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2018年7月2日月曜日

村上の多面的な魅力を照射 村上春樹『雑文集』

村上の多面的な魅力を照射 

村上春樹『雑文集』 



■村上春樹『雑文集』2011年1月30日・新潮社。 
■自選エッセイ集。 
■2018年6月20日読了。 
■採点 ★★★☆☆。 


【目 次】 
1 単行本未収録の全作品を収録せよ 
2 ブライアン・ウィルソン 
3 フィッツジェラルド「信仰告白(コンフェッション・オブ・フェイス) 
4「ジャック・ロンドンの入歯」 
5 エルサレム賞授賞講演「壁と卵」 



 1 単行本未収録の全作品を収録せよ 
  
 まさにタイトル通りで、と言っても雑な文章ということではなく、様々な文章が収録されているという意味での雑文集である。ま、当然か。 
 そういう意味では村上春樹の通常の通しで連載されていたエッセイ集とは違って、ごつごつとした歯触りや起伏がある。 

 幾つか感想を。 

 そもそもこの種の単行本未収録の「雑文」を全て集めたわけでもないという点。自選集のため、現在の村上自身の視点から見たフィルターが掛かっている。これはつまらない。過去の発表されたものは全て収録すべきであり、無論、時系列で並べればよいので、妙な編集は不要である。私個人が重要だと考える何篇かの作品が抜けている*。とても残念だ**。 

*幾つか例を挙げる。「友だちと永久運動と夏の終り」(『文學界』1981年11月号)、「鹿と神様と聖セシリア」(『早稲田文学』1981年6月号)、「ニューヨーク・ステート・オブ・マインド」(『芸術新潮』1981年5月号)など。他多数。 

**その意味ではインタヴュウ集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(2010年・文藝春秋)も相当重要なインタヴュウが抜け落ちている。例えば「村上春樹――ロングインタビュー」(『大コラム』vol.2・1985年7月・新潮社)、「DAYS ロングインタビュー」(『DAYS,JAPAN』1989年3月号・講談社)などこれまた多数存在する。もう『村上春樹全集』が今から楽しみだ。 



 2 ブライアン・ウィルソン 

 音楽関係の文章が面白い。特に、本書ではジャズ関係とビーチボーイズのリーダーであるブライアン・ウィルソンについて触れた文章だ。 
 前者で言えばビル・クロウへのインタヴュウ*やらライナーノウツ**などが興味をひく。 

*「ビル・クロウとの会話」 
**「ニューヨークの秋――クロード・ウィリアムソン・トリオ~ウィズ・ビル・クロウ」 

 とりわけ後者、ブライアン・ウィルソン論「みんなが海をもてたなら」については筆者の相当強い思い入れが感じられる。 
 私個人はリアルタイムではビーチ・ボーイズを聞けていない。70年代後半から80年代始めにかけて音楽を聞き始めた、言わば「遅れてきたリスナー」なのだ。したがって周りで、ビーチ・ボーイズなど聞いているものなど誰一人としていなかった。田舎だったせいか、洋楽を聞いているのはほとんどおらず、いたとしても大体がビートルズだった。ビーチ・ボーイズの名前もビートルズがパロディを書いた「バック・イン・ザ・USSR」(1968年)の元ネタがビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」(1963年)である、というぐらいのものである。 時代遅れのお気楽な、今風の言葉でいえば「チャライ」ポップソング、という印象だったので、特に積極的に聞こうとは思っていなかった。 ところが、である。 


 彼について村上はこう論じる。 

ブライアンは精神的なトラブルを抱えた孤独な青年であり、音楽は彼にとって夢を見るための手段だった。そして夢を見ることは彼にとってのひとつのセラピーであり、また過酷な現実 
中で生き残り成長するために必要な作業だった。/結局のところ、今にして思えば、ブライアン・ウィルソンの音楽が僕の心を打ったのは、彼が「手の届かない遠い場所」にあるものごとについて真摯に懸命に歌っていたからではないだろうか。(本書・p.159) 


 なるほど、と思うが、実はわたしがブライアン・ウィルソンに強く関心を持ったのは別の側面である。村上がこの文章を書いた時点(1995年)では、ウィルソンはほぼ引退状態だった。ところが彼はその後驚異的な復活を遂げるのである。 
 この辺りの正確なことは現段階では、わたしには分からないが*、そもそも彼はアルバム『smile』を製作中に統合失調症と鬱病を併発している。結局『smile』はビーチ・ボーイズとしては完成することなく**、ウィルソンはなんと34年振りにそれを完成させたのだ(2004年)。  

*この辺りの記述はwikipediaに依っている。 

**ブライアン・ウィルソンが事実上離脱したビーチ・ボーイズの残りのメンバーで『smiely smile 』(1967年)をリリースしている。 


 ウィルソンはその後も完成した『smile』の全曲を演奏するコンサートや『Pet Sounds』(1966年)の全曲演奏コンサートを成功させている。 
 これについて村上は別のところで次のように述べている。 
 「全体像が僕なりに正確に理解できるまでに、結局四十年くらいかかっている」。それと比較されるのがザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハート・クラブ・バンド』で、それは「六〇年代の時点でしっかりと美しく完結していまってい」る。ところが「ブライアンの音楽の中には、空白と謎がなおも潜んでいるから」四十年経っても何度も聞き返す必要があるとしている(村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』2010年・文藝春秋・p.313) 


 恐らくウィルソンの中では34年という年月がタイムスリップのようにぽこっと抜けてしまっているのであろうと思われる。 
 だが多くの場合のそれはほとんど忘れ去られる。あるいは物理的な条件でなかったことにされる。それを取り戻すのは大変な困難を伴う。 ブライアン・ウィルソンはそれを成し遂げたのだ。まさに偉業というのに相応しい。 


3 フィッツジェラルド「信仰告白(コンフェッション・オブ・フェイス) 

 フィッツジェラルドに対しても村上の思い入れが強いことは言うまでもない。が、どうしてもフィッツジェラルドの作品世界が村上の言うようには腑に落ちないのだ。恐らくなにかが邪魔をしているのであろう。 
 フィッツジェラルドは長篇小説『夜はやさし』についてこう述べている。「この小説も是非とも読んでみてください。『グレート・ギャツビー』はtour de force (離れ業)ですが、confession of faith (信仰告白)なのです。」 

 これに続けて村上はこう述べる。 

 つまり『グレート・ギャツビー』はよくできた傑作だが、『夜はやさし』には自分という人間がそのまま込められているのだ、と彼は言いたかったのだろう。(中略) 告白という形式(あるいは認識)はカソリック教徒であるフィッツジェラルドがいつか到達しなくてはならないひとつの重要な地点であった。(本書・p.288) 


 恐らくこの「信仰告白」というある種の壁をを乗り越えられるかどうかという点に我々のフィッツジェラルド体験の深まりが掛かっているのであろう。 


  


4「ジャック・ロンドンの入歯」 

 残念ながらジャックロンドンの『野生の呼び声』(1903年)とか『白い牙』(1906年)といった比較的有名な作品を子供時代に読んだかもしれぬが全く記憶にない。このエッセイそのものは初出時*に目を通していて、なるほどと思ったもののすっかり忘れていた。 

*『朝日新聞』1990年5月21日夕刊。 

 ところが先年村上訳によるロンドンの短篇小説「病者クーラウ」*を読み、題材もさることながら、そのざらりとした感覚が奇妙に後に残ったことを覚えている。 

*Jack London,"Koolau the Leper",1909./村上春樹訳/『MONKEY』vol.7・2015年10月・Switch Publishing. 

 さてロンドンが朝鮮の寒村に旅をしたとき、村中の人々が集まってきて彼を出迎えたという。ロンドンはまんざらでもない気持ちで、こんなアジアの辺境の地まで自分の文名が知れ渡っていることを喜んだらしい。ところが村の人たちが望んでいたことはロンドンの入れ歯で、それが見たいだけだったのだ。仕方なく彼は30分もの間入れ歯を出したり入れたりしたというのだ。問題は、そこでロンドンは次のように思ったという。 

「人間がどれだけ死力を尽くして何かを追求したところで、その分野で人々に認められるのは稀なことなのだ」と。(本書・p.341) 

 だからといって死力を尽くすことが無駄だと言っているわけではない。まず人から評価されたり、認められたり、誉められたりすることは稀なのだから、あまりそういうことは考えても仕方がない。ただ、自らの信じるところの力を注ぐしかない、というように私は受け取った。 


  
5 エルサレム賞授賞講演「壁と卵」 

 正直、村上がエルサレム賞を受賞したとき(2009年)は、ま、ノーベル賞への布石なのかとも思っていて、いろいろ忙しいね、とかなんとか思っていた。その当時も海賊版の冊子やネットには英語原文からの和訳などが出ていたので、目は通していた。 
 今回改めて読んでみて、事態がそう簡単なものではないことに気づいた。遅まきながら。 
 そもそも2008年末から2009年初頭にかけて展開されたイスラエル軍による無差別空爆に端を発するガザ紛争直後という状況下でイスラエルに赴くということ自体がそもそも尋常ならざる恐怖を伴う。実際に行くことは言うまでもなく、受賞だけしてイスラエルには行かないという選択もあり得たであろうが、村上はそうはしなかった。仮に行かなくてもイスラエル以外の地でいかなるテロ行為を受けるか分からない。 
 少なくともこの段階で村上は小説家として腹をくくったのだと思われる。つまり殺されてもやむなしと決意を固めたのだと思う。村上は後に付された本スピーチの前書きのような文章で次のように述べている。 

ビデオで映画『真昼の決闘』を何度も繰り返し見て、それから意を決して空港に向かったことを覚えています。(本書・p.75) 


 当然だが、少なくともわたしにはこんな恐ろしいことはできない。 

 つまり、こういうことだ。このとき村上は60歳だった。『1Q84』のBOOK1・2を書き終えて後は刊行を待つばかり、という時点でのことだった*。油の乗り切った小説家の60歳という年齢は頑張れば、後3作ほどの長篇小説を書き上げられるだろうという年齢である。 

*『1Q84』BOOK1・2は2009年5月に刊行されている。 

 それが不可能になっても、今ここで、この投げ掛けられたボールを持ってその国を訪れることの倫理性が、今後の作品世界を底支えする、逆に言えば、いまこのボールを受け取らず、手元に落としてしまえば、今後の作品はその言葉の根拠を失う、と漠然とではあろうが考えたのではないか。 

 このスピーチの内容そのものは決して難しくはない。タイトルにも取られた「壁と卵」の比喩もありきたりだといって切り捨てることもできる。そもそもイスラエルを批判するつもりなら踏み込みが甘いとも言いうる。 
 しかし、村上は特定の党派に拠って特定の立場を批判しようとしているわけではない。 

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。(本書・p.78) 


 要は卵は命あるもので、壁はその逆で命を持たないもの、あるいは命を奪うものなのだろう。これが村上の文学世界の根拠である、と宣言しているのだ。 

 もうひとつ重要なことは村上自身の亡父について言及していることだ。長らく村上は両親と友好的な関係ではないと言われてきた。 
 しかし『海辺のカフカ』(2002年・新潮社)では両親を思わせる老夫婦が登場したり、『1Q84』では主人公の一人・天吾が病気の父を見舞いに行ったり、そのことは『騎士団長殺し』(2017年・新潮社)でも主人公「私」が友人の父に自らのありうべき父を想定している。 
 晩年の村上の父は仏壇の前に座り、長い間祈りを捧げていたという。「何のために祈っているのかと」村上が尋ねると「戦地で死んでいった人々のためだ」と父は答えたという。つまり「見方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだ」と言ったとのことである(本書・p.79)。 




 以上、硬軟合わせて69篇もの文章が、村上の小説だけではない多面的な魅力を照射している。 


🐥 
2018年7月2日 


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