📚読書ノウト📚 🌀柄谷行人を読む🌀
「現代日本を
代表する」
二人の思想家の
優れた入門書
柄谷行人・見田宗介・大澤真幸『戦後思想の到達点』
🖊これがPOINTS!
①柄谷行人・見田宗介=真木悠介の思想の入門書として大変優れている。
②しかし、この二人について言えば「戦後思想」の枠に入るだろうか?
③初期・柄谷行人の文芸批評の鋭い切れ味を想起させてくれた。
■柄谷行人・見田宗介・インタビュー・編 大澤真幸『戦後思想の到達点――柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る』2019年11月25日・シリーズ・戦後思想のエッセンス・NHK出版。
■1300円(税別)。
■対談(現代思想・社会学・現代社会)。
■目次
まえがき 戦後思想の二つの頂点 大澤真幸
Ⅰ 『世界史の構造』への軌跡、そして「日本論」へ
――柄谷行人 × 大澤真幸
イントロダクション 交換様式論とは何か 大澤真幸
生産様式論の限界
交換様式の四つのタイプ
交換様式から世界システムを見る
原遊動性 U の回帰
1 言葉への独特の感覚
2 漱石のどこに注目したのか?
3 「ルネサンス的」文学とは何か?
『アレクサンドリア・カルテット』の新解釈
ドストエフスキーは近代文学ではない
4 なぜ「交換」に注目するのか?
宇野弘蔵の導き
「交換を強いる力」とは何か?
剰余価値への新たな視点
空間的移動へのこだわり
5 世界最先端とのシンクロ
6 コミュニケーションの非対称モデル
7 ヒーローはソクラテス
8 交換様式 D とは何か?
来たるべき共産主義
交換様式から歴史を見る
9 回帰する貴族
10 「強迫的な力」はどこから来るのか?
移動への愛着
11 単独性と普遍性はどう結びつくのか?
12 翻訳されることを前提に書く
13 「日本」はどういう意味を持つのか?
日本国憲法の意義
日本の独自性は「亜周辺性」にあり
柳田国男の「日本列島」観
日本は「亜周辺性」の意義を再考せよ
Ⅱ 近代の矛盾と人間の未来
――見田宗介 × 大澤真幸
(省略)
終章 交響する D ――大澤真幸
(省略)
柄谷行人 年譜
見田宗介 年譜
あとがき 柄谷行人 見田宗介 大澤真幸
*目次はウェブサイト「Karatani-b」より援引(貼り付け元 <http://karatani-b.world.coocan.jp/books/books-3.html>)
■装幀 水戸部功。
■254ページ。
■2021年3月7日読了。
■採点 ★★★☆☆。
1 「現代日本を代表する」二人の思想家の
簡を得た優れた入門書
稀代の社会学者・大澤真幸による「現代日本を代表する」二人の思想家へのインタヴュー、及び大澤による要を得た解説を附す。まずもって、このカップリングが耳目を驚かせるが*、理想を言うと柄谷と見田の対論が実現するとよかったが、まさに画餅というべきか。
大澤真幸氏(社会学者) |
二人の思想の入門書としては大変よくできている、とまずは言っておこう。
*これについては「編集者」としての大澤の手腕によるところが大であろう。
2 シリーズ名はこれでよいのか?
ここからは余談である。余談が蜿蜒と続く。
『シリーズ・戦後思想のエッセンス』の第0号となるもの。うーん、二人とも「戦後思想」という枠組みに入るのだろうか?
かつて、岩波書店で「20世紀思想家文庫」(1983年)というハードカヴァーのシリーズがあって、対象となる「思想家」というのが例えば『トーマス・マン』(筆者・辻邦生)だったり、『デュシャン』(筆者・宇佐美圭司)だったり、あるいは『宮沢賢治』(筆者・見田宗介)だったり、さらにあるいは『ケインズ』(筆者・西部邁)だったりと、何をもって「思想家」とするのか判然としないシリーズではあったが、錚々たる執筆者の顔ぶれと、「20世紀」の、広く表現に関わる思想の領域をカヴァーしようという意欲は窺えた。
それにひきかえ、このシリーズの「戦後思想」とは何ぞや? 今後のラインナップを見ると、「吉本隆明」、「石原慎太郎」、「丸山真男」、「柄谷行人」となっている。これは『現代日本の思想のエッセンス』とでもすべきではなかったか*?
*これは余談の余談ではあるが、各出版社は何故にこのような思想・哲学の入門書・解説書のようなシリーズものを出したがるのであろうか? 「公共放送」としてのNHK(つまり、国営放送ではなくて、なんと言っても日本放送協会ですから)の報道なり、運営の姿勢に就ては様々問題ありとしなければならぬが、NHKブックスのラインナップ※や、あるいは世界の哲学者を解説した「シリーズ・哲学のエッセンス」(2002年・全24巻)などは評価に値する。それから講談社も最近の例でいえば「再発見 日本の哲学」(2008年・巻数不明、10巻ぐらいか?)という解説書のシリーズを刊行している。何か意味があるのか?
※例えば、『帝国』(2003年・以文社)でその盛名を馳せたアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートの一連の著作が廉価で手に取ることができる⁂。一体どんな編集方針なのであろう。
⁂①『マルチチュード』 上下 ・2005年。
②『コモンウェルス』上下・2012年。
③『叛逆』 2013年。
さらに余談の余談の余談だが、今述べた2つのシリーズの編者にいずれも熊野純彦がその名を連ねていることに気づく(前者は「編集協力」で、後者は「責任編集」となっている)。この間、熊野が成した、所謂総合的な哲学史に次のものがある。
『西洋哲学史-古代から中世へ』岩波新書、2006年
以上、ウェブサイト『wikipedia』、「熊野純彦」から引用(貼り付け元 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%B4%94%E5%BD%A6> )
このようにつらつら惟 おもんみ るに、2000年代初頭から2010年代の前半にかけて、日本の西洋哲学史は熊野のほぼ独力によって塗り替えられようとしていた、と言っても過言ではない。それが一体どのような事態だったのかも含めて、熊野純彦という哲学史家、あるいは哲学者の功績について検討する必要がある。題して『熊野純彦と日本の「哲学(史)」』。
3 初期・柄谷行人の問いかけ
さて、余談に戻るが、(その余談の)前置きが異様に長くなった。
それとともに、今回、一驚したのが、初期柄谷の、とりわけ漱石論の切れ味の鋭さであった。
恐らく、柄谷は『トランスクリティーク』(2001年・批評空間社/岩波現代文庫)、『世界史の構造』(2010年・岩波書店/岩波現代文庫)、「Dの研究(力と交換様式)」*と、今の形になって初めて世界的な思想家(あるいは哲学者?)になり得たのであろうが、そもそも、柄谷の批評に戦慄した者たちは、あるいはこの事態に首を傾げているかも知れないのである。
*「Dの研究」現6回(中断)/『atプラス』23号~28号・2015年~2016年・太田出版。「Dの研究」の「D」とは柄谷が『世界史の構造』(2010年・岩波書店)などで展開した「交換様式」の4形態の4番目の象限に当たるものである。
B 略取と再分配 国家 | A 互酬 ネーション |
C 商品交換 資本 | D X X |
(柄谷『世界史の構造』岩波現代文庫・p.15より図1と図2を接合した)
それは恐らく、1991年の「湾岸戦争に反対する文学者声明」に始まり、2000年のNAM結成、2003年のNAM解体を通過して、2005年に発表された『近代文学の終わり・柄谷行人の現在』(インスクリプト)に至り頂点に至った。
もう、あの犀利な切れ味を持つ、批評家・柄谷行人はもうこの世にはいないのだ、と。
かつて、わたしは柄谷の「マクベス論」*について次のように述べた。
*柄谷行人「マクベス論――意味に憑かれた人間」 /『文藝』1973年3月号/『意味という病』1975年・河出書房新社 /1989年・講談社文芸文庫。
柄谷行人の文章には「~ではなく、…だ」という言い方が頻出する。~の部分は通来の思考に従えば必然的にそう言わざるを得ない判断がくる。…の部分は柄谷自身の思考だ。要するに常識を批判して自らの思想を述べるという言わばパターンといってもいい言い方である。しかし、柄谷の文章を読んでいて、心に残るのはむしろ「~ではない」という方で、「…だ」の方はよく頭に入らないことが多い。というのは「…だ」ととりあえず言っているが、実のところ言い切れていない。柄谷自身も言葉を捜しながら文章を書いている。簡単には言葉にはならないことを言おうとしているからだ。これは小林秀雄とよく似ている。似ているだけかも知れぬが。
その簡単に言葉にはならないということは柄谷自身がその初期から追求している〈意味〉の問題とかかわりがある。
例えば、この「マクベス論」で柄谷が描き出すマクベス像とは一体どんなものか。
マクベスは魔女と闘うのをやめたが、同時に彼はそこから引き返せというマクダフの誘いを拒ける。彼が拒けたのは自己の存在が無意味だという考えそのものであって、彼は自分を何であれ意味づけねばならぬこと自体を拒けたのである。彼が最後に抜け出たのは、いわば「悲劇」というわな、自己と世界との間に見せかけの距離を設定した上での和解へと導くそのからくりにほかならない。彼は「悲劇」を拒絶する。だが、「悲劇」を拒絶することさえをも、われわれは「悲劇」的と呼ぶべきだろうか。あるいはそうかも知れない。しかし、そうだとしたら、われわれに「悲劇」を脱却する道がないということは確かなように思われる。(文庫版・p.66)
ここで述べられていることほぼ3点。まず逆順になるが、第一に《「悲劇」というわな》について。いわゆる悲劇性とはそれがいかに悲劇的であろうとも、結局そのこと自体を通じて〈意味〉の回復がなされる。すなわち自己と世界が〈見せかけの和解〉をするということだ。これは非常に重要なことである。つまり、ほとんどの文学作品がこの〈見せかけの和解〉に陥っているといっても過言ではないからである。いや、しかし、それが文学というもの、あるいは人間というものではないか、いかにそれが見せかけであろうとも世界と和解なくして人間であることはできないからだ。成程、そのような反論は充分に成り立つであろう。なんとなれば、第二にその〈見せかけの和解〉、つまり〈「悲劇」というわな〉をマクベスは抜け出たというのだが、そのマクベスは果たして人間の形をしていたであろうか。そのような〈意味〉の拒否、〈悲劇〉の拒否を成し遂げた生すらも我々は悲劇という形で意味づけざるを得ない、これは一体いかなる事態なのか、というのが三点目である。
つまり柄谷行人は多くの文学作品が陥っているわなを乗り越えようとする意志を『マクベス』にみている。そしてそれは充分に柄谷自身の自画像である。しかし、そのわなからの突破はどうも成功しているとは言い難いようだ。そのような答えであって答えになっていない有り様、〈不可答性〉といってもよいが、これが柄谷をして言い淀ませるのである。〈不可答性〉の所以である。この後柄谷はいかなる方法でこの〈不可答性〉を脱却していくのであろうか。非常に興味深い点である。
(「〈意味〉、〈見せかけの和解〉あるいは〈不可答性〉について ――柄谷行人「マクベス論――意味に憑かれた人間」 」初出:『鳥・web版』第9回更新・2001年11年21日/貼り付け元 <https://torinojimusho.blogspot.com/2016/06/1993-p.html> )
大澤はこの対談においてこの問題について「「吃音」の症状を呈している」と言う(本書・p.28)。つまり、「言いたいことがすっきり言えているというよりも、言いたいことが言い切れなくって苦渋している」、そのような表現になっているというのだ(本書・p.29)。まさにその通りだ。
こう述べた上で、大澤は柄谷のデビュー作「意識と自然」*を引用する。
「われわれはむしろこういうべきではないか。真実というものはつねに、まさにいうべき時より遅れてほぞをかむようなかたちでしかやってこないということを。」(本書・p.29)
そして、そこに続けて、以下のように述べる。
「本当のこと、真実は、今さら遅い、というようなかたちでしか現れない。真実と言葉の間にはどうしようもないズレがあって、そのズレにだけ本質的な意味がある、というわけです。」(本書・p.29)
そこで柄谷は、その「意識と自然」を自己解説する。
T.S.エリオットはその『ハムレット』論において、「客観的相関物」がないから失敗作だとしたが、むしろ、その逆で破綻しているからこそ今日まで残っているのだという。漱石の長篇小説も同様である。
「主人公は、最後に突然、それまでの倫理的な問題から外れて、別の次元に向かってしまう。エリオット的にいえば、それは劇的構成を壊すことになる。また、江藤淳はそれを「他者からの逃亡」と呼んで批判していたのですが、僕はそれを肯定した。というより、それに意味を見ようとした。なぜなら、漱石にとって、それがむしろ「他なるもの」に向かうことであったからです。」(本書・p.31)
言うなれば、単に「倫理的な」問題ではなく、それらの言葉、あるいは問題にならない、所謂「存在論的な」問題こそがここに現れているのだ。
わたしは恐らく30年ぐらい前に柄谷の初期の文章を読み始めて今に至るが、今の今まで、全く持って、柄谷が提起したこれらの問題を失念していた。それは、人は何故に考え始めるのか、どうして考えざるを得ないのか、と、われわれをして震撼をもって問いかける。
5827字(400字詰め原稿用紙換算15枚)
🦉
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