2018年5月16日 01:11
村上春樹試論 Ⅳ
『騎士団長殺し』を読む
【初稿】
■書き下ろし長篇小説。
■2018年5月15日読了。
■採点 ★★★★☆
題名の文字が心持ち傾いている。『騎士団長殺し』の「殺」という文字だけが5°ほど頭を左に傾げているのだ*。
*文字そのものも昔の総合雑誌の目次の、大きく書かれた題名のように、あるいはこれまた昔の映画の看板の題名のように、微妙に歪んだ感じの手書きで書かれているようだ。とても見る人を不安にさせる書題のデザインである。この書き文字のデザインも文字を少し傾けることも作者・村上春樹の案によるらしい※。
※高橋千裕・寺島哲也へのインタヴュー「村上春樹『騎士団長殺し』の装幀が生まれるまで」webサイト『Casa BRUTUS』2017年2月28日更新。高橋は本作の装幀者、寺島は担当編集者。
この傾いた文字はあたかも何かに対して疑問の気持ちを表しているかのようだ、頭を傾げて。
何に対して? 騎士団長に対して? あるいは騎士団長を殺すことに対して? あるいは殺したことに対して? あるいは本当に騎士団長を殺したのか、ということに対して?
いずれにしても、この疑問はこの『騎士団長殺し』という稀有な物語に対して向けられる。この物語の真意は一体にどこにあるのか、と。あるいは物語の真意などそもそも存在しないのではないか、と。
1 後期村上春樹を代表する傑作
巻を置くを能わずという言葉があるが、圧倒的なドライヴ力で我々読者を冒頭から結末までジェットコースターのように連れていく。まさに圧巻というしかない。
後期(いや、中期かもしれぬが)村上春樹を代表する傑作と言っても過言ではない。
仮に村上の作品履歴を前期・中期・後期と切り分けるのであれば、中期に当たる3作品、すなわち『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』、これらの3作品については、残念ながら個人的には評価できない。なぜなら理由は単純で、少なくともわたしにとっては、ただ単に面白くないからだ。
逆に言えば初期、そして本作『騎士団長殺し』については無類の面白さが存在すると断言できる。
また中期の作品でも、いわゆる中篇小説については面白いと思える。また、短篇小説についても、無論多少の当たり外れはあるにせよ、一貫して面白さを感じることができる。
これは一体なぜだろうか。本稿では扱わないが、一考に値する問題だと思われる。
【表1 村上春樹長篇・中篇小説の履歴】*
期
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番号
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長篇小説
|
中篇小説
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発行年
|
前期
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1
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『風の歌を聴け』
|
1979年
| |
前期
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2
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『1973年のピンボール』
|
1980年
| |
前期
|
3
|
『羊をめぐる冒険』
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1982年
| |
前期
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4
|
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
|
1985年
| |
前期
|
5
|
『ノルウェイの森』2巻**
|
1987年
| |
前期
|
6
|
『ダンス・ダンス・ダンス』2巻
|
1988年
| |
中期
|
7
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『国境の南、太陽の西』
|
1992年
| |
中期
|
8
|
『ねじまき鳥クロニクル』3巻
|
1994ー95年
| |
中期
|
9
|
『スプークトニクの恋人』
|
1999年
| |
中期
|
10
|
『海辺のカフカ』2巻
|
2002年
| |
中期
|
11
|
『アフターダーク』
|
2004年
| |
中期
|
12
|
『1Q84』3巻
|
2009ー10年
| |
後期
|
13
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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
|
2013年
| |
後期
|
14
|
『騎士団長殺し』2巻
|
2017年
|
*この年表から、随分乱暴な議論をしてみる。仮に『ノルウェイの森』が中篇だと仮定すると(理由は次の**を参照)、前中後の各期で長篇小説が3作ということになる。すると、後期はあと2本という計算になる。村上の年齢(現在69歳)を考えると、その辺りがギリギリの線ではないか。
**恐らく『ノルウェイの森』は村上の小説作法の方法論的には中篇小説なのだ。たまたま「事故」的に長くなってしまったのだろう。★出典夢を見るかみみずくのどちらか
加藤典洋*が述べているように、本作には続篇の可能性を否定できないが**、個人的な感想としてはこれはこれとして完成しているようにも感じられる。言うなればドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(1880年)が第二部「大いなる罪人の生涯」を予定していたにもかかわらず、第一部で十分完結しているのと同じ意味で。
*加藤典洋「再生へ 破綻と展開の予兆」(本作の書評)/『日本経済新聞』2017年3月18日朝刊。
**いくつか理由はあるが、本作には「プロローグ」はあるが「エピローグ」がない。これは明らかにバランスを失することであろう。
以上のようなことを前提として幾つか気になる点がある。それらについて、思い付く点を述べておきたい。
2 簡単なあらすじ(ネタバレ注意!)
以下、結末も含めて内容の詳細について触れていくので、まだ本作を未読の方々は注意されたい。ぜひお読みになってから本稿をお読みになることをお勧めする。
さて、前もって本作のあらすじを簡単にだが振り返っておこう。
職業的な肖像画家である「私」が語り手・主人公である。妻から一方的に離婚を申し渡され、数ヵ月東北から北海道にかけての失意の旅に出る。その後、友人雨田政彦の父親である高名な日本画家・雨田具彦ともひこが高齢で高級養護施設に入所したため空き家になったその邸宅に借家住まいすることになる。その屋敷の屋根裏で雨田具彦が描いたとおぼしき「騎士団長殺し」というタイトルの日本画を発見する。ほぼ同時期、屋敷裏の雑木林に小さな祠と石積みの塚があり、塚を掘ると地中から石組みの石室が現れ、中には仏具と思われる鈴が納められていた。日本画と石室・鈴を解放したことで「騎士団長」と名乗る身の丈60センチほどのイデアが顕れ、要所要所で「私」を導いていく。
あるとき免色渉めんしきわたるという謎の大富豪から彼の肖像画を依頼されたことから懇意となり、自身の娘ではないかと免色が考えている少女・秋川まりえの肖像画も依頼される。その肖像画が完成間近に突如まりえが行方不明になる。ほぼ同時期に雨田具彦が危篤となり、「私」は息子雨田政彦とともに見舞いに行く。そこに現れた騎士団長なるイデアを「自分を殺せ」と言われるままに「殺し」てしまう。行方不明のまりえを救うために、それを覗き見ていた「顔なが」なるメタファーの通路に「私」は降りていき、〈顔のない男〉が渡し守をしている川をわたる。最終的にたどり着いたところが屋敷の裏の石室だった。この間、まりえは免色の屋敷に忍び込んで4日間過ごしたのだった。
この8ヶ月の出来事のあと、なぜか、妊娠中(離婚の理由ともなった当時彼女が付き合っていた男性の子ではない)の妻・柚ゆずと復縁する。室むろという名前の娘が生まれて、今は元の職業としての肖像画家に戻って生活をしている。
3 免色渉
これは村上本人もインタヴュー*で述べていることだが、本作全体の結構がフィッツジェラルドの『偉大なるギャツビー』**の構造を借りている。
*「新作には『グレート・ギャツビー』へのオマージュも込めた」(村上春樹「人が人を信じる力――村上春樹さんインタビュー」聞き手・尾崎真理子/『讀売新聞』2017年4月2日朝刊)。このインタビューは(現段階の調査では)『朝日新聞』、『讀売新聞』、『毎日新聞』を発表媒体として行われているが、残念なことに全文掲載ではなく各社の編集になっている(すべて2017年4月2日朝刊に掲載)。従ってそれぞれでニュアンスが幾ばくか異なっていて、それはそれで興味深いとも言えるが、何らかの形で全文の公開をすべきである。
**フランシス・スコット・フィッツジェラルドによる『偉大なるギャツビー』(The Great Gatsby )は1925年に刊行され、日本では幾つかの訳書のあるなかで、野崎孝の名訳(1957年/新潮文庫・集英社文庫)が知られていたが、満を持して、『グレート・ギャツビー』のタイトルで、2006年に村上春樹によって新訳が刊行された(中央公論新社)。
以下、参考のために簡単にあらすじを記す。
語り手・ニック・キャラウェイはニューヨークの証券会社に勤めることになり、ロングアイランドのウェスト・エッグに家を借りる。その家の隣には主人公・ジェイ・ギャツビーが所有する大邸宅が有り、毎週末、着飾った男女が集まる派手なパーティーが開かれている。ニックにも招待状が届き、パーティーに出かけてギャツビーと知り合う。ギャツビーは5年前、貧しい兵士だったときに、良家の子女だったデイジーと愛し合っていた。しかし彼が戦争に行って、二人は別れた。ギャツビーは第一次世界大戦で軍功をたてたが、なかなかフランスから帰還することはできず、一方デイジーは、ギャツビーとずっと会えないことや家庭環境もあって、やがて社交界に染まるようになり、金持ちの息子のトム・ブキャナンと結婚する。しかし、今ではトムには情婦がいて、デイジーもそれを知っている。彼女はとても幸せには見えない。ギャツビーはようやく帰還してから、がむしゃらに働き、わずか数年でデイジーの家が正面に見える入り江の反対側に大邸宅を買う。彼らはその後ニューヨークに出かけ、ギャツビーとトムはデイジーをめぐって口論になる。ギャツビーは、「デイジーが愛しているのは自分であり、トムを愛したことは一度もなかった」と主張するが、デイジーの態度は煮え切らない。 その帰り道、デイジーは勘違いをして飛び出してきたトムの浮気相手を自動車でひき殺してしまう。ギャツビーは、デイジーの身代わりとなってマートルの夫ウィルスンに射殺され、不幸な死を遂げる。
つまり、語り手「私」がニック・キャラウェイで謎の大富豪・免色渉が主人公、ジェイ・ギャツビーとなるが、まりえの叔母・秋川笙子を手に入れた後の免色渉の生彩が著しく薄くなる。少なくとも第2部までの結末(最終章)には免色は登場しない。そして最終章のひとつ手前の段階で「それが免色と実際に顔を合わせた最後になった」(第2部・p.518)という記述がある。ということは、少なくとも「現実」の形としては、仮に第三部以降が書かれるにしても、彼は登場しないということになる。
つまり、語り手「私」がニック・キャラウェイで謎の大富豪・免色渉が主人公、ジェイ・ギャツビーとなるが、まりえの叔母・秋川笙子を手に入れた後の免色渉の生彩が著しく薄くなる。少なくとも第2部までの結末(最終章)には免色は登場しない。そして最終章のひとつ手前の段階で「それが免色と実際に顔を合わせた最後になった」(第2部・p.518)という記述がある。ということは、少なくとも「現実」の形としては、仮に第三部以降が書かれるにしても、彼は登場しないということになる。
本作の主要部分で、語り手「私」を食うぐらいに「主人公性」を発揮する免色の、この退場の仕方はいささか首を傾げざるを得ない。
これは一体どういうことなのか。
村上は別のところで「アメリカン・ドラマツルギー」の要素として「(a)志において高貴であり、(b)行動スタイルにおいて喜劇的であり、(c)結末において悲劇である」と述べ、その代表的作品として『白鯨』(ハーマン・メルヴィル、1851年)、『グレート・ギャツビー』(フィッツジェラルド・1925年)そして『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(J.D.サリンジャー、1951年)を挙げている*。
*村上春樹「村上春樹さんと華麗なるギャツビーを見る」/村上春樹『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』1988年・TBSブリタニカ。
その意味では「悲劇的結末」という要素が免色には見られないが故に、なにやら肩透かしを食らった気になるのか。
そもそも、この免色渉という男は一体誰なのか。
「免色」という姓が実在するかどうか不明だが、「色を免まぬがれる」、つまり「色がない」という名前の通り、54歳であるにも関わらず彼の髪は総白髪である。彼が総白髪になった理由はどこにも触れられていないが、彼自身は否定するが*、我々読者が容易に想像することは、あたかもエドガー・アラン・ポーの「樽」の主人公のように、尋常ならざる恐怖の経験が彼の髪を総白髪に変えてしまったのではないか、ということである。あるいはそれは「死の恐怖」であって、もっと言えば、実は、既に彼は「死の世界」にいるのではないか。
*「白髪のせいで、年齢がよくわからないと言われます。恐怖のために一夜で白髪になるというような話をよく耳にしますね。私もひょっとしてそうじゃないかとよく訊かれるんですが、そんなドラマチックな経験はありません。」と免色は述べている(第1部・p.156)。
さらにそのことは前作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の色彩を持たないという主人公を想起させる。前作では、単に、主人公・多崎つくるの友人たちの名前に何らかの「色」が入っているにも関わらず、彼だけ「色」がないという意味だったが、この「色を持たない」ということは一体何を意味しているのであろうか。
あるいはこうは考えられないか。
「色」を持たないということは単に「白」ということではない。白も色彩だからだ。なんとなれば、先の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では色を持たない主人公とは別に、名前に白の字を持つ「シロ」と呼ばれる女性が登場するからだ。
ということは、色を持たない、ということは文字通り「無色」であり「透明」である、ということではないのか。
さて、「無色透明」だと、いかなることが生じるのか。当然のことながら、光を通過させてしまうが故に、「影」が生じないのではないか。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では「影」を切り取られて、心(というか自我意識)を失った人々が登場するが、ということは「影」は「心」の現れ、ということになるが、端的に言って、「影」がないということは「死者」あるいはそれに類するものではないか。
もう一歩考えを進めてみよう。
免色の下の名前は「渉」であった。本人自身が自己紹介の下りで「川を渉るのわたるです」(「わたる」に傍点・第1部・p.155)と言っているように、「わたる」と言えば川を渉るであり、もう少し言葉を言い足せば、無論「三途の川を渉る」ということに他ならない。つまり、免色渉は死神ではないのか。
この名前の意味が明らかになるのは第2部の「私」による「メタファー通路」なる地下巡り(地獄巡り?)において「川」に遭遇するシーンである。彼は唐突に免色渉の「川を渉るのわたるです」という自己紹介の言葉を思い出す(第2部・p.349)。その言葉に導かれるように彼はその地界の川を渉ろうとするのだが、その船着き場のようなところにいたのが〈顔のない男〉*なのだ。
*この「顔のない男」は2004年に刊行された『アフターダーク』(講談社)に登場する。状況的には主人公・浅井マリの姉エリを昏睡状態の形で「幽閉」しているのがこの「顔のない男」だと考えられる。
この〈顔のない男〉は「私」に渡し賃を要求する。しかし現実の通貨が役に立たないことが分かると、 「私」は、その〈顔のない男〉の似顔絵を描くことを提案する。その提案は〈顔のない男〉の興味を惹くが、紙がないことを理由に却下される。他にないのかと尋ねられて、探すとポケットに秋川まりえが落としたと考えられるペンギンのフィギュア*があった。〈顔のない男〉はそれでよいと言って、それを渡し賃として「私」は川を渉る。つまり、このペンギンは現実世界に所属すると同時に異界性を強く帯びたものである。そもそも、これは石の穴にその可能性がないにも関わらず、落ちていたもので、本当に秋川まりえのものなのかは不明なのである。★なぜペンギンだとOKなのか?
*というか、ストラップ。
この川を渉ることによって、彼は結局、「現実世界」に戻ることができたわけだから、この地界の川は三途の川ではなかったことになる*。
*ここはいささか疑念が残る。やはり「私」は三途の川を渡っていたのではないかと。この点は後述するが、彼は騎士団長を殺すと同時に「死んでいた」のだ。従って52章以降は第3部も含めて「死者」の物語、冥界譚ではないのか。
さて、この〈顔のない男〉は本作・冒頭の「プロローグ」に登場していた。〈顔のない男〉は地界から「私」のもとに現れ、自分の肖像画を描くという約束を守るように迫り、渡し賃として受け取っていたペンギンのフィギュアを返すという。
しかし、「私」はその〈顔のない男〉の肖像画を描こうとするがどうしても描けない。時間切れとなり、〈顔のない男〉は再び訪れることを「予告」して、ペンギンのフィギュアとともにその場を去る。
実は免色渉も「私」に自身の肖像画を依頼して、これは「完成」して免色渉に渡される。その意味では色のない免色渉と〈顔のない男〉の符合はさほどでないのかと思えるが、「めんしき」という音は「面識」という言葉を思い起こさせる。つまり「顔を知っている」ということだ。さらに「顔色をうかがう」などの慣用表現に「顔」と「色」の共通性が漠然とだが感じられる。
つまり、免色渉は、第3部が仮に存在するとすれば、恐らくこの〈顔のない男〉として、あるいは、逆に免色渉の代理として〈顔のない男〉が登場するのではないだろうか。
つまり、それほど免色渉の退場は尻切れ蜻蛉に過ぎる。
この「プロローグ」は時間的に第2部の末尾に接続するものだと考えられるが、〈顔のない男〉はペンギンのフィギュアを指して「このペンギンがお守りとなって、まわりの大事な人々をまもってくれるはずだ」と述べ、これを受けて「私」は「私にはまもらなくてはならない何人かの人たちがいる」と思う(第1部・p.11)。無論、この「何人かの人たち」とは直接的には、復縁した妻「柚」と娘「室」のことであり、秋川まりえもそこに入るはずだ。
つまり、この家族をまもってくれるはずのペンギンを〈顔のない男〉に持ち去られたまま、「私」は「家族」を守らなければならない。
逆に言えば「私」は来るべき将来、家族をまもらねばならぬ状況に立ち至るのであろう。その際に「私」はこの、秋川まりえのものとされるペンギンのフィギュアを取り返さなければならない。
では誰から守るのか。現段階で考えられるのが「白いスバル・フォレスターの男」から、である。
3 「白いスバル・フォレスターの男」
芸術家としての画家であることを諦めて、量産型の肖像画家であった「私」は妻との離別をきっかけとして放浪の旅に出、画業を一旦中断するも、高名な画家の邸宅に住むことになり、芸術的な画業を再開する。
彼はこの期間4枚の絵を描こうとして2枚は完成する。
①免色渉の肖像画→完成→免色渉に引き渡される。
②白いスバル・フォレスターの男の肖像画→未完成→恐らく焼亡。
③雑木林の中の穴→完成→免色渉に譲渡される*。
④秋川まりえの肖像画→未完成→秋川まりえに贈られる。
*この「雑木林の中の穴」はなぜ免色に譲渡されるのであろう。本文では「命を助けていただいたことへのお礼」(第2部・p.518)となっているが、いかにも取って付けた理由だ。これは勝手な推測だが、いわゆるこれは「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」ということではないのか。つまり、免色渉こそ、この石室の住人ではなかったのか。あるいは本来の住人Xが免色に憑依いたのではないか。
仮に免色が「死神」だとすると、死神はこの穴から解放され、免色に取りついたのではないのか(彼は「穴」解放直後、一人で「穴」に入り1時間ほどその場にいる。恐らくここだ)。そして語り手「僕」をも取りつき、取り殺したのではないのか。だから「元の持ち主」というのはおかしいが、あるべき場所に「戻した」ということではないか。
ということは、この「穴」から解放されたのは「イデア」であるところの「騎士団長」であり、もう一体は「死神」として免色渉に取りついたのだ。
そして「私」は、妻との復縁を期に量産型の肖像画家に戻ってしまうのだが、問題は②の「白いスバル・フォレスターの男」である。
「私」は妻に離別を言い渡され、家を出ていくと数ヵ月の間、東北地方から北海道にかけて自動車で旅をする。いや旅というよりも放浪と言うのに近い。この辺りの痛切さはあたかも『ノルウェイの森』において直子を失った後、放浪する主人公の状況と気持ちがかぶって感じられる。一方は死別であり、もう一方は生別ではあるが、いずれも向こうから一方的に別れを告げられた訳だから、本作における主人公の置かれている状況が決して軽い訳ではない。
さて、そのような痛切な状況下で「私」はゆきずりの見知らぬ女性と性交渉を持つことになるが、その前後で「私」はその「白いスバル・フォレスターの男」を見かける。ただそれだけで他に何らかの具体的な接点はない。
それにも関わらず、免色渉の肖像画を描き終えた「私」は何故か、なんの理由も明示されぬままに彼はその「白いスバル・フォレスターの男」を、まさに唐突に描き始める。
恐らくこの男は「私」自身が持っている、あるいは誰しもが持ちうる「悪」の側面を具現化したものと考えられる。
先程述べたように、「私」は何の理由もなくゆきずりの女性と一夜を共にするが、それは彼自身が今だかつて経験したことない激しい性交で(相手の女性は4度オーガズムを迎え、「私」自身も2度射精している)、印象としては真面目な、比較的固い印象を与える「私」が傷心の旅の最中になぜかこういうことをしている*。
*後述するが、「私」には歳上で主婦の「ガールフレンド」がいるが、有り体に言えば「セックス・フレンド」で、彼らはしばしば性交渉をしている。つまり、本来的に言えばそんな気にならないのではというところで「私」は性行為をする。どういうことか。
さらにはその性交渉の中で、相手の女性が要求したとはいえ、紐で頸を絞めている。無論、まかり間違えば、相手は死ぬ、つまりは殺人を犯すところであった。
そのあと、「白いスバル・フォレスターの男」と偶然のように遭遇して、「私」に語りかける。「おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ」と(鍵カッコ内原文すべて傍点・第1部・p.323)。しかし、これは実際にその男が語った訳ではなく、そんな気がしただけなのだ。つまり、「私」の思い込みなのだ。思い込みではあるが、「私」自身が自分自身の「悪」の自覚を持つ機縁、あるいは「私」自身の「悪」の分身なのでもある。
この「白いスバル・フォレスターの男」の重要性は、最終章にもさりげなく再登場することからもうかがえる。
2011年3月11日、東日本大震災*後、テレヴィジョンのニュース映像にこの男は再登場する**が、これも、あるいは思い込み、錯覚かもしれぬが、そう思えたということが「私」にとっては重要なことなのである。
*村上の震災、地震災厄に対する思い入れは先の震災、阪神・淡路大震災が彼の故郷である神戸を襲ったものというところから来ていると考えられる。この後の熊本地震の復興にも村上は密かに尽力している。
**「あるとき、私はテレビの画面の隅に「白いスバル・フォレスターの男」をちらりと見かけた。あるいは見かけたような気がした。カメラは津波で内陸の丘の上まで運ばれ、そこに取り残された大型漁船を映していたが、そのそばにその男(「その男」に傍点)が立っていたのだ。もう役目を果たせなくなった象と、その象使いのようなかっこうで。」(第2部・p.532)。村上作品における「象」の重要性については言うまでもない。短篇「象の消滅」(1985年/『パン屋再襲撃』1986年・文藝春秋)がまず、頭に浮かぶが、デビュー作『風の歌を聴け』(1979年・講談社)の冒頭に「救済」の象徴としての「象」が登場するのは有名だ。
さらに考えてみると、この男は先に論じた地界の川の渡し守、〈顔のない男〉のところで言及されていた。
少し離れたところから見ると、白いスバル・フォレスターに乗っていた男のようにも見えたし、うちのスタジオを真夜中に訪れた雨田具彦のようにも見えた。(中略)しかし近くに寄ってみると、その誰でもないことがわかった。ただの〈顔のない男〉だった。(第2部・p.353)。
このように考えてくると免色渉=〈顔のない男〉=「白いスバル・フォレスターの男」、という弛い等式が成り立つ。言うなれば、免色渉は高い理想を表し、「白いスバル・フォレスターの男」は地に着いた現実性を表していると考えられる。
「私」はこの「白いスバル・フォレスターの男」の肖像画を描こうとするが未完成のまま、何故か「完成している」と思い、鋭い直感力を持つ秋川まりえも同様の判断を下す*。しかし後にそれは、やはり、未完成であり、何らかの力が完成を妨げている、とされる。結局は、この肖像画は老画伯の遺した「騎士団長殺し」なる絵とともに屋敷の火災に際して焼亡してしまうのだが、したがって、「私」は「時間を味方につけて」この肖像画(〈顔のない男〉=「白いスバル・フォレスターの男」)を完成させねばならない。*ここちゃんと読み返す!!!!!!!!
5 秋川まりえ
秋川まりえ*は『偉大なるギャツビー』で言えばデイジーに当たる訳だが、もう少し厳密に言うとデイジーの娘に当たる。
*秋川まりえ、という名前は旧作『アフターダーク』の主人公・浅井マリを想起させる。全く何の関係もないかもしれぬが。
ギャツビーたる免色渉には別れた愛人がいて、それが秋川まりえの母親である。その愛人は免色と別れるとしばらくして別の男性と結婚して、子供を産んだ。それがまりえなのだが、免色が言うにはまりえは自分の実子ではないかと思う。母親は数年前に死んでしまい、今、まりえは父親とその妹、まりえからすると叔母に当たるが、その三人で小田原の山の中の住宅地に住んでいる。
免色はその母親と、実子かもしれぬまりえのことが忘れられず、ちょうどまりえの家が見える邸宅を無理矢理買い取って、夜な夜なパーティーを開く、わけではなく、赤外線望遠鏡でまりえの様子を覗く、というどちらかというと変質的な行動を取る。このシチュエイションが『偉大なるギャツビー』の状況をなぞっているように読める。しかし彼はそれだけで満足する訳ではない。
免色は莫大な資力と綿密な計画と果断な行動力をもって、秋川まりえを着実に自分の世界に引き入れようとする。
秋川まりえは市内の絵画教室に通っている。その絵画教室の講師をしていたのが語り手「私」であった。そこで免色は「私」が類いまれな才能を持つ肖像画家であったことを調べ上げ、自らの肖像画を描くことを依頼することで「私」に接近する。「私」と懇意になることに成功した免色は、恐らく当初の予定通り秋川まりえの肖像画を描くことを「私」に依頼する。それを機縁に「私」のアトリエ(本作では「スタジオ」と呼ばれているが)を頻繁に訪れることになったまりえと付き添いの叔母・秋川笙子に接近する。免色は偶然だと言っているが、笙子を籠絡し、男女の仲となった叔母・秋川笙子と免色が結婚するのも時間の問題か、というところで第2部は終わり、先に述べたように「私」と免色が現実的に遭遇することは、どうもなさそうである。
しかし、この後、物語の必然力が招来する帰結は免色によるまりえの囲い込みではないか*。
*あるいはそれは肉体的か精神的かは分からぬが、性的な凌辱かも知れない。
それが現実世界のこととして起こりうるのか、それとも仮想世界(地下世界?)で発生するのかは分からないが、「私」がまもらなければならない大切な人たちのなかの一人としてまりえは当然入ってくるだろうし、そもそもまりえのもととされている、異界付きのペンギンのフィギュアは〈顔のない男〉に「人質」のように奪われたままなのだ。
さて、ここでまりえについて論ずべきことはあと2点ある。
「私」によるまりえの肖像画は未完成のまま、まりえに贈られる。このまりえの肖像画はなぜ未完成なのか。
先に述べたように、この物語の期間で「私」によって描かれた4枚の絵のうち、①の免色渉の肖像画と③の「雑木林の中の穴」については完成をして免色渉のもとに渡っている。これは、今後、免色も、穴も物語のなかでは「完成」=「終結」していることを意味していて、今後、「現実」的には登場しないことを予告しているのではないか。
逆に未完成に終わった②「白いスバル・フォレスターの男」と④「秋川まりえ」についてはまだ「終結」していない、今後も何らかの形で登場することを暗示しているのではないか。
もう一点はまりえの行方不明中の行動のある種のあっけなさである。まりえは「私」の冥界巡りと同時期に5日間もの間行方不明になる。正確に言えばまりえの方が一日多く、一日分「私」に先んじて行方をくらます。「私」の冥界巡りはいつもの村上のパターンではあるが、本作においては単に無意識の世界への下降というよりも、より本質的に死の世界へと近づいていると考えられる*。
*「私」は三途の川を渡っている。したがってそれ以降は「死者」である。しかし異界性を帯びつつ現実世界のものであるまりえのペンギンのフィギュアを〈顔のない男〉(死神?)に「あずけたまま」なので「私」は「成仏」していない。これは村上が本作成立のきっかけになったのが「二世の縁」であるというところに根拠を持つ。これは別に詳述する。
それに対してまりえの「冒険」はいささか物足りない。物語的に、と言うことではなく、質的に均衡を失している気がする。まりえは免色への疑いの気持ちを払拭できず、何がその屋敷で行われているか調べるために、屋敷に忍び込む。そして、そこから出られなくなり、5日間、幽閉状態に置かれる。結局そこで彼女がしたことは免色に気づかれないように『ナショナル・ジオグラフィック日本版』のバックナンバーを手当たり次第に読んだことと、まりえの母が遺していった大量の衣服と遭遇したことである。
まず考えられるのが、あの細心にして注意深い免色が、仮に屋敷がいかに広壮であろうと、「異物」が自宅に侵入して気づかないことがあろうか、という疑問である。
例えばまりえはメイド室*に閉じ籠るが、そこから一歩も出ないわけではなくストック室に入り、食料を調達したり、トレーニングルームに侵入し、そこに積まれていた『ナショナル・ジオグラフィック日本版』を持ち去って読んでいる。ほぼ同時期に毎日欠かさず免色はその部屋でトレーニングを行っているのだ。気づかないはずがないだろう。少なくともなにか変だぐらいは思ったはずである。
*メイドは冥土に通ずる。
さらに言えば、まりえが免色の屋敷に忍び込んだ初日に偶然まりえの母の衣服が遺されたクローゼットに入り込み、何者かの足音が聞こえ、そこに隠れるというシーンがある。状況的には免色本人に他ならないが、まりえはこう思う。
この男は免色ではないのかもしれない、そういう思いが
一瞬彼女の頭に浮かんだ。じゃあそれは誰なのだ? (第2部・p.481・傍線部原文ゴシック)
この局面で彼女は異界と接し、物理的には免色の姿を借りた、恐らく〈顔のない男〉とまりえは遭遇しているのではないか*。
*このように免色には物理的な側面と霊的な側面がある。免色=死神憑依説の根拠の一端である。
多分、将来的に、この衣服の魅力に抵抗しきれずにこの母の遺品をまりえは身に付けることになるだろう。そして免色によって5日間監禁され、何らかの形で損なわれるのだ*。
*ちなみにまりえの母はスズメバチに刺されて死んだことになっている。本当にそうなのか。なにかが隠されているのではないか。例えば、実は死んでいない、昏睡状態に陥っているとか。あるいは殺したのは実は免色なのでは、とか。
彼、免色=〈顔のない男〉はそのことが分かっているのだ。
彼は着実にその計画を実行していく。
6 イデアとメタファー
さて、以上のように考えてくると、物語の全体の構図はギャツビーたる免色渉が握っている。つまり、完全なリアリズムの小説としては、免色渉が失われた、かつての「恋人」の子供をその「恋人」の代わり、代打として手に入れようとして、ほぼその目算が付きそうだ、そこに何らの悲劇的要素はない、おしまい、という話である。
語り手が個人的に味わう奇妙な体験は夢か幻想であって、ストーリーの根幹に何の影響も与えない。
そうであるなら、この物語は『偉大なる免色渉』であって、実のところ、仮にそうであったとしても大変興味深いストーリーとなるはずである。言うなれば、例えば『1973年のピンボール』で「鼠」の章がなくても通じるように。あるいは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で「世界の終り」の章がなくても通じるように。
しかし、そうであるなら、作者の意図は半減どころか、根本から無意味になってしまうだろう。
本作も同様に「私」が経験する異界体験を削ってしまっても話としては十分通じはするが*、あくまでも本作のタイトルは『騎士団長殺し』であり、サブタイトルは第1部が「顕れるイデア編」であり、第2部が「遷ろうメタファー編」となっているのだ。
*話が逸れるかもしれぬが、『ねじまき鳥クロニクル』3部作のスピンオフ作品に『国境の南、太陽の西』がある。先に言及した諸作品とはいささか構造、成立が異なるが、前者が村上本流の異界譚だとすると、後者にはそのような要素はほぼ皆無であり、全編リアリズムの小説と言えなくもない。興味深いことに、私自身は前者には面白味をほとんど感じられず、長きに渡る村上に対する違和感、断絶の時代の始まりともなった作品だが、後者はそこそこ楽しめた。これはなぜだろう。
さらに話が逸れるが、これも比較的短い長篇小説『スプークトニクの恋人』も、巷間あまり人気がないそうだが、個人的には好きだ。
それはともかく、この作品の終わりの方で「にんじん」が万引きをして、それを引き取りに主人公が行くという下りがあるが、この章だけ歯触りというか、手触りが違う。しばしば村上は自作の短篇小説を元に長篇小説を書き上げるが、この場合は逆で、『スプートニク』の本編が成立したあと、この「にんじん」の章のみが後に無理矢理挿入された印象が残る。むしろ、ここだけ切り取って短篇小説として味わう方が好ましい気もするぐらいだ。
つまり、何が言いたいのかというと村上の筆力をもってすれば通常の意味合いの完全なリアリズムの形とった小説でも充分に鑑賞に耐えうるし面白いのだ。その典型例は空前絶後のベストセラーとなった『ノルウェイの森』なのだから。したがって、かれはこの路線で小説を書き続けていくことは可能だったし、回りからはそうするように言われたことであろう。
しかし、彼はその方向はあえてとらず異界譚を大幅に含むある種、奇妙な、というか、読者の理解を「拒絶」するような長篇小説を書き続ける。
ただ、現段階でのわたし自身の見解ではあるが、異界譚は「逃げ」に繋がる。それが「逃げ」にならず、つまり非現実なものであるにも関わらず、実際の現実よりも現実としての現実性を確保、担保するためには現実がそれらの非現実性を支えねばならない。では現実を現実たらしめているのはなにかというと、ある種の「倫理性」ではないかとわたしは考えている。
例えば、全く位相が異なるやもしれぬが村上の翻訳で英語をそのまま片仮名表記で書くということがある。この言葉はどうしても日本語にぴったりと重なるものがない。言わんとすることは分らなくもないが、仮に意味にブレが生じるとしても通常の日本語の文章で使用されない英単語をそのまま片仮名にするのは翻訳の放棄ではないのか。つまり、逃げではないのか※。
※例えば、『グレート・ギャツビー』や『キャッチャー・イン・ザ・ライ』などの題名をカタカナ表記をするというのは1000歩譲って、まーよしとしよう。
しかし、本文の特定の名詞ではない表現をそのまま片仮名表記するのは強い疑問が残る。『グレート・ギャツビー』中に「my friend」を意味する慣用表現「old sport」があるが、村上はこれをそのまま「オールド・スポート」としている。恐らく当時の学生言葉であろうから、まさに本作で「騎士団長」が二人称単数に対しても使用する「諸君」とかでよいのではないかと思うが……。この「old sport」問題は『グレート・ギャツビー』の「訳者あとがき」にて触れられている(『愛蔵版グレート・ギャツビー』p.316)。
同様に小説でも壁抜けなどの奇妙な現象が生じる。これらの異界現象がしばしば「逃げ」になっているのではないか。取り分け、その要素が強いと感じられるのが、冒頭で言及した中期の三作である。この問題については別稿「文学的急カーヴをいかにして曲がるか」を参照してほしい。
したがって、もちろん「免色渉編」を削除してしまえば、本作の魅力は半減以下になってしまうが、あくまでもテーマは異界譚であるところの騎士団長殺しであり、イデアであり、メタファーなのだ。
さて、ここからが本丸である。
語り手である「私」が老画家・雨田具彦の留守宅に借り住みすることになると夜な夜な決まった時刻に鈴の音がどこからともなく聞こえてくる。その音を辿ってみると屋敷の裏の雑木林の中に石の祠があり、さらにその裏に石が積み上げられた塚がある。鈴の音はそこから聞こえてくるようだ。肖像画の件で懇意となった免色の力でその石の山は取り除かれ、その下には緊密に敷き詰められた石作りの深さのほどおよそ3メートルの穴があり、その底には年代物の仏具と思われる鈴が置かれていた。
村上は別のインタヴュー*において、本作の最初のモチーフとなった3つのものを挙げている。
*川上未映子・村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』2017年・新潮社・p.73~。
1つめは「騎士団長殺し」という題名。
無論「騎士団長」はモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』(1787年)の登場人物で、自らの娘を籠絡したドン・ジョヴァンニを責めるが、逆に彼に殺害される人物である。村上自身はこのオペラ作品の影響はほとんどない、単に題名の面白さ*だけからこの題名を付けたと言っているが、そうだろうか**。この問題は後述する。
*個人的な見解だが、本当に、この題名は面白いだろうか? いわゆる謎解き型のミステリーの題名を意識しているのかとも思うが、むしろ異和感しか感じられない。一年以上読むのが遅くなったのも大きな理由はここにある。
**ピーター・シェーファー脚本による映画『アマデウス』(1984年)をご覧になった方はお分かりかと思うが、最後的に騎士団長の亡霊にドン・ジョヴァンニは地獄に連れ去られるのだが、そこでの騎士団長はモーツァルト自身の「父」の表象であった。つまりここには隠れ主題として「父」が現れているのではないか。もう一点付け加えれば、映画『アマデウス』における、騎士団長の亡霊は、本作における〈顔のない男〉のイメージに酷似しているのではないか。
→イデアたる「騎士団長」は殺す 地獄行き
しかしながら、本作では語り手「私」が住み込んだ老画伯の屋敷の屋根裏部屋に、厳重に梱包された形で隠されていた、恐らく老画伯自身が描いたと思われる「騎士団長殺し」という日本画のことである。本作の題名は直接的にはこの老画家の日本画による。その絵のなかではオペラ『ドン・ジョヴァンニ』における騎士団長殺しのシーンが、なぜか日本の飛鳥時代(?)に翻案された形で描かれている。
後に分かったこととして、雨田具彦はその若き日にウィーンに留学をしていた。そのときナチスの高官暗殺事件に巻き込まれて、彼本人は日本へ強制送還されたようだが、そのときに、実は彼の恋人は仲間たちとともに処刑されたようだということが後に分かっている。この絵の中の「騎士団長」とは暗殺未遂に終わった、このナチスの高官のことではないかとされる。
2つめは書き出しの一節。「その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くのの山の上に住んでいた。」に始まる10行である。ここにも何かがあると思うが現段階では分からない。
そして3つめとして、従来の村上作品ではほとんど見られなかった日本の古典文学への言及である。上田秋成の『春雨物語』の中にある「二世にせの縁えにし」がそれである。
要するに仏教で言うところの即身成仏の話なのだが、現世のこの身体のまま即時的に仏になるために地中の穴に入り、鈴を鳴らしながら経を唱える。鈴が鳴らなくなると、それが成仏、つまり死んだということになるのだが、この話を受けて、その石室から発見された鈴はそれではないかということになるが、かといって、その即身仏がいた形跡もない。一体どういうことなんだ、ということになる。
しかし、その穴を開いたことで、「イデア」を自称する身の丈60センチほどの「騎士団長」の格好をした異界のものが現れては様々な局面で「私」を導いていく。
その最大の山場は、唐突とも思える、語り手「私」によるイデア「騎士団長」の「殺害」である。
先に述べたように秋川まりえは突然行方不明になるが、そのような状況下にあるにも関わらず、「騎士団長」は翌日かかってくる電話の申し出を断ってはいけないと「私」に強く言う。
その電話は老画伯・雨田具彦がもうもたないだろうから見舞いに行くという、息子・雨田政彦の申し出であった。この下りはあたかも「私」が具彦の息子であったかのようだ。それはなにやら『1Q84』の「BOOK2」の末尾において主人公・天吾が父親を訪ねるシーンを想起させる。
ところが、そこに現れた「騎士団長」が、老画伯が見ている前で、自らを殺せという。ここは相当強引な展開であるとも言える。理詰めで考えれば雨田具彦にとってはこの騎士団長は、若き日に我が恋人を死に追いやったナチスの高官張本人と見えていたということになるだろう。したがって絵の世界ではなく、それが実際に目の前で殺されることによって老画伯は迷いを吹っ切ることができ、その2日後に安眠する。その意味ではそうなのだが、流れ的に今の今まで自らを導いてくれていた騎士団長を「私」に殺せるのだろうか。ここは強い疑問が残る。
そしてさらに謎なのが、「私」が騎士団長を殺害したのは雨田具彦の病室なのだが、その「騎士団長殺し」の一部始終を床の穴から覗いていたのが「顔なが」と「私」が勝手に名付けた自称メタファーである。この期に及んでは恐らくイデアもメタファーも大した違いはないだろう。いずれも異界の存在である。この床の穴に降りていきいわゆる冥界巡りをして、最終的には石室に辿り着き現実世界に「私」は戻るのだが、問題は先にも触れた「川」を「私」が渡っていることである。これは一体どう言うことか。
村上が本作のモチーフになったものが上田秋成の「二世の縁」であることは先述した。本作と同様に夜中に鉦の音がするので穴を掘ってみると高僧とおぼしきミイラが鉦を打っていた。恐らく数百年前に促進成仏するために穴に入ったが身体のみたぐいまれなる生命力で手だけ動いて鉦を鳴らしていたようだ。掘り出されたミイラは次第に体力を回復して普通の生活をするようになる。ついには婿入りをして夫婦の交わりまでしてしまう。その浅ましき様を見て、人々が仏教への信仰心を失う、という話である。
題名の「二世の縁」というのは夫婦の縁のことを指すが、無論ここでは仏道修行に専念しても結局は浅ましき人間の欲望から逃れられない、つまり仏との契りは所詮「偽にせの縁」だという秋成の皮肉であろう。
当然、本作では仏教云々というのは無関係であろう。問題は恐らく物理的な死語もなお生き続けるミイラの姿こそが問題となる。
先に触れたように「私」たちが最初に石室を開いたときには鈴のみがあり、他には修行僧の形跡はなにもなかった。
これも先に触れたように「私」が渡った川が三途の川だとすると「私」はもう死んでいることになる。だが彼は〈顔のない男〉の肖像画を描くという約束を果たすまでは死んでも死にきれない。つまり物理的には死んでいるが成仏しきれていない状態で石室から掘り出された。そして「二世の縁」と同様に結婚*もするのだ。
*この場合は元・妻との復縁。
一旦、第6節まで
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2018年7月2日 22:17
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