Ⅵ
人間の労働 そのⅥ その②
「人間の類的本質は労働である」 ――カール・マルクス『経済学・哲学草稿』 (1844年/的場昭弘『超訳『資本論』』2008年・祥伝社新書・p.55より援引)
もう買わない!
(稲垣さんの本のことではありません!)
稲垣えみ子『寂しい生活』を読む*
*本稿は「人間の労働 そのⅥ 稲垣えみ子『魂の退社――会社を辞めるということ』を読む 」の続編にあたる。
🖊ここがPOINTS! |
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① 超ウルトラ節電生活で名を馳せたアフロ記者の続編。とても面白い。 | |
② 普通のサラリーマン家庭に、真似をするのはいささか困難だ。 | |
③ だが、不必要なものをできるだけ買わない、ということはできるはずだ。 | |
■稲垣えみ子『寂しい生活』2017年6月29日・東洋経済新報社。
■1,400円(税抜き)。
■書き下ろし長篇エッセイ(生活・現代社会)。
■295ページ。
■イラスト 祖父江ヒロコ。
■ブックデザイン 橋爪朋世。
■2021年3月28日読了。
1 アフロ記者退職後その後
著者の稲垣については前稿を参照して欲しいが、ごく簡単に紹介すると、かの『朝日新聞』の論説委員・編集委員*にまで上り詰めたが、2011年の福島第一原子力発電所事故をきっかけに超ウルトラ節電生活を始め、アフロヘアの顔写真付きで節電についてのエッセイを『朝日』紙上に掲載しているうちに、ついには会社を辞するまでに至った。
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| 稲垣えみ子「ザ・コラム」最終回/『朝日新聞』2015年9月10日朝刊。 |
本書はその辞職前後の経緯とその後の顛末がユーモア溢れる文章と、祖父江ヒロコの素朴なイラストで描かれる。
*『朝日』の論説委員・編集委員というのがどれくらいの地位なのかは不明ではあるが(そもそも、論説委員と編集委員は何が違うのだ?)、結構偉いのだろうと推測される。しかしながら、朝日新聞社では、一見「変わった」人、「一匹狼的」な人? が選ばれるのはとてもいいことだ、とわたしは思う。最近だとアロハ姿で田植えや猟師を始めて、それを随時報告する文章で名を馳せた近藤康太郎も編集委員だ※。アフロにアロハという訳ではなかろうが(?)、いいことではなかろうか。
※近藤康太郎『アロハで猟師、はじめました』2020年・朝日新聞社。ちなみにこの本は思想家の柄谷行人が『朝日新聞』の書評(2020年7月25日朝刊)に取り上げ、なおかつ、「2020年の今年の3冊」(2020年12月26日朝刊)にも選んでいる。
前著『魂の退社』に勝るとも劣らぬ波乱万丈の展開と結論で、とても面白く一晩で読み終えてしまった。
先に述べたように筆者は「超ウルトラ節電生活」を達成するために、ま、当然の帰結ではあるが、ありとあらゆる家庭電化製品を放棄したという。いま残っているのは、電灯とパソコンと携帯電話とラジオぐらい。つまりテレビや電子レンジはもちろんのこと、冷蔵庫も洗濯機もないのである。いくら何でも冷蔵庫がないのはどうなのか、とも思うがなんとかなっているようだ。
2 いらない家電/不要な仕事?
つまり、大半の家庭電化製品はなくてもやっていけるということなのだ。
要は、次から次へと開発される家電製品が消費者の「欲望」を喚起し、あってもなくてもいいような製品、つまり、あれば便利だけれども、なくても何も困らない製品を次から次へと買わねばならぬ状態へとわれわれ消費者は追いやられてしまった。つまり、われわれは「作り出された欲望」の「奴隷」へとなり下がったしまった、というわけだ。これが資本制社会ということである。
そして、問題はここだ。そのあってもなくてもどちらでもいいような電化製品に象徴される現代的な生活のある一定レヴェルを確保するために、我々は好きでもないような、やってる本人も、場合によってはその上司も、あるいは会社も、意味が分からないような仕事、つまり、本来必要ではない仕事までもしなければならなくなったのだ。
恐らく、月曜日が来るのが憂鬱に感じない労働者(そして、学生や生徒・児童もまた)は、ほんのごく少数であろう。なぜ? 別にその仕事をわざわざ自分がしなくてもよいし、そもそもその仕事は本当にやって意味があるのか判断できないからだ*。
*マルクス主義経済学者ハリー・ブレイヴァマンは『労働と独占資本』(1974年/1978年・岩波書店)のなかで労働のプロセスを「構想」と「実行」の二つに分けた。労働者は後者の実行のみをし続けることになる(斎藤幸平『カール・マルクス『資本論』』2020年・NHK出版より)。また、文化人類学者デヴィッド・グレーバーはそのようなどうでもいい仕事=「ブルシット・ジョブ」(クソどうでもいい仕事)が急速に増えていることを指摘している(『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』2018年/2020年・岩波書店)。
でも、われわれは、単に「食べる」ために、「生活を維持する」ために、「将来の暮らしを豊か*にする」ために、やむを得ず勤労しなければならないのだ。
*しかし、本当の意味で「豊かな生活」って一体どんなことだろうか?
もう、やめましょう。こんなことは。そのためにも、まず生活そのものを考え直しましょう。
3 いささか極端だが……
なるほど。
確かにその通りだ。
その通りなんだろう。
しかしながら、稲垣の試みはとてもおもしろいし、その提案は大変的を射たものばかりである。
が、残念ながら、あまりにも極端である。
一人暮らしで自由業ならできるかも知れない。
要は家族持ち、仕事持ちには相当ハードルが高い。まずもってコンセンサスを得るのが極めて難しいし、物理的に一日の仕事の後、残された時間で家電製品を一切使わず家事をやりくるのは大変困難であろう。
もともと、稲垣の「超ウルトラ節電」生活は、原子力発電による電気を使いたくない、というところから、ありとあらゆる電化製品を放棄する、ということだった。
この問題は無論、原子力発電(核発電*)をどうするかという問題もさることながら、要はわれわれの仕事のあり方、家庭生活のあり方、あるいは、そもそも経済体制をどうするのか、という広く長い射程を含んでいる。
*村上春樹の提案。「僕に言わせていただければ、あれは本来は「原子力発電所」ではなく「核発電所」です。nuclear=核、atomic power=原子力です。ですからnuclear plantは当然「核発電所」と呼ばれるべきなのです。」(村上春樹「これからは「核発電所」と呼びませんか?」/村上春樹『村上さんのところ』2015年・新潮社・p.159)
つまり、朝6時半ぐらいに起床して、始業時間の1時間ぐらい前には出社をして、昨日の残務整理と本日の業務の準備をする。それから休憩時間もままならぬ状態で、蜿蜒と仕事をし、終業時間をはるかに過ぎて22時ぐらいにやっと解放されて、帰宅するのは23時半。こんな生活を送っていて、電化製品なしではさすがに済まないのは当然のことだ。
電化製品云々もさることながら、そもそもこの労働パターン、労働システム自体がおかしいのである。これをこそ早急に、そして抜本的に総とっかえするべき時期に来ているのであろう。
しかしながら、これは相当長い話になる。また、電化製品をなくすのもすぐには難しい。
となると、どうすればよいのか?
4 要するに「買うな!」
ただ、次のことは可能であろう。
買わない、
可能な限り、新しい製品・商品を買わない、
ということだ*。
つまり、
あるもので賄う、
あるものを大切に使い続ける、
という割りと当たり前の解答だ。
*と言いながら、言うのは簡単である。つまりわれわれは高度な情報化社会に生きると同時に、超高度な消費化社会に生きているからだ。つまり、買い物が趣味とか、気晴らしにちょっと散財するというのはまだましな方で、極端に言うと、そもそも消費することが即生きることに繋がっているのだ。これは実は難問だ。
まず、そのことによって、作り続けざるを得ない資本システムに消費者という立場でストップをかけることができる。
5 「ボイコット」という対抗運動
思想家の柄谷行人は生産過程において労働者ができる運動が「ストライキ」であって、労働者が消費者の立場でできる運動を「ボイコット」としている。生産されたものが売れない、ということは、当然のことながら、資本家たちとって、重大な困難な局面になりうる。
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| 柄谷行人氏 |
まずは必要でないものは買わない、というところからわれわれ労働者=消費者の運動は始まる。
この問題について柄谷はあちこちで言及しているが、例えばこう述べている。「労働者はむしろ、消費者の立場に立つときに、普遍的な立場から行動できる」。そして「労働運動と消費者運動は、(中略)組み合わされたときに、強力なものになります。」で、あれば「消費者として、流通過程で闘えばよいのです。つまり、ストができない場合、外からボイコットすればよい。」(柄谷行人「NAM(ニュー・アソシエーショニスト運動)再考」(高瀬幸途によるインタヴュー)/『ニュー・アソシエーショニスト宣言』2021年・作品社・p.59)
とりあえず、できることからすべきだ。不必要なものは買わない。
ちなみに蛇足ではあるが、題名は電化製品が家からなくなって、一見「寂しい生活」になった、ということだが、筆者自身はそうは思ってないわけだから、「寂しい生活?」とか「超ウルトラ節電生活宣言」とかにすべきではなかったか?
📝【今後の課題】
本稿では、一旦「不必要なものは買うな」と結論付けたが、本文註でも述べたように、ことはさほど単純ではない。何事もそうではあるが、消費化社会の闇の面と同時に光の面をも考えねば、この問題を考えたことにはならない。以下はわたしの覚書である。
①見田宗介『現代社会の理論――情報化・消費化社会の現在と未来』1996年・岩波新書。
②ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』1970年/1979年・紀伊國屋書店。
③ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』1899年/1961年・岩波文庫/1998年・ちくま学芸文庫。
④村上龍『案外、買い物好き』2007年・幻冬舎。
⑤ワルター・ベンヤミン『パッサージュ論』1935~39年?/全5巻・2020年・岩波文庫。
⑥東浩紀編『思想地図β』vol.1「特集 ショッピング/パターン」2011年・コンテクチュアズ。
⑦東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える』2016年・幻冬舎新書。
⑧東浩紀『ゲンロン0――観光客の哲学』2017年・ゲンロン。
⑨堤清二『変革の透視図――脱流通産業論』1985年・トレヴィル。
⑩堤清二『消費社会批判』1996年・岩波書店。
⑪堤清二・上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』2008年・文春新書。
⑫堤清二・三浦展『無印ニッポン――20世紀消費社会の終焉』2009年・中公新書。
⑬西部邁『大衆の病理』(『大衆社会のゆくえ』改題)1987年・NHKブックス。
🖊4,400字(四百字詰め原稿用紙11枚)
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