三浦雅士――人間の遠い彼方へ その6
書評と文庫の解説は無論異なります。もちろん、文庫も、巻末の解説を読んでから購入を決断する方々もいるだろうから、そう簡単には言えぬが、普通は購入し、読了後、目を通すのが、文庫の解説というものでしょう*。
*と書きながら、解説を読んでから本を買うというのはあまりないが、解説の筆者によって買う場合がある、というのと、単行本との異同を確認して買う場合があるが、この場合は解説は関係ありません。
最近で言うと、三浦さんの『考える身体』(2021年・河出文庫)が文庫化された際に、一応書店で確認してみると、原稿用紙100枚近い量の、とんでもない「あとがき」の増補がされていました※。というか、これは「あとがき」でもなんでもなくて立派な1本の論考です。書題にも「増補」と明記すべきでしょう。
それはともかく、本を買ったら、とりあえず「あとがき」なり「解説」なり、つまり最後から読み始める悪癖をどうしても、わたしはやめることができません。
※「文庫版あとがきに代えて――人間、この地平線的存在――ベジャール、テラヤマ、ピナ・バウシュ」。
したがって、原則として文庫解説は、読者が既に本文を読んでいるという前提で書かれるものです。しかしながら書評というものは、その作品の解説では、ありません。読者がその本を買うか、買わぬかという重大な判断の一助にするのが書評というものです。
最近のインターネットで見られる一般のレヴューも、参考にはなるだろうが、極端な悪口が書かれたりすることもあるので、新聞や雑誌などに見られる、専門家の書いている、いわゆる書評とは、やはり、一線を画すべきでしょう。
その種、つまり、プロの書いているものは、よほどの場合を除いて、これはいかがなものかと仮に思ったとしても、基本的には否定的な意見は避けて、その本の美点、セールスポイントを伝えるのが、常道ではないでしょうか。
さて、三浦さんの書評歴は1978年に迄遡ります。言うまでもなくその時期、三浦は依然『現代思想』の編集長として辣腕を揮っていた時期です。後にまとめられた『自分が死ぬということ――読書ノート1978~1984』*(1985年)という、書評集の題号としては奇怪な書題を持つ第一書評集**の「あとがき」に、この間の経緯について、三浦さんはこう述べています。
一九七七年の暮近く、当時『レコード芸術』***の編集者だった朝川博が「フィッシュ・アイ」というコラムに書いてみないかと勧めてくれた。文学のことならば何を書いてもいいというのである。それではというのではじめたのが本書の前半部を占める文章である。筆名は今井裕康だった。朝川博は内容には少しも干渉しなかったので――もっとも時々笑いながら「何を書いているのかわけがわからないとみんな言っているぜ」などとからかったりしていたが――まったく自由に自分の考えを述べることができた。 これは当時の私には有難かった。考えるには書くことが必要である。そして書くことには活字になることが必要なのだ。
このコラムのおかげで、私は自分の考えを見ることができた。音楽雑誌の一頁に小さい活字で印刷されたにすぎないが、私は全力を傾注した。そのなかのいくつかは後になって長い文章に書きあらためられた。誰にも読まれなくとも自分で自分の考えを刻みこみ、さらにそれを見ることができるというのは幸福である。思考は一度自分の手を離れて再びもどってくる。ほとんど他人のような顔をしてもどってくるのである。私は私と付き合わなければならない。(三浦「あとがき」/『自分が死ぬということ』p.299。傍線引用者)
*三浦さんは初期の文章や単著の書題に「ノート」という言葉をよく使っていました。同時期に刊行された『幻のもうひとり』と『主体の変容』は双子とも言うべき関係にあるが、前者には「現代芸術ノート」、後者には「現代文学ノート」とそれぞれ副題されています。前者には「ビデオのためのノート」、「寺山修司ノート」、「鈴木忠志ノート」、「太田省吾ノート」が収録されています。謙遜ということもあるのだろうが、本当は100のことが言いたいが、今のところ、量としても、質としても10ぐらいのところに留まるしかない、というような慙愧の念が「ノート」という学生を思わせる言葉を招来しているのではないでしょうか。
**三浦さんの書評集は残念ながら今のところ1冊しか存在しません。後で述べるように『毎日新聞』への定期的な寄稿をも含めて、他の媒体への寄稿を含めれば、相当な本数になるはずですが。そんなことを言えば対談集やインタヴュー集、あるいは講演の類も数限りなく存在しているはずだが、それらがまとめられる云々については全く聞きません。その意味では、われわれは三浦さんという巨象を撫でている群盲に等しいのではないでしょうか。
***引用者註。『レコード芸術』は、1952年創刊の、音楽之友社が発行する、クラシック音楽のレコード(現在はCDまたはDVD専門)批評の名門月刊誌である。後に音楽批評にも活動を拡げた三浦さんとの因縁も感じるが、恐らく『レコード芸術』に音楽批評は寄稿していないはずです(残念ながら2023年7月号をもって休刊となりました)。
したがって、実は三浦さんの初期から中期にかけての文体と主題と方法を揺籃したものこそ、先に挙げた『ユリイカ』、『現代思想』の「編集後記」と、この各誌に掲載されて、後にまとめられた書評に他なりません。
そもそも題名からして前代未聞で、新進の批評家の書評集にこんなタイトルを付けても……、と今でも思われるが、恐らく当時の周囲の人々も反対したのではないでしょうか。三浦さんは本書の「序」で次のように述べ、とりわけ題号についても「あとがき」で触れています。
以下につづくさまざまな文章の主題がじつは自分が死ぬということにほかならないことに気付いたのは、むろん、それらが書かれたはるか後になってからのことである。(三浦「序――自分が死ぬということ――」/『自分が死ぬということ』p.α)
むろん、本書がこれら敬愛する人々*の手を煩わせるに足る書物であるかどうか、いまの私にはわからない。むしろ率直に疑いを抱いているといったほうがよいだろう。だが、私はここで弁明しようとは思わない。表題にしてもそうだ。私にはこれ以外の表題を思いつくことができなかった。(三浦「あとがき」/『自分が死ぬということ』p.300)
* 引用者註。三浦さんに書評の場を提供した、当時『海』編集者の安原顕、同様に三浦さんを書評の場に招き入れた、『レコード芸術』編集者の浅川博、本書『自分が死ぬということ』担当編集者だった間宮幹彦の3人を指す。
確かに、そういう観点で読めば、「自分」、「死」というテーマは頻出しています。三浦さん自身は意図せざる形で、対象の書物と真剣に向き合い、その書物の、その筆者の「側」に立って書評を書いた心算になっていました。これは当たり前のことだが、しかし、一冊の書物としてまとめられたものの中に自己を、自己自身のテーマ「自分が死ぬということ」を発見して、驚愕したというのです。その驚きこそ読者に伝えるべきと思ったかどうか定かではないが、この強い思い(込み)はわれわれにそう思わせます。
それでは、書評とは何か、批評とは何なのか、という問題とこれは密接に絡み合います。後述するが、三浦さんが、「意図せざる形で」小林秀雄に拘るのもこの「自我意識と批評」の問題があるからではないでしょうか。
|
コラム ☕tea for one |
|
~「孤独の発明」本篇は何故刊行されないのか?~ 「孤独の発明」の本篇はご存じのように未だ刊行の目を見ていないが、三浦さんが何故に刊行を躊躇うのか、実は謎であるが、というのは明らかに、刊行された第二部『言語の政治学』よりも第一部「彼岸の論理」の方が出来がよいのです。第一部は主として小林と親友・中原中也を扱うが、テーマは「幽霊」、いわゆる文学作品における「冥界下降譚」を扱っています。――よもや、小林秀雄の霊を三浦さんが恐れたのか。そんな馬鹿な、と皆さんは言うかもしれません。そんな非科学的な、と嘲笑うかも知れません。わたし自身も頭ではそうも思います。小林自身は「超能力」や「幽霊」の存在をこともなげに扱っています(「信じることと知ること」〈1974年〉など)。 しかし、小林や中原の作品の世界に入っていくということは、その小林なら小林の世界の文法に身を浸す、ということです。でないと窒息して死にます。多くの読者は「あ、水が合わないな」と、そそくさと呼吸するために浮上していくでしょう。 つまり、夢の世界と同じです。夢の世界では猫が話そうが、水の上を歩こうが、別に不審には思いません。 その世界に身を浸し続けると、この世に戻ってくるのがとても困難になってきます。本を書いたり、あるいは読書という相当簡易な方法を使って、われわれは異能力を手に入れることができるのです。 村上春樹さんが、作中に「ノモンハン事件」に取材した『ねじまき鳥クロニクル』(1994年~95年・新潮社)を書き終えた後、実際にノモンハンに行ってみました。有名な話だが、村上は事前取材を原則しないことで知られています。想像力で書ききって、後に事実の間違いなどを修正するということらしいです。 で、実際に、当時とほとんど変わらないと考えられるノモンハンの戦場跡を巡って、そこで臼砲弾の部分と銃弾を拾ってきたそうです。 その夜、ホテルで就寝していると、激しく部屋が揺れた、というのです。無論、その時間、その一帯に地震はなかったことは言うまでもありません(村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」/『辺境・近境』1998年・新潮社)。 つまり、これは科学的に言えば錯覚か、幻覚なのだろうが、村上さんにとっては間違いなく実際に生じたことなのでしょう。それは村上さんが強い想念のようなもので作品世界に浸入していたことによります。向こう側の世界こそ、村上さんにとってはリアルなのかも知れません。
村上さんには『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(2010年・文藝春秋)というインタヴュー集もあるぐらいだ。「夢を見る」というのは執筆活動を指します。 したがって、三浦さんが、無意識に小林の霊を、その祟りを恐れることに何の不都合があるでしょうか。 📓 |
書題である「自分が死ぬということ」の意味と射程範囲については第6章で別途触れる予定です。ここでは、内容がそうであるように、この題名からして異常事態なのだということだけ確認しておけば足りるでしょう。
さて、三浦さんは『レコード芸術』連載一回目から尋常ではなかったのです。やる気、というと下世話な感じがするが、思いが強過ぎるのでしょう。
「「深さ」の神話の崩壊――小林秀雄から宮川淳へ」。題名から見て分かるように一冊の本を取り上げて論評する体の、いわゆる「書評」ではありません。比較的短めではあるが、立派な批評になっています。別の言い方をすれば、三浦さんにとって手錬れている、先に触れた「編集後記」をいささか長くしたようなものでしょう。
三浦さんが1978年から80年末まで連載を続けた『レコード芸術』の書評欄、というかコラム欄はおよそ文字数にして3240字、400字詰め原稿用紙に換算すると8枚強となる。コラム、あるいは通常の書評の文字数からするとあるいは長いかもしれません。後で述べるが、三浦さんが後に寄稿することになる『毎日新聞』の書評欄は短いものが3.5枚、長いのが5枚という規定があるようだが、他の紙誌でも似たようなものでしょう。そういう意味では長いが、先ほども述べたように、文体、主題、方法いずれも「編集後記」と別物ではありません。全く同じフィールドで書かれていると言ってよいでしょう。
あるいは文字数が比較的長い、つまり或る程度論じる幅があるので批評になってしまったのでしょうか。『レコード芸術』編集者の朝川博さんが「文学のことならば何を書いてもいい」*との言葉通り、単に「文芸評論」を書いただけかも知れませんが。
* 三浦「あとがき」/『自分が死ぬということ』p.299。
しかしながら、その書評ならぬ批評になっているものが本書の中でも16篇もあります。後半は媒体や括りなども違っていただろうから、簡単には言えぬが、全77篇中16篇なので、少なからぬ量です。言葉は良くないが、読者のことはさておいて、自分の書きたいことをただ書いている、という感もあります。例えば、『レコード芸術』連載最終回の「物語へ――歴史の歴史」(1980年12月号)は書評とか批評とか言う前に、そもそも何の話を書いているかすら分からない。ま、最終回ということで、まとめに当たる文言を書き連ねていたら、こうなってしまった、ということなのでしょうか。
あるいは書評と言いながら、――確かに書評なのだが、複数の作品を挙げて論じているものが4篇ほどあります。組み合わせの妙、と世に言うが、例えば演劇同士の鈴木忠志と寺山修司を並べるのは分かる(「悲劇の意味と意味の悲劇――鈴木忠志『バッコスの信女』寺山修司『奴婢訓』」/1978年3月号)が、やはり演劇の太田省吾と柄谷行人を組み合わせるというのは相当奇抜な発想だ(「文学への敵意――太田省吾『裸形の劇場』柄谷行人『日本近代文学の起源』」/1980年10月号)。無論、批評は差異から始まる、比較から始まる、とすれば異質なものを組み合わせることにこそ、何ものかを生み出す一つの起爆力がある訳です。これこそ編集(者)的発想です。
恐らく、これはもう、単に一冊の本の善し悪しを、そもそも三浦さんは論じていないし、そんなことをする気も三浦さんには全くないのです。
だから、書評とは批評なのです。書評こそ批評の根源なのです。書評という形式の中に批評の根源的な形が埋蔵されているのです。
話を戻しましょう。『レコード芸術』連載第1回、「「深さ」の神話の崩壊――小林秀雄から宮川淳へ」でした。そもそも書評ではなく、一篇の文芸批評になっている、と述べました。なおかつ、これも複数の対象を持つものです。さすがに小林を知らぬものはおらぬであろうが、宮川淳を知るものは恐らく少ない気がします。この辺りには70年代後半の空気が濃厚に漂っていますね。
宮川淳(みやかわ・あつし 1933年~1977年)は美術評論家として名を成したが、残念なことに44歳の若さで他界しました。もし生きていれば87歳です。比較のために言うと、例えば、蓮實重彦さんは1936年生まれの85歳です。もし、という仮定は例の如く余計なことではあるが、もし宮川さんが生きていたとすれば、あるいは、日本の「批評地図」もいささかならず様相を異にしていたやも知れません。
宮川さんは生前、3冊の単著*を上梓したのみ。その後各美術雑誌に書き遺された論考を集成して全3巻の『宮川淳著作集』(1980年~81年・美術出版社)が刊行されました。
*①『鏡・空間・イマージュ』1967年・美術出版社。
②『紙片と眼差とのあいだに』1974年・叢書エパーヴ(小沢書 店)。
③『引用の織物』1975年・筑摩書房。
この当時、蓮實さんの『表層批評宣言』から「表層」という術語が、宮川さんの『引用の織物』から「引用」なる術語が日本の文学界・批評界・読書界を席巻していました。いわゆる「テクスト論」の嵐です。
「テクスト論」については別の形で一言申しておかねばならないが、三浦さん自身はこれについて明確な言葉で批判することはなかったはずです。意識的にはアンヴィヴァレントな状況にあったのか、あるいは立場的に、つまり、多くの執筆者を抱える編集者として「敵」を作るのを避けようとしたのか、これについては分かりません。例えば、この当時のテクスト論者の代表的論客たる蓮實さんの著書についてもフォローするかのように本書では4回取り上げそのうち一回は「蓮實重彦の方法」と題して、蓮實さんの批評、すなわち「表層批評」についての概論めいたものを書いているぐらいです。
|
【資料 蓮實に関する書評/三浦雅士『自分が死ぬということ』掲載書評一覧】 |
|||||||
|
|
タイトル |
サブタイトル |
著者等 |
書名 |
ジャンル |
掲載誌・紙 |
掲載年月 |
|
5 |
顔と眼差し
|
|
蓮實重彦 |
『フーコー・ドウルーズ・デリダ』
|
現代思想 |
『レコード芸術』 |
1978年5月号 |
|
10 |
文学の罪と罰
|
|
蓮實重彦 |
『夏目漱石論』
|
日本近代文学・批評 |
『レコード芸術』 |
1978年12月号 |
|
49 |
楽しみ方のテクニック
|
|
蓮實重彦 |
『小説論=批評論』
|
批評 |
『海』 |
1982年4月号 |
|
20 |
恣意的であることの逆説
|
蓮實重彦の方法
|
|
|
批評 |
『レコード芸術』 |
1979年12月号 |
先に述べた「アンヴィヴァレントな状況」というのは、恐らく「作者の死」というよりも「作者の消滅」とでも言ったらいいのか、作者自身も作品によって作られるのです。だから、事前に何らかの作者の意図が作品に実現される/実現されないというのは無意味である、というところまでは三浦さんも首肯するでしょう。
しかし、実在した/実在し得た作者をあたかも「完全犯罪」のように完璧に抹殺することはできません。
われわれは、例えば太宰が都合4回自殺・心中未遂事件を起こして、5回目に「成功」したことを知っています。無論、それを知らなくても太宰の作品は読めます。どうとでも読めます。それは自由です。だが、明らかに太宰の人生に纏わる様々な事象を通してみると作品の読み方が変わります。これはまごうことない事実です。作品に書かれている内容は当然変わりません。しかし、作品の置かれている布置によって、あるいは読者の経験値によって読み取りが変わってしまうことも、それと同じです。
なぜか?
作品は人間が書き、その作品を読み解くのも人間だからです。
時間的存在である人間を歴史的に捉えることで、何十にも作品も作者も生まれ変わります。その意味では作者も何者かによって「書き上げられる」作品なのです*。
*この辺りの言わずもがなの議論は加藤典洋『テクストを遠く離れて』(2004年・講談社)を参照しました。
三浦さんは金井美恵子『書くことのはじまりにむかって』(1978年・中央公論社)について論じて、「作家とは(中略)語りたくないこと、語るべきでないこと、いやほとんど語りえないことを語らなければならないもの」*であるとして、次のように述べています。
人は、語ろうとして語り、書こうとして書くことを自明と して疑わない。しかし、実態はつねに逆だ。人は語ることによってはじめて語ろうとしたことに思いあたるのであり、書くことによってはじめて書こうとしたなにかにいたりつくのだ。しかも作家は、つねに語ることの最中にあってその両端を知りえない。作家の透明な意識はただ不透明なテクストを凝固させてゆくのである。語りうることを語ろうとして語りえないことを語ってしまうのだ。(*三浦「文学の罪と罰――金井美恵子『書くことのはじまりにむかって』蓮實重彦『夏目漱石論』」/『自分が死ぬということ』p.40)
ついで、三浦さんは蓮實重彦さんの『夏目漱石論』に表れている「模倣と反復」という概念について言及した上で、こう述べます。
「作家」とは「作品」に酷似しえた人間のみに捧げられる名称なのであり、「作品」をもっともよく模倣し反復しえた小説家が「作家」たりうるのである。(三浦「文学の罪と罰――金井美恵子『書くことのはじまりにむかって』蓮實重彦『夏目漱石論』」/『自分が死ぬということ』 p.p.40-41)
つまり、
作家が作品を生むのではない。作品が作家を生むのである。(三浦「文学の罪と罰――金井美恵子『書くことのはじまりにむかって』蓮實重彦『夏目漱石論』」/『自分が死ぬということ』 p.41)
と、断じています。
このような言及は枚挙に暇がありません。
したがって、以上のような背景を考えると、「「深さ」の神話の崩壊――小林秀雄から宮川淳へ」とは、人間には、文学や芸術作品、あるいは思想には「内面」、つまり「深さ」があるのだ、そこを見るべきだとした小林から、いや、そうではなく「内面」などない、だから「深さ」もない、われわれは「表面」をだけ見つめて、考え続けるべきなのだとした宮川さんへの移行を照射していると言えます。宮川さんは確かに美術評論家ではあるが、すぐれて批評の問題をこそ問うたのです。一体なんのことでしょうか。
「様々なる意匠」に始まる初期小林秀雄の最大の「敵」こそ「自意識の牙城」でした。その格闘こそ批評の批評たる所以であったのです。
ところが、小林はその戦いを戦い切ることなしに、次から次へと戦場を転々と変えていきました。モーツァルトだ、ドストエフスキーだ、近代絵画だ、ベルクソンだ、と。しかし、語られているのはいつも、小林自身でした。これが「近代批評」だと言わんばかりに。では批評とは一体何なのだ、ということになります。まさしく「現代批評の核心にあるものだ」。
小林が最後に向かったのは、言うまでもなく本居宣長である。まさに丁度この頃、12年という長きに渡って連載の後、単行本『本居宣長』(1977年・新潮社)として刊行された頃です。三浦さんはこう小林を批判します。
文字通りの大著『本居宣長』(新潮社)を書きあげた小林秀雄が、江藤淳との対談(「新潮」一九七七年十二月)のなかで次のように言っている。
「現代人は意識出来るものに頼りすぎている。意識は氷山の一角に過ぎないなんて生意気な事を言いながらね。私はいつもこれをおかしな事だと思っている。」
このことについては、おそらく誰も異論はあるまい。その通りである。のみならず、このような問題意識は現代批評の核心にあるものだ
とさえ言っていいだろう。そして、このような発言を支えるようにして、『本居宣長』は一種の解釈学のような趣きを呈しているのであり、 あたかも批評の主体を無に帰するかのように夥しい引用によって構成されているのであるから、まずまったく文句の言いようがないと言いたいところだが、しかしここで見落してならないのは、
自意識からその解体へと至る道すじが、小林秀雄においては単なる横すべり、あるいは脱落のようにしてしか存在しなかったということである。このことについてはすでに、吉本隆明が、筑摩版近代日本思想体系「小林秀雄集」解説において十全に説き尽している。
自意識の解体、小林秀雄においてそれは特殊日本的な悲喜劇でしかなかった。先の発言が、たとえば昨今の人間の終焉論などともきびすを接しているかのように見えながら、じつはどのような論理的展開をも孕えない、したがって、どのようにも継承のしようのない「悟達」の行き止りを示してしかいないのは、まさにその理由によると言うべきであろう。
(三浦「「深さ」の神話の崩壊――小林秀雄から宮川淳へ」/『自分が死ぬということ』p.p.3-4・傍線引用者)
恐らく、時代の空気というものもあったでしょう。ここで三浦さんは意識的には宮川を宣揚して、小林を批判しています。しかし、今の時点で見れば、むしろ、小林を批判することが目的で、そのために偶々宮川さんが引き出されてきた、という印象を受けてしまうのです。いや、小林批判というよりも、小林という巨大な謎が三浦さんの心に圧し掛かっていたのではないでしょうか。
同じことは吉田健一の場合でも言えます。
例えば、イギリス文学者・批評家の吉田健一の文体には「一人称の不在という問題が秘められている」*と論じた「人称の不在――吉田健一の文体」。ここでも小林秀雄が参照点として取り上げられているが、小林が「一人称」、すなわち「自意識」の問題からその批評を始めたにも関わらず、「この問題は徹底して追究されることなく雲散霧消した。戦後の小林秀雄が教祖的存在として奉られていったのと反比例するように、その批評から批評そのものが脱落していったのはそのためである。小林秀雄は先駆的存在にとどまったのだ。
」*そして、その乗り越えを果たしたのが晩年の吉田健一だったとするものです。
*三浦「人称の不在――吉田健一の文体」/『自分が死ぬということ』p.47・傍線引用者。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
後述するように三浦さんは、あるいは小林を否定しようとしていたかも知れません。しかし、否定しようとしても、否定することができなかった。
必ずしも小林のことを書こうと思っていなくても、何故か小林に戻ってきてしまうのです。
何故でしょうか?
これは第1章でも述べたことだが、三浦さんは批評の基準を巡って、「人間」という絶対的なものを見出したのだ、と述べたが、それは具体的にはどういうことなのでしょうか。
或る種の熱意、――言葉を選ばずに言えば、場合によってはそれは狂気と呼ばれるかもしれぬが、そのようなテクストから逸脱するものに何かを見る態度でのことです。
三浦さんは評論家・粟津則雄さんの芸術論集『ヨハネの微笑――近代芸術断想』(1980年・小沢書店)に言及し、こう述べています。
ワグナーにおいて台本がそうであるように、粟津則雄においても批評は最終的に二次的なものであるほかない、ということができる。ワグナーにおいて音楽であるものが、粟津則雄においては、おそらく、語りえないなにものか、である。それを感動といっても、生といっても、あるいは生の劇といってもよい。語りえないものを語ろうとすること、この逆説が栗津則雄の批評の核心にある。(三浦「語りえぬものの誘惑――粟津則雄の芸術批評」/『自分が死ぬということ』 p.101。傍線引用者)
フランスの美術史家ルネ・ユイグの『見えるものとの対話』(1962年~63年・美術出版社)にここで言及する必要があるでしょうか? 人は目に「見えるもの」に語りかけ、語りかけられることで、目には「見えないもの」、耳には「聞こえないもの」、その場には「存在しないもの」と対話するのです。それが芸術的創造であり、芸術的体験の意味でしょう。
つまり、目の前にある音楽の戦慄や、絵画の色彩、あるいは、文学のテキスト、こういった「見えるもの」には収まらない「語りえない何か」こそが人をして、感動させ得るものなのです。
無論、これは粟津さんに限りません。というよりも、三浦さん自身がどこに焦点を当てて論じているかを明らかにしているだけなのです。
三浦さん自身は、あるいは否定するかもしれぬが、本書の白眉は江藤淳の「偏執」にも似た戦後研究の問題を論じた「喪失の起源と起源の喪失――江藤淳『落ち葉の掃き寄せ』」と、まさにニューアカ・ブームの渦中にあった浅田彰を論じた「荒々しさの意味――浅田彰という現在」です。後者は後、第5章第1節第2項にて論ずることにして、ここでは江藤の問題を考えてみましょう。
「喪失の起源と起源の喪失」冒頭から引用します。
まず三浦さんはこう言っている。
江藤淳は現代日本におけるきわめてすぐれた思想家のひとりである。その思想の根底にほとんど異常といってよいほどの喪失感が認められるからである。江藤淳の思想の展開は、この喪失感をどのように意味づけるかという、ただその一点にのみかかわっていたといってよい。この偏執が江藤淳をすぐれた思想家たらしめたのである。(三浦「喪失の起源と起源の喪失」/『自分が死ぬということ』 p.173・傍線引用者)
つまり、「喪失感」があるから「すぐれた思想家」である訳ではなくて、その喪失感を埋めるために異常とも言うべき批評・研究活動を行った、それがすぐれているというのです。引用を続けます。
だが、結論めいたことを先に述べることになるが、この偏執がまた同時にその思想を限界づけてもいる。喪失感をあまりに性急に意味づけようとすることになったからである。性急は過剰を生む。そしてこの過剰な意味づけはいまや、すぐれた文芸批評家としての江藤淳を圧殺しかねないまでに膨れあがっている。
いうまでもなく、人間は、歴史的にあるいは文化的に何かが失われたから喪失感に苛まれるのではない。漠とした喪失感は人間に固有のもの――おそらくは生理的に固有のもの――なのであり、このような根源的な喪失感に晒されているからこそ人間は文化を生み歴史を記さざるを得なかったのである。江藤淳の偏執はこの逆説に盲目である。(三浦「喪失の起源と起源の喪失」/『自分が死ぬということ』 p.173・傍線引用者)
だがその喪失感を埋めるために行われていた、異常とも言うべき批評・研究活動こそが、近視眼的に、その喪失感の空隙に「国家」、「近代国家」、「日本」を設置することで、事の本質が、つまり人間の有り様が見えなくなった、というのです。
江藤の「戦後研究」は、江藤の代表作である一連の漱石論よりも場合によっては有名になってしまったかもしれません。それは著しくバランスを崩すぐらいに巨大な仕事になってしまっていました。
三浦さんがこの段階で取り上げている、江藤の戦後論の代表的な仕事は以下の4篇です。
①『もう一つの戦後史』1978年・講談社。
②『忘れたことと忘れさせられたこと』1979年・文藝春秋。
③『一九四六年憲法――その拘束』1980年・文藝春秋。
④『落葉の掃き寄せ』1981年・文藝春秋。
要するに、対米従属を是正し、自主憲法を制定し、すなわち、日本を近代的な主権国家へと再編成せよという主張になるかと思います。
ここで、わたしは江藤の国家論を云々する気はありません。それはまた別の問題です。
三浦さんも引いているが江藤は次のように述べています。
だが、いったい人は、他人が書いた物語のなかで、いつまで便々と生き続けられるものだろうか? むしろ人は、自分の物語を発見するために生きるのではないだろうか。(江藤『落葉の掃き寄せ』/三浦「喪失の起源と起源の喪失」/『自分が死ぬということ』 p.178より援引)
三浦さんは本書のいくつかの箇所で「物語」に吸収/回収されてしまう思考を批判しているように読める箇所があるが、ありきたりな言い方になってしますが、人はなんらかのstoryに沿って生き、その沖積がhistory/historiesになるのではないのでしょうか。人は物語/歴史によって生きざるを得ない動物なのではないでしょうか。
先に三浦さんは江藤の限界を指摘したが、もう一度ひっくり返せば、当然なことだが、それこそ江藤の際立っている点に他なりません。三浦さんは検討を重ねた上で次のように結語します。
おそらく、自己の喪失感に近代国家日本をもって補おうとした江藤淳の試みこそ、きわめて「私」的な行為であったといわなければならないだろう。だが、あえて付け加えるが、この逆説こそ江藤淳をすぐれた思想家たらしめもしたのである。肺腑に達することのない思想は思想の名に値しない。そして人は「私」を経ることなく肺腑に達することなどできないのである。
悲劇はただ、江藤淳がこの逆説になぜか頑なに気付こうとしないところにあるというべきなのだ。(三浦「喪失の起源と起源の喪失」/『自分が死ぬということ』 p.179・傍線引用者)
同じことが小林についても言える、と言えないでしょうか。いや、それは三浦さんにとっても同然のことなのです。
批評とは何でしょうか。批評とは自分の考えを無暗矢鱈に語ることではありません。誠心誠意、対象に対して無心に埋没することです。その最極端が、自分の考えは兎も角として、とにかく対象のこれこれを味わって欲しいと訴えることです。それでも、そこに何らかの形で評者自身の「私」が浮かんでくるのでしょう。それが文芸としての批評ということになるのだと思います。
後に詳細に触れることになるが、「資料」、――という言い方では伝わらないだろうが、書物、雑誌、あるいは同時代的な状況をよく見る、よく調べる、ということだが、三浦さんの小林秀雄への拘泥こだわりは、わたしにはいささか常軌を逸しているのではないかと思うところがありますが、その嚆矢は白川静論にありました。これらについては第5章第4節、及び第7章にて論ずることといたします。
🐤
20240813改稿
13,079字(33枚)




0 件のコメント:
コメントを投稿