『罪と罰』のための覚書
鳥の事務所
*本稿はガチの評論ではなくて、論証などを省いた、単なる読書感想文のためのメモです。で、尚且つ未完成です。筆者の忘却の防止のために一旦アップします。あくまでも一旦です。
【目次】
1 「青春性」
『罪と罰』
そんなこともあり、江川卓の『謎とき『罪と罰』』
亀山のものは途中まではいささか作品の本丸そのものよりも余りにも遠い外堀を埋めているよう気がして、あまり集中できなかったが、ラスコーリニコフの犯行が偶然に左右されているとの下りを読んで、我が意を得たりと膝を打った。これはとても重要な点だ。
ただ、ラスコーリニコフの、或る意味では「青春性」*[1]とでも言うのか、犯行も、恋愛(ソーニャとの関係が恋愛だとして。とても恋愛だと言えぬとは思うが)も、いずれもはたと気付いた時にはやってしまっていた、という、そういう感覚、そういうスピード感のようなもの、つまり周囲の人はもとより、本人にも、その言動の理由が分からない、自分が自分であることの根拠が分からない、という点こそが『罪と罰』の魅力であって、今なお若い読者に恵まれているのもその辺りに理由があるような気がする。
そこで、想起したのが、文脈を逸脱することになるが、テレ‐ヴィジョン放送用の連続アニメイション作品『呪術廻戦』の2クール目のオウプニング・テーマソング、Who-ya Extendedによる「VIVID VICE」
歪な終焉に向かって 溢れる
命の表面張力が 張り詰めた 張り裂けた
(中略)
千切れそうな綱の上 ただ揺らさぬように潜めるか
一か八か 駆け抜けるか 選択肢なんて 罠に見える
踏み出せ その歩を
もう戻らない
金輪際 後悔はしない 現実を変えてみせる
真実がたとえ残酷でも
(以下略)
(Who-ya
Extendedによる「VIVID VICE」
まー、そういう聞き方もこちら側の全くの思い込みのせいなのだが。
恐らく、初期の『罪と罰』受容というのも(全く読んでないから分からないが)、こうした青春(死語ですが)という、訳の分からない現象に竿を刺したものではなかったのか、とも思った。
「われらが同時代人ドストエフスキー」とはよく言われることのようだが、むしろ「わが友ラスコーリニコフ」とか、あるいは「ラスコーリニコフはわたしだ」と思い込む読者が今でも少なからずいるはずだ、と思える。
ちなみにWho-ya Extendedの「VIVID VICE」のアコースティック・ギターヴァージョンがあって、こちらの方も、とても心に沁みる。沁み渡る(´;ω;`)ウゥゥ。
2 理由の不在
ところで亀山郁夫の『『罪と罰』ノート』を読んでいて、という話の続きだが、さっきも書いたが、『罪と罰』には理由がよく分からない主人公たちの言動が複数存在する。その最たるものは、ラスコーリニコフによる、老婆とその義妹の殺害の理由である。無論文章として明示、あるいは暗示されていることはあるが、要はラスコーリニコフ自身が、まさに「悪魔に囁かれた」というぐらいに、自分の意志に反して、偶然の連鎖に左右されて殺害の現場へと導かれることになる。従って、究極のところ、何故、自分が殺人を犯したのか本人もよく分からないのだ。
同じようなことで言えば、何故、ラスコーリニコフはソーニャに心魅かれるのか本人にも分からない。それはソーニャにしてもそうだと思う。何故、ラスコーリニコフがソーニャに一緒に行こうと言ったのか、またソーニャも、それを言われるまでもなく、シベリヤまで、あるいは一生ラスコーリニコフに付いていこうと心に決めているのか、正確には分らないはずだ。ありふれた言い方ではあるが、まさに「神の思し召し」とでも答えるのかもしれない。実際本人に同じ質問をしても、「そうにゃ」と答えるに違いないのだ。
さて、そうすると、人間は運命や宿命といったものに、無論そんなものがあるとして、という前提だが、従うしかないのだろうか。これについては一旦保留としておくが、要は、神も仏も運命も宿命も本来は存在しないが、人間は自らの意志で100%行動しているように思いこんでいるが、実はそんなことはなく、ほとんどの行動は外部との何らかの関連で玉突き的に発生しているのだと思う。そして「事後的」に悔やむのである。つまり、人間は永遠の過去に生きる存在だと言ってよい。
3 「罪」と「罰」とは何か?
話を戻して、さて、そうすると、自らの意志をもって殺人を犯していないとするなら、ラスコーリニコフにとっての罪と、そしてそれに対する罰とは何なのだろうか*[2]?
この問題についても様々検討の余地はあるのだが、途中を端折って個人的な結論だけ述べておく。
『聖書』の有名な一節に「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイによる福音書5-28)というのがあるが、率直に言って、「情欲をいだ」かずに「女を見る」このない男などいるのだろうか。余程の条件と事情がない限り、不可能ではないか*[3]。したがってほとんどの男性は「姦淫を犯し」ているが故に、天国に行くこと、すなわキリスト教神学的には救済されないのだ。となれば、そもそも「生きること」=「姦淫」=「罪を犯すこと」、ということになる。すなわち、生きること自体が既にして「罪」なのだ。それでいてなおかつ生きることを満喫などできるわけがない。したがって、それが「罰」なのだ。
この世に生を受けて生き続けなければならないという、我々の存在そのものが「罪と罰」なのだ。
先日、救急車を蹴って(?)書類送検された(?)という作詞家・作曲家・歌手の鬼束ちひろの出世作に「月光」
I am GOD'S CHILD [私は神の子供]
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
(こんな場所でどうやって生きろと言うの?)
こんなもののために生まれたんじゃない
(鬼束ちひろ「月光」
この感覚こそが、まさにわたしが感じるこの世における「罪」であり「罰」なのだ。それはラスコーリニコフはもとより、他の我々も同然なのではあるが、我々はそのことに気づいていない、あるいは気づけない。たまたま犯罪を犯す状況に立ち入ったり、何らかの事情で生死の境に遭遇した時に、この事態は開顕する。
この事態を免れる術はあるのだろうか?
漱石『行人』の一郎が述懐したように「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」(夏目漱石『行人』
死んでしまえば元も子もない。発狂してなお自分自身であることは難しい。とすればこの生きること=罪という制約を解決するには宗教、信仰しかないのであろうか。これはまた安易な結論ではないか。
『聖書』の「ロマ書」つまり「ローマ人への手紙」の一節に次がある。
疑ひつつ食ふ者は罪せらる。これ信仰によらぬ故なり、凡て信仰によらぬ事は罪なり。(「ローマ人への手紙」14)
圧縮すれば、小林秀雄が「「罪と罰」についてⅡ」
しかしながら、この結論を果たしてドストエフスキーの作品群が示しているであろうか?
わたしが考える答えはNo.である。というよりも、それもある、しかしそれだけではない、というべきか。
つまり、そのような「罪と罰」を背負って生きざるを得ないという状況下で我々は生き抜くことは可能なのだろうか、あるいは、果たして生きる意味があるのだろうか。
ドストエフスキーの作品を読んでいて、これについて幾つか考えられることがある。
4 「倫理的な判断と行動」
1つは「倫理的な判断」あるいは「倫理的な行動」で[o1] ある。平たく言えば、困っている人がいれば、助けようとする気持ちが湧くだろうし、実際そうする人がいるだろう。これは、ラスコーリニコフが悪辣な殺人を犯しておきながら、例えばマルメラードフ家を助けようとすることなどに表れている*[4]。あるいはラズミーヒンやラスコーリニコフの母親や妹がラスコーリニコフを思い、尽力するのもその表れであるし、また、ソーニャが家族の為に自らの肉体を売るのもそれに当たる*[5]。
5 「悪」
2つ目は、今述べたことと相反するが「反倫理的な行動」つまり、「悪」への道に他ならない。ドストエフスキーの作品群には、大変「魅力的な」悪役が登場するが、その二大巨頭は『罪と罰』のスヴィドリガイロフであり、もう一人は、言うまでもなく『悪霊』
敢えて言えば、悪は生を、生きることを活性化させる働きがあるのだと思える。プラトンの対話篇『国家』
では、どっちなんだ、この世界を救うのは善なのか、それとも悪なのか。
6 善も悪も同じものの両側面
別稿でも書いたが、善も悪も結局のところはある事態を別の視点から見たに過ぎない。つまり根源的な意味での善とか悪というものは存在しない。単なる見方なのだ。戦争が一番分かり易い。人を殺すのは悪だろうか? 悪ですよね。しかし、あなたが戦争という状況で、仮に敵対する軍の人間を殺したら、それは善、正義となる。逆にそれをしないのは利敵行為となり、悪と見なされるであろう。しかし戦争が終われば、ころっと状況が正反対に変わってしまう。
しかしながら、わたしはここで、単に倫理的な判断の無根拠性を述べている訳ではない。矛盾する言い方にはなるが、人為的な善悪の基準を超えた「絶対善」、という言い方があまり良くないのだが、「宇宙の背後の絶対的な存在」のようなものは存在する、というよりも想定されうると思う。
今、手元に本がないので、孫引きの孫引きになってしまうが、ゲーテの『ファウスト』
「……それで結局、いったい、おまえは何者なのだ?」
「私は永遠に悪を欲し、永遠に善をなすあの力の一部なのです。」(ゲーテ『ファウスト』
ここの下りはロシアの作家M・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』
7 悪魔=ドゥーフ=霊
では、「あの力」とは一体何なのだろうか。ここでは、ゲーテの思想的背景は一旦捨象する。わたしの文脈で捉えるとこう読めるという話である。
これも別稿で申し述べたことだが、再度繰り返す。
江川卓が『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』
さて、それで、同書において、特に瞠目させられたのが、「大審問官」の章の下り、通来イエスを誘惑する「ドゥーフ」は「悪魔」と訳されてきたが、これは「霊」であるとしたことである。これは文字通り「卓」見である。言うまでもなく、イワンの叙事詩「大審問官」は「マタイ福音書」の一節が原典になっている。即ち
そこでイエスは荒野へと霊に導かれた。悪魔に試みられるためであった。(「新約聖書」前田護郎訳/『世界の名著12・聖書』1968年・中央公論社・304頁。傍線評者)。
ここの箇所はイワンの叙事詩では次のように変換されていた。
『聡明な恐ろしい悪魔が・自滅と虚無の悪魔が』(……)『偉大な悪魔が、かつて荒野でお前と問答を交わしたことがあったな。』(『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳/『ドストエフスキー全集』第15巻・1978年・新潮社・303頁。傍線評者。)
つまり、江川説によれば、この《悪魔》と訳された《ドゥーフ》という言葉は、そもそもイエスを荒野に導いた《霊》と同じ言葉なのだと言う。これは一体どういうことか。大体イエスを導いた《霊》はどこにいってしまったのか。これを江川は次のように解釈する。
あくまでも一つの臆測としてだが、マタイ四でいずこともなく姿を消してしまった「御霊」が実は「悪魔」に姿を変えていたのではないか、と考えられることがある。つまり、「悪魔」は「御霊」の変身であり、ある意味で神性をそなえているのである。(……)もともと「御霊」とは、「父なる神」、「子なる神」とともに、三位一体の神をなすものであり、万物に生命を与え、とくに人間に霊的生命を与えるものとされている。人間の精神活動はすべて「御霊」の働きによる、とも言われている。となれば、人間のよからぬ心の動きも、また「御霊」の働きの一つということにならないだろうか。》(
恐らくこの〈霊〉なる言葉は〈生命〉という言葉で言い換えることができるだろう。まさに、イエスは荒野において聡明な恐ろしい〈生命〉、自滅と虚無の〈生命〉、そして偉大な〈生命〉と対話したのであった。〈生命〉とは自分のことであり、また、その自分を取り巻く全存在のことにほかならない。
ドストエフスキーが聖書中の「悪魔」を何ゆえに「霊」と読み換えたのか、また、何故にそれが可能だったのかは分からない。恐らくドストエフスキー独自の直感で、聖書の行間に潜む生命のドラマを読み切ったのであろうが、なんとも恐るべき読解力である。
8 生命それ自身あるいは根拠関係
しかしながら、それでは〈生命〉とは一体何なのだろうか。いまここでそれを説明し尽くすことは私には能力的に不可能であるし、また、そのような場でもない。ただ、昨年惜しくも亡くなった精神病理学者・木村敏の代表的な入門書に『心の病理を考える』
精神病理学者・木村敏は『心の病理を考える』第Ⅱ章「精神病理学の歩み」において、フロイト、ヤスパースから始まったそれは二つの系統、すなわち《主観重視の立場》と《客観重視の立場》を合わせ持つという(
《この「生命それ自身」、生物を生物たらしめている根拠(グルント)としての「生命」は、絶対に客観的な対象とならないが、生命体はいついかなるときもこの根拠との関わりを保つことによってしか生きることはできない。この生命の根拠との関係のことをヴァイツゼッカーは「根拠関係」グルントフエアヘルトニスと呼び、この根拠関係こそ主体を主体たらしめている「主体性」ズプイエクテイヴイテートなのだと言う。》(
9 存在の根拠あるいは生命の運動
わたしはこの箇所を読んだ時、これまた脈略を全く無視することになるであろうが、新約聖書学者・荒井献の所説を想起した。その著『イエスとその時代』
さて、それによれば、『聖書』の中でイエスの神についての発言で信頼できるものは次の2箇所しかないという。
天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ(正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らしてくださ)る。(「マタイによる福音書」5・45。( )の中はマタイの加筆)
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思い患うな。……空の鳥を見るがよい。蒔くことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのにあなたがたの天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかに優れた者ではないのか。……また、なぜ着物のことを思い患うのか。野の花がどう育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。……今日生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上してくださらないはずがあろうか。……だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って思い患うな。……明日のことを思い患うな。明日のことは、明日自身が思い患うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(「マタイによる福音書」6・25-34。
ことさらに引用、提示されてみると、何の気もなしに読み飛ばしていた箇所が生き生きと蘇るのに驚く。これがもし〈神〉だとすれば、いわゆる一神教的な絶対者の風貌とは相当異なっている。むしろ〈自然〉に近いというべきなのか、あるいは仏教的だといえば叱責を被るであろうか。荒井献は次のように注解する。
ここでイエスはまず神を、「善人」「悪人」のごとき人間の倫理的価値判断に基づく格づけを止揚する、いわば「相対化の視座」として捉えている。この視座を失うとき、人間は自己を神として立てるであろう。しかし、もしそれが、相対化の視座にとどまるならば、人間を底なしのニヒリズムに沈みこませるであろう。それは、人間のすべてを相対化するとともに、人間を、現実の苛酷さのただ中にある人間を、根元的に支える「存在の根拠」なのである。それは、「空の鳥」「野の花」のごとく、否、それにもまして、人間の一人一人を育てはぐくむ。(
荒井自身の考えを大きく踏み外すことになろうが、やはり、この《存在の根拠》をも私は〈生命〉と呼びたい誘惑に駆られる。 我々は日常的な生活を普通に送る限り、取り立てて自分が〈生きている〉のだということを意識しない。しかし、ときにその日常の被膜が破れて、この〈生命〉がわずかながらでも露出する瞬間がある。恋愛をしている時、死と直面した時、なんでもいい、人は確かに、人生の中で、目から鱗が落ちるとしかいいようがない瞬間や、何物かに駆り立てられる(ドライヴされる)時を経験する。それは要するに〈生命の運動〉が生起している時ではないか。宗教や芸術、音楽でも、文学でも、そしてダンスでも、あるいはそれに類するものは、意識的にしろ無意識的にしろ、この〈生命の運動〉を起こそうとするものである。この〈生命〉が〈運動〉を起こす時に、レヴェルの高低は無論あるにせよ、我々は〈生命そのもの〉の素顔をかいま見る、人はその〈生命の運動〉を「神」と言ったり、「仏」と呼んだのではないか。私にはそう思える*[9]。
さて、本筋に戻ろう。生きることそのものが罪であり、罰であるとすると、一体どうすればよいのか、という問題であった。
8 夢、あるいは異世界との接触
3つ目として挙げられるのが、夢である。言い方を変えれば異世界との接触である。それを通じて我々は生命力を取り戻す、言い方を変えれば生きることのリアリティを感じることができるのではなかろうか。
9 比喩的世界、あるいは笑い
4つ目が言い方が正しいのかいささか迷うが「比喩」あるいは「比喩的表現」、あるいはそれに伴う「笑い」の要素、あるいはそれとは関わることのない「笑い」の要素である。
【参照文献等】
ExtendedWho-ya. (2021). VIVID VICE. SME Records, 東京.
ヴァイツゼッカーフォンヴィクトーア. (?). 『ゲシュタルトクライス―知覚と運動の一元論』 (第 1975 版). (木村敏, 浜中淑彦, 訳)
ゲーテ. (1806-1831). 『ファウスト』. ドイツ.
ドストエフスキーミハイロヴィチフョードル. (1866). 『罪と罰』. (亀山郁夫, 訳) サンクトペテルブルグ, ロシア.
ドストエフスキーミハイロヴィチフョードル. (1872). 『悪霊』. (亀山郁夫, 訳) サンクトペテルブルグ, ロシア.
ドストエフスキーモハイロヴィチフョードル. (1979-1980). 『カラマーゾフの兄弟』. (原卓也, 訳)
プラトン. (紀元前5世紀~4世紀). 『国家』. (藤澤令夫, 訳) アテナイ, ギリシア.
ブルガーゴフミハイル. (1929-1940). 『巨匠とマルガリータ』. (水野忠夫, 訳)
加藤典洋. (2016). 『世界をわからないものに育てること――文学・思想論集』. 東京: 岩波書店.
夏目漱石. (1914). 『行人』. 東京: 大倉書店.
芥見下々. (2018-). 『呪術廻戦』. 東京: ジャンプ・コミックス(集英社).
鬼束ちひろ. (2000). 「月光」. 東芝EMI・Virgin
TOKYO, 東京.
亀山郁夫. (2009). 『『罪と罰』ノート』. 東京: 平凡社新書.
江川卓. (1986). 『謎とき『罪と罰』』. 東京: 新潮選書.
江川卓. (1991). 『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』. 東京: 新潮選書(新潮社).
荒井献. (1974). 『イエスとその時代』. 東京: 岩波新書(岩波書店).
小林秀雄. (1948). 「『罪と罰』についてⅡ」. 大阪: 「創元」第二輯.
前田護郎編. (1969). 『世界の名著12・聖書』. 東京: 中央公論社.
朴(パク)性厚(ソンフ). (2020). 『呪術廻戦』. 東京.
木村敏. (1994). 『心の病理を考える』. 東京: 岩波新書(岩波書店).
7943字(20枚)
《未完》
🐤
20220113 1453
*[1] 「青春性」の定義をせねばならぬが、一旦注意を促しておくとすると、これは必ずしも当人の年齢に左右されるものではない。それはイキイキと生きていれば年をとっても青春だ、とかそういう意味ではなくて、言うなれば、生きている本体を時間が性急に追い越していく、そして事後的に悔やむという存在の在り方を指している訳だから、生きるということの坩堝に入る、或るいは巻き込まれた人は、そういう青春性を経験することになる。したがって、人間の原理的なあり方だと思うが、若い時には、しばしば多くの人がたまたまそういう事態に陥る、ということではないか。具体的には別の箇所、あるいは別稿にて触れることとする。
*[7] ヴァイツゼッカー言うところの〈主体性〉とは極めて独特の概念である。彼の考えによれば、有機体の感覚・知覚(つまり、受入系)と運動・行動(つまり送出系)とは通来の生理学で区別されていたような二つの独立した系ではなく、《たがいにからみ合って単一の機能(……)を形成している》ものだという。この機能をヴァイツゼッカーは〈ゲシュタルトクライス〉と呼び、それによって《有機体は、そのつど変化する環境とのあいだに、彼が「コヘレンツ」(相即)と呼ぶ機能を保持している。》そしてこの有機体と環境との関係は《外界の変化にも有機体内部の変化にも絶えず即応していて、それまでの関係が解体されたときにはすでにそのつど新たな関係が生成しているという仕方で維持されている。》《この絶えず生成と解体を繰り返す相即関係の原理、有機体と環境のあいだにあって両者の出会いを維持している原理のことを、ヴァイツゼッカーは有機体の「主体」(ズプイエクト)と呼ぶ》のだ。したがって《主体とか主観といわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない。個体が個体として存続するために当の個体の主体はつねに個体の「外部」で、個体を取り巻く「非自己」的な環境との「あいだ」に成立していなくてはならない》。《このような主体/主観概念を導入することによって、ヴァイツゼッカーは従来の医学が精神と身体を分けて考えていた心身二元論を激しく批判する。(……)医学は──身体医学も精神医学も──すべて人間が「生きている」ということに関わらねばならぬ。(……)これがヴァイツゼッカーの主張であった。》(
0 件のコメント:
コメントを投稿