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2020年5月2日土曜日

「最後の文芸評論家」の喪失――「江藤淳の〝弱さ〟」


「最後の文芸評論家」の喪失

「相馬悠々「江藤淳の〝弱さ〟」





■相馬悠々「鳥の眼・虫の眼」第百七十三回「江藤淳の〝弱さ〟」/『文學界』2019年7月号・文藝春秋。

■連載文藝時評。

■2020年4月26日読了。

■採点 ★★★★☆。



 棋界では、つまり編集者の間では、周知の事実なのかもしれぬが、少なくともわたしには相馬悠々なる人物が何者なのかは知らない。筆名*からすると文藝春秋社の重役かそのOBの輪番で書かれているのか(つまり「悠々自適」ということか)、あるいは著名な批評家の覆面寄稿なのか、それすらも不明ではあるが、相馬に寄せられた、ネット上のいくつかの論評を見る限り、随分と評判が悪いようだ。


*1900年代前半にファシズム批判の論陣を張ったジャーナリスト「桐生悠々」のパクリかとも思われるが。

 本来であれば、彼の別の文章を見たうえで何らかの評価すべきであるが、残念ながら、過去の『文學界』を閲覧する余裕が、いま、わたしにはない。

 その点をお断りしたうえで、相馬の「江藤淳」評を読む限り、まずもって、よくよく江藤のことを理解していると云える。さらには、文体も簡潔にして要を得て、盛り上げるべきところは盛り上げている。

江藤 淳

 


すなわち、総じて言えば、まさに「文学的」あるいは「文藝的」と言っても過言ではない。背景としている知識も含めて、大変な実力者だと見た。

 20年も前に自裁を遂げた批評家の姿を、件の「遺書」の全文引用に始まり間断なく紹介したうえで、保守派の論客として名を馳せたその背後に、文学者の、あるいは人間としての「弱さ」を看て取る。相馬が何を以て「弱さ」としているのかは紙数の関係で、必ずしも明瞭ではない。だが、長年江藤に連れ添ってきた読者には言わずもがなのことである。

 そう、確かに、江藤の文学は、江藤の文体は、江藤の思想は、彼の「弱さ」からきているのだ。

 江藤に惹きつけられた読者は、きっと政治や社会のことを論ずる江藤の背後に、そのような「弱い」「私」を見ていたのだ。相馬が指摘しているように、まさに一連の「~と私」*こそがそれを明示しているのだ。


*「戦後と私」・「文学と私」・「場所と私」/江藤淳『戦後と私・神話の克服』2019年・中公文庫。『アメリカと私』1965年/2007年・講談社文芸文庫。

 その意味では憲法問題を論じても、時の首相を論じてもそれは、まさにそれらは「文芸批評」に他ならなかったのだ。

 昨年、歿後20年を記念して、神奈川近代文学館にて江藤の回顧展が開催された。そこで驚いたのが、相馬も書いているように江藤の、浄書されたものと見まがうばかりの、ほとんど手入れの入っていない原稿の美しさだ。さらに驚くべきは10代の頃書かれたものと晩年に至るまで、その様子は一貫して変わることがなかった、ということである。

 江藤は幼少のころ、病床に伏せる母親から、文字の書かれた積み木で一文字一文字ひらがなを習得したことを書いている。そして母の亡き後は、悲しみを埋めてしまうために、その積み木を積み重ねて、あたかも一個の城を作り上げるように彼は読書を始めていったことも*。

    *江藤淳「読書について」/『夜の紅茶』1972年・北洋社。

 わたしには「手入れの入っていない原稿」は鉄壁の構えで城を築き上げ、自らを防禦せざるを得なかった江藤の精神のある種の弱さの姿を思い浮かばざるを得ない。

 相馬は江藤の一連の「文藝時評」に言及して「これほどまでに体重がのった文芸時評を、江藤亡き後、見ることはきわめてまれになった」と述べているが、むべなるかな。

 そうだ、いつの間にか、我々は「最後の文芸評論家」*を喪っていたのである。


*さらには、江藤の「衣鉢を継ぐ」と思われていた※加藤典洋を亡くした我々は、もう言葉も出ない。


※と言っていたのは社会学者の上野千鶴子(「戦後批評正嫡 江藤淳」2019年6月1日・神奈川近代文学館における講演)とわたしぐらいかと思っていたら、なんと『三田文学』の2020年冬季号(2020年2月・慶應義塾大学出版会)が内容はともあれ特集「江藤淳・加藤典洋――日本近代の行方」というのを組んでいた。ま、「特集」というほどの視点も固まりもなさそうではあるが。

🐧

2020/5/2 13:46:57

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