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ハイデガーは文芸評論家?
三浦雅士「木田元はなぜ面白いのか」
■文庫解説・短篇評論(哲学・現代思想・文学)。
■2017年9月12日読了。
■採点 ★★★★☆
本論稿は哲学者・木田元の連載評論『ハイデガー拾い読み』の文庫化に際して、巻末に付された解説である。
しかしながら、一読するや、人々は驚倒するだろう。単に文庫本の解説の閾を越えて、つまりは木田元の『ハイデガー拾い読み』の解説でもなければ、木田元論でもハイデガー論でもない、より広く木田元やハイデガーの置かれている、あるいは20世紀の思想的状況を論ずる、一篇の作品としての文芸評論になっているのだ。
冒頭は何と、サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」*から始まる。これだけでも哲学書の解説としては相当型破りだが、サリンジャーから始まり、当然のことながら村上春樹に言及され、リルケへと至り、解説が始まり6ぺージになって、やっとハイデガーが登場するというものだ。これは一体何を意味しているのか。
*J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』1953年/野崎孝訳・1974年・新潮文庫。
すなわちこのような20世紀の精神史を通して、哲学と文学の相関関係性、相似性、ひいてはその同根性を論じ、究極のところでハイデガー以降の哲学は文芸批評なのだと断定する。
なぜ哲学と文学は同根なのか。
デカルトの「我思うゆえに我あり」の「思う」というのは「感じる」という要素と「考える」という要素を含むとした上で、ということはすなわち、カントの「超越論的観念論」とは、「文学と哲学という視点から見れば、超越論的というのは実際には言語論的ということである。言語こそ超越論的なもの、人間を超越論的な存在にするものなのだ。」*とした上で、「ハイデガー自身がまず何よりも文芸批評家だったのではないか」**と言うのである。つまり、ここで言われているのは、ひたすら科学的であろうとしてきたヨーロッパの諸学は文学だったのだ、ということである。なぜか、それは言語を介しての解釈を根幹に持つからである。
*本書・269頁。
**本書・270頁。
驚きの結論である*。そしてなんと驚異に満ちた文庫解説であろうか。
*しかしながら、この考えは今にいたって突然思い付きのように書き付けられたものではない。詳細は三浦雅士編『この本がいい――対談による「知」のブックガイド』1993年・講談社、及び、それを論じた、別稿「知の地中海の方へ――三浦雅士試論Ⅰ」(『鳥』vol.1-2・1993年5月1日。ただし本ブログにはまだアップロードされていない)参照。
思えば三浦さんは、自身が主宰する詩誌『ユリイカ』、思想誌『現代思想』(いずれも青土社)の編集後記で、一篇の散文詩を思わせるような、編集後記にあらざる編集後記を書いていた*。 全くもって宜なるかな、である。
*これは後に単行本としてまとめられた(三浦雅士『夢の明るい鏡――三浦雅士 編集後記集1970.7~1981.12』1984年6月30日・冬樹社)。編集後記だけで一冊の本が作られるなんて通常ではあり得ないことだ。
※本稿は木田元『ハイデガー拾い読み』書評の一部を改稿したものです。
20170912 19:47ー21:13
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