校」・「工場」・「軍隊」ということになる*。要は近代的な戦争が遂行できる兵力、すなわち上部の「規律」に絶対的に従う身体と精神が、これらの諸機関によって作り上げられたわけである。この問題は、これとして大変重要ではあるが、一旦、ここでは措く。 

 

*例えば、三浦雅士『身体の零度――何が近代を成立させたか』1994年・講談社選書メチエを参照。 

 

 しかしながら、本シリーズ「人間の労働」のテーマは言うまでもなく労働の問題、会社の問題、仕事の仕方の問題などではあるが、そこには当然、それらを支える、学校教育の問題や、家族や、暮らし方の問題がそこには伏在しているのだ。 

  

2 普通の「家族」じゃなきゃダメなのか? 

 

 期せずして、読書面の同じ頁に、二人の韓国人女性の「同居」をエッセーの形で述べた『女ふたり、暮らしています。』*が紹介されている**。 

 

 


  

* キム・ハナ、ファン・ソヌ『女ふたり、暮らしています。』清水知佐子訳・2021年・CCCメディアハウス。 

 

**トミヤマユキコ「友達とローン組んで風通しよく――女ふたり、暮らしています。 キム・ハナ、ファン・ソヌ〈著〉」/『朝日新聞』同上。 

 

 キム・ハナは著述家でラジオ・パーソナリティ。ファン・ソヌは雑誌編集者。二人は「恋愛感情をベースにした同棲や結婚ではなく、友情をベースにした共同生活を選」*んで一緒に暮らしている。しかも「単なるルームシェアではなく、がっつりローンを組んでマンションを購入」*して新しい生き方をしている。「女ふたりと、猫4匹。分子の結合になぞらえて「W2C4」と呼ばれるこの新しい家族は「家制度」の煩わしさから完全に解放されている」*という。 

 

* トミヤマ『朝日』2021。 

 

 言うまでもなく、現在見られる「家族」という制度も作られたものであって*、それに縛られるのは、本末転倒と言わざるを得ない。 

 

*①上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』1994年・岩波書店/『新版』2020年・岩波現代文庫。②三浦雅士『石坂洋次郎の逆襲』2020年・講談社などを参照。 

 

 

3 ちゃんと働かないとダメなのか? 

   

   読書面に掲載されたこれらの刺激的な書評の左横には「著者に会いたい」というコラム記事がある。今回は「ナリワイ実践者」(?)とある伊藤洋志の『イドコロをつくる――乱世で正気を失わないための暮らし方』*が紹介されている**。 

 

 


 

  

* 伊藤洋志『イドコロをつくる――乱世で正気を失わないための暮らし方』2021年・東京書籍。 

 

** 吉川一樹「著者に会いたい――心安らぐ「縁側」増やそう――「『イドコロをつくる――乱世で正気を失わないための暮らし方』――ナリワイ実践者 伊藤洋志さん(41)」/『朝日新聞』同上。 

 

 「ナリワイ」とは何か? 

   「イドコロ」とは何か? 

 「乱世で正気を失わないための暮らし方」とは一体どういうことなのか?  

 疑問符が連続してつくところだ。 

 この記事の筆者である吉川一樹は次のように紹介する。 

 

  

新卒で入った会社になじめず、人間らしく暮らせる仕事(ナリワイ)を追求。野良着メーカーを営み、農家の繁忙期に収穫と販売を手伝い、モンゴルで遊牧民生活を体験するワークショップを続ける。(吉川『朝日』2021年) 

 

 

 今一つピンとこない。そこで伊藤が9年前に著した、本書の姉妹篇に当たる『ナリワイをつくる』を調べてみた。その「まえがき」にはこうある。 

 

「個人レベルではじめられて、自分の時間と健康をマネーと交換するのではなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身につく仕事を「ナリワイ」(生業)と呼ぶ」(『ナリワイをつくる』まえがき)。 

 

 

 これでも、もう一歩だ。 

 書店が付けた(と思われる)説明にはこうある。 

 

生活と遊びの中から年間30万円程度の、他者と競争しない仕事を複数つくり、生計を組み立てていく方法論。 

 

 何となく分かってきた気がする。かと言って、年間30万円で暮らせるのか。年収30万円は月収2万5千円ということだ。計算するまでもないが。ウーム。 

 

 

 そこで「イドコロ」だ。「「イドコロ」とは、簡単にいえば心安らぐ「場」だが、人間関係や時間も含む広い概念だ。」*例えば、「家族や友人、仕事」*、あるいは「マニアックな趣味、ちょっとした公共空間、くつろげる小さなお店」*などだ。つまり「複数のイドコロを持つことを勧める」*。 

 

*吉川『朝日』2021年。 

 

 恐らく、多くの人々が年収30万円で生活することを望むわけではなかろう。しかし、こういった自分なりの「イドコロ」をきちんと確保することはとても大切なことだろう。 

 ただ、伊藤が本当に言いたい「乱世で正気を失わないための暮らし方」を確保するためには、今の社会・制度から何らかの形で逸脱しうる、自分なりの、何らかの「ナリワイ」を持つことが今後のカギとなるであろう。 

 さて、このように考えてくると、伊藤が言うとこところの「ナリワイ」なり「イドコロ」というのは、「イゴコチのいい場所」*ということではないか**。 

  

*言うまでもなく、本稿のタイトルは伊藤の言い方を借用した。 

 

**伊藤の著作は以下の三部作の形になっている。 

伊藤洋志ナリワイをつくる――人生を盗まれない働き方』2012年・東京書籍/2017年・ちくま文庫。 

② 伊藤洋志 ×pha『フルサトをつくる――帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方』2014年・東京書籍/2018年・ちくま文庫。 

③伊藤洋志『イドコロをつくる――乱世で正気を失わないための暮らし方』2021年・東京書籍。 

 方法論や内容は違うが、同様の発想に立って著作を続けている筆者に西村佳哲よしあきがいる。やはり同じような三部作だ。大変興味深い。 

①西村佳哲『自分の仕事をつくる』2003年・晶文社/2009年・ちくま文庫。 

②西村佳哲『自分をいかして生きる』2009年・バジリコ/2011年・ちくま文庫。 

③西村佳哲『いま、地方で生きるということ』2011年・ミシマ社/2019年・ちくま文庫。 

 

 

4 結語――イゴコチのいい場所を 

 

 私達は、決して苦しむためにこの世に存在しているわけではない。もっと自分たちにとって、気持ちと身体が安らぐ生き方を、つまり「イゴコチの良さ」を求めてもよいはずだし、そうすべきなのだ。 

 冒頭に掲げた『学校、行かなきゃいけないの?』の著者・雨宮処凛かりんはこう述べている。「あなたを大切にしてくれない場所にはいてはいけない」*。そしてそれが「人が生きる上で、一番くらいに大切なことだと思う」*と。 

 

*柄谷『朝日』2021。 

 

 

5 余談――昼間っから吞んだくれたらダメなのか? 

 

 さて、ここからは全くの余談だが(いや、そうでもないか)、やはり同じ読書欄に紹介(筆者は東京大学教授・須藤すとう靖〈物理学者〉)*されていたYoutuber(?)の酒村ゆっけ、**の『無職、ときどきハイボール』***はそういう意味では相当イドコロ度が高い。いや、意外にナリワイ度も高いのでは、と踏んだが。 

 

 

*須藤靖「無職、ときどきハイボール――酒村ゆっけ、〈著〉」 /『朝日新聞』同上。 

 

**名前の最後に読点(、)が付いていることに注意。Amazonの著者紹介によれば「新卒半年で仕事を辞め、そのままネオ無職を全う中。」とのこと。 

 

 


 

 

 

***酒村ゆっけ、『無職、ときどきハイボール』2021年・ダイヤモンド社」。 

 

 「お金はない、友人も少ない、仕事もほとんどない、でも時間はある」。「それでも幸せに生きていけてるのは酒のおかげ」という(須藤・『朝日』2021)。つまり、本人があちこちの本来、飲み屋ではない飲食店(吉野家、サイゼリヤ、富士そば……)で、その店のものを摘みに、酒を飲みまくり、何事かを呟つぶやくだけというのをYoutubeにアップしているのだが、本書はそれの報告書(?)、……なのか? 

 というか、こんなの(失礼)載せていいのか?  とか、須藤先生は大丈夫か?(失礼)とか、失礼続きの感想も浮かんでくるが、まー、いいことにしましょう(やはり、失礼だな)。 

  どんな状況でも(失礼)、その人の考え方次第で、人は「幸せに生きていけ」ることを示しているのではなかろうか。 

 

 🖊5,009字(四百字詰め原稿用紙換算13枚) 

🐤 

初稿 20210412 2228 

修正 20210417 1658 

 

 

 

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