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2020年5月1日金曜日

それにも関わらず、淡々と過ぎていく我々の日常 川上弘美『神様2011』


それにも関わらず、淡々と過ぎていく我々の日常


川上弘美『神様2011』

【追加版】







■川上弘美『神様2011』2011年9月20日・講談社。

■短篇小説。

■2020年4月22日読了。

■採点 ★★☆☆☆。



 現在のわたしの力だとこの作品群、すなわち、デビュー作「神様」と2011年福島原子力発電所事故を受けてリライトされた「神様2011」であるが、これらを論評することはできない。

 そもそも両者の共通の骨格を成している、作者を思わせる女性(?    とはどこにも書いていない)が熊と川べりまでピクニックに行くというだけの話で、どこにも「神様」など出てこないではないか、と思わせられるが、最後に熊が「熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように」というだけなのだ。これはこれで十分な分析が必要なのかもしれぬが(あるいは

必要ないのかもしれぬが)、少なくともわたしには手に余る。

 さて2011年の事故を受けても彼らは同じように行動する。

 唯一の違いは、それにもかかわらず、彼らは、放射線の被曝量を気にして、行動しているのだ。つまりは、原子発電所の事故があっても、われわれの日常は淡々と過ごしていくしかないのか。

 言うなれば、原爆あるいは戦争といった災厄を人災ではなく天災としてとらえてしまう日本人の心性を問うべきなのか、広く原爆文学の流れでこの作品の意味を問うべきなのか、一旦留保しておきたい。
🐤

2020/05/01 22:53

追加

 つまり、あくまでも現段階での個人的な感想に過ぎないが、こうは書いてはいけないのではないか、ということである。
 加藤典洋がカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(2005年/2006年・早川書房)を論究して、その中で主人公たちを蹂躙する「クローン技術」を原水爆の比喩と捉え、この小説を「原爆小説」として読み直す/読み換えることを提唱している*。そんなことは原文にはどこにも書いていない。しかしながら、言われてみれば、そう読むしかない衝迫力をもって、この指摘は読者の心に突き刺さる。

*加藤典洋「へールシャム・モナムール――カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を暗がりで読む」/『世界をわからないものに育てること』2016年・岩波書店。

 文学とはそういうものではないか。文学とはAをAと書いたら、文学の根っ子が死んでしまうのではないか。



🐤

2020/05/02  10:33







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