↗加藤典洋を読む↗
文芸評論・一般理論・定礎の大いなる試み
加藤典洋『テクストから遠く離れて』
■2016年8月11日読了。
■採点★☆☆☆☆。
本書は同時期に構想、執筆され、そして刊行元こそ違え、同時に出版された『小説の未来』*という双子の優秀な弟を持つ、いささか残念な兄である。本書が理論篇で、もう一方が実践篇ということらしい。
*加藤典洋『小説の未来』2004年・朝日新聞社。ちなみにこの題名はいささか頂けない。連載時のタイトルである『現代小説論講義』の方が内容を的確に伝えている。ついでに云うと本書の題名もいかがなもか。蓮實重彦の『小説から遠く離れて』(1989年・日本文芸社)を批判しているのだろうが、より明確に『テクスト論批評批判』とすべきではなかったか。これに「序説」を付けるとやはり蓮實さんの『物語批判序説』(1985年・中央公論社)のパクリ(映画の世界ではこれを「オマージュ」というな)になってしまうか。
テーマは「文学作品とその作者を切り離して考えるべきだ」というテクスト論批評の批判であり、そのために「虚構言語」や「作者の像」なる概念を提出する理論書である。
言うなればこれは、本書の冒頭にも言及されているが、筆者にとっての『言語にとって美とはなにか』*、すなわち加藤にとっての文芸評論の一般理論の定礎の大いなる試みに他ならない。
*吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1965年・勁草書房。
結論から云えば本書は大変な力作であり、むしろ力が入りすぎて本来の加藤の良さが全く出ておらず、それほどテーマの巨大さを示唆するものとなってはいようが、著しく読み通すのに難渋する。ことの成否は一旦措くとして、要するにつまらない、ということになろうか。
その原因は文芸評論のバランスを失するぐらいに、具体的な作品ヘの論及よりも理論的な講釈が圧倒してしまっていることか。
本書は3部構成になっていてそれぞれ特定の作品名が表題として挙げられている*。
*「Ⅰ「作者の死」と『取り替え子(「チェンジリング」とルビ)』」「Ⅱ『海辺のカフカ』と「換喩的な世界」」「Ⅲ『仮面の告白』と実定性としての作者」」。
しかしながらⅡ章やⅢ章で言及されるカミュの『異邦人』や三島由紀夫の『仮面の告白』と水村美苗の『續明暗』はともかくとして*、Ⅰ章・Ⅱ章で触れられる大江健三郎の『取り替え子(「チェンジリング」とルビ)』、阿部和重『ニッポニアニッポン』、村上春樹『海辺のカフカ』については同時期に連載されていた『小説の未来』にも論及されていて、そのせいか、その文学的精髄(エキス)を抜き取られた感が拭えない。もしかすると、これは加藤の文筆家としての職業倫理(つまり同じことを書かない)から来ているのかもしれぬが。
*これら3作品についての分析はとても面白い。
いずれにしても我々読者は加藤に文学の理論家を需めたりはしない。現代日本ではほぼ絶滅し果てた、語の真の意味での文芸評論家をこそ希めているのだ。
吉本の言語言語論はソシュールと相反するのか? p.13 p.89
大江の写真掲載はテクスト論破りと言えるのか? p.21
エピメニデスのパラドックス→言葉はそれだけでは意味を決定できない p.79
竹田青嗣『言語的思考へ』 p.81
虚構言語 p.95
ラカン p.112
換喩 て何? p.112
カミュ『異邦人』 p.140
存在の倫理 が分からない p.178
《何も知らず何も知らずに生きていくことが、生きるということ生きるということの原形である。何も知らない人間に適用できないことは、普遍的でないという以上に、考え方として弱い。》p.308
カント「啓蒙とは何か」 p.309

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