📚讀書ノウト
行間に潜む生命のドラマを読み切る
■★★☆☆ 1994年8月10日読了
■1991年6月・新潮選書。長篇評論(ロシア文学)。
種々得るところが多かったが特に瞠目させられたのが、「大審問官」の章の下り、通来イエスを誘惑する「ドゥーフ」は「悪魔」と訳されてきたが、これは「霊」であるとしたことである。これは文字通り「卓」見である。言うまでもなく、イワンの叙事詩「大審問官」は「マタイ福音書」の一節が原典になっている。即ち
《そこでイエスは荒野へと霊に導かれた。悪魔に試みられるためであった。》(「新約聖書」前田護郎訳/『世界の名著12・聖書』1968年・中央公論社・304頁。傍線評者)。
ここの箇所はイワンの叙事詩では次のように変換されていた。
《『聡明な恐ろしい悪魔が・自滅と虚無の悪魔が』(……)『偉大な悪魔が、かつて荒野でお前と問答を交わしたことがあったな。』》(『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳/『ドストエフスキー全集』第15巻・1978年・新潮社・303頁。傍線評者。)
つまり、江川説によれば、この《悪魔》と訳された《ドゥーフ》という言葉は、そもそもイエスを荒野に導いた《霊》と同じ言葉なのだと言う。これは一体どういうことか。大体イエスを導いた《霊》はどこにいってしまったのか。これを江川は次のように解釈する。
《あくまでも一つの臆測としてだが、マタイ四でいずこともなく姿を消してしまった「御霊」が実は「悪魔」に姿を変えていたのではないか、と考えられることがある。つまり、「悪魔」は「御霊」の変身であり、ある意味で神性をそなえているのである。(……)もともと「御霊」とは、「父なる神」、「子なる神」とともに、三位一体の神をなすものであり、万物に生命を与え、とくに人間に霊的生命を与えるものとされている。人間の精神活動はすべて「御霊」の働きによる、とも言われている。となれば、人間のよからぬ心の動きも、また「御霊」の働きの一つということにならないだろうか。》(本書・233頁。傍線評者。)
恐らくこの〈霊〉なる言葉は〈生命〉という言葉で言い換えることができるだろう。まさに、イエスは荒野において聡明な恐ろしい〈生命〉、自滅と虚無の〈生命〉、そして偉大な〈生命〉と対話したのであった。〈生命〉とは自分のことであり、また、その自分を取り巻く全存在のことにほかならない。
ドストエフスキーが聖書中の「悪魔」を何ゆえに「霊」と読み換えたのか、また、何故にそれが可能だったのかは分からない。恐らくドストエフスキー独自の直感で、聖書の行間に潜む生命のドラマを読み切ったのであろうが、なんとも恐るべき読解力である。
(執筆:1994年8月10日。初出:『鳥・web版』2001年5月19日更新)

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