ある和解の形
村上春樹『猫を棄てる――父親について語るとき』
■村上春樹 絵・高妍『猫を棄てる――父親について語るとき』2020年4月25日・文藝春秋。
■1320円(税込み)。
■初出 原題「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」/『文藝春秋』2019年6月号。
■短篇自伝的エッセイ。
■2020年4月26日読了。
■採点 ★★☆☆☆。
今回は小説家の村上春樹が昨年発表して、大変話題になった自伝的エッセイ「猫を棄てる」を取り上げる。
村上春樹は毎年のようにノーベル文学賞を取るのでは騒がれて、もう10年ぐらいになる大変有名な小説家だ。ある意味では大変人騒がせな方だが、それは無論、本人の責任ではない。
さて、なぜ、話題になったかというと、今まであまり語られることのなかった、自らの少年時代と合わせて、亡くなった父親のことについて語られていたからだ。
そもそも、村上春樹についてある程度知っている読者は、村上が父親をはじめとして家族とほぼ絶縁状態になっているということも周知の事実で、その意味でも大変驚かれたのだ。
で、その発表された『文藝春秋』が出たときは「まー、いいや」と思って、買わなかったのだが、事情*があって読む必要が出てきてしまい、図書館で聞いたら、あなたは予約の10何番目です、と言われて尻尾を巻いて退散した。
*『騎士団長殺し』論を書くため。
その後、やはり、どうしても入手する必要*が出てきて、ネットで調べて、なんと神奈川県の鶴ヶ峰のブックオフにあることを突き止め、土砂降りの雷雨のなか、買いに行ったもののブックオフはシステム上、ネット販売と店頭販売は違うから販売できないと言われて、あえなく退散したことを覚えている**。
*上に同じ。
**とても美味いスープカレー屋さんを発見できたことが唯一の収穫だった。
そんなこんなで紆余曲折あったが、今回単行本として刊行されたことで、やっとのことで読むことができた*。
*実際には単行本発刊の少し前に、近くのブックオフで掲載誌を手に入れていたのだが。その時は興味を失っていた。
「人に歴史あり」とは言うが、まさに「本に歴史あり」である。
というわけで本題に入るが、率直に言って純粋に読んで面白いかというと、あるいはちょっと微妙かもしれない。
主な内容は、サブタイトル「父親について語るとき」*の通り、村上の父親の半生を息子の立場から虚心に語るというものだ。
*雑誌発表時のサブタイトルは「父親について語るときに僕の語ること」で、無論これは村上が全作を翻訳刊行したレイモンド・カーヴァーの短篇集『愛について語るときに我々の語ること』(1981年/1990年・中央公論社)から来ている。また、これとは別に村上のランニング論、というかマラソン記である『走ることについて語るときに僕の語ること』(2007年・文藝春秋)がある。これとの被りを避けるために、今回後半を切ったのだと思われる。
これは村上がエルサレム賞*という国際文化賞を受賞した時にも言及した、父親が毎朝、欠かすことなく小さな仏像に向かってお経を唱えている姿が起点となる。
*村上春樹「壁と卵」2009年/『村上春樹 雑文集』2011年・新潮社。
なぜ、父親はそんなことをしていたのか? 彼は都合3回兵役に応じていたものの九死に一生を得て、その後の人生を営むことになる。実際、軍務に就いていた時に目にした、旧日本軍の中国での残酷な行いについても村上少年に語っているし、彼が本来所属するはずだった師団は、その後フィリピンにおいて全滅していることも後年、彼の心を苦しめたことだろう。さらにはそのことが、後に世界的な小説家となる村上春樹少年の心にも大きな影を落としたことは言うまでもない。
村上作品の当初から戦争の問題、中国の問題が深く影を落としていることは少なからぬ論者が指摘している*ことだ。
*加藤典洋の一連の著作。小山鉄郎の「村上春樹を読む」/共同通信配信中。など。
いずれにしても、歴史の大きな波に左右されるちっぽけな存在でしかない我々の、ある意味、偶然の持つ意味についての感慨を呼び起こす。
さて、題名の「猫を棄てる」だが、これはいったい何を意味しているのか。
実はこのエッセイには村上少年が子供の頃飼っていたとされる二匹の猫の話が書かれている。
一匹は、この文章の最後に紹介されているが、木に登ったまま降りてこず、そのまま行方不明になってしまった子猫のことだ。このエピソードは他の小説にも登場する*ので、作者自身、相当な思い入れがあるのだと思われる。
*村上春樹『スプートニクの恋人』1999年・講談社。
なぜ、その子猫が行方不明になってしまったのか、無論、今となっては、それはわかりようがない。村上はこの出来事の教訓として「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」(本書p.94)と述べている。村上本人にはその自覚はないのかもしれないが、この子猫は、あるいは村上本人のことかもしれない。木の上に登って降りられなくなった子猫を助けようと、父親を呼ぶが、「しかし、父にも手のうちようがなかった」(本書p.93)とあるように、父親から離脱し、やがては絶縁状態になる村上少年の姿を予告するものこそ、この姿を消してしまった子猫なのではないか。
さて、もう一匹の猫は、題名の「猫を棄てる」とは逆に、いわば「木の上から降りてくる」のである。
これも理由が分からないとされているが、村上少年は父親に促されて飼い猫を捨てに行った、というのが題名の意味なのだ。ここからはいささかネタバレになってしまうが、捨てたはずの、その猫が、どういうわけか、村上父子の帰宅よりも早く戻って来ていた、というのである。
結局、その猫をまた捨てに行ったわけではなく、再び飼うことになったという。
「そのときの父の呆然とした顔をまだよく覚えている。でもその呆然とした顔は、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になった。そして結局それからもその猫を飼い続けることになった。そこまでしてうちに帰ってきたんだから、まあ飼わざるを得ないだろう、という諦めの心境で。」(本書p.13-p.14)
おそらくこの猫は村上本人でも父親でもいいのだが*、数分間でも行方不明になった猫が帰還するわけだから、ここに、先程述べた離脱状態からの、ある種の和解の形が現れていると思われる。
*実は村上の父親は子供の頃、他家に養子にやられ、何らかの理由で本家に戻ってきたといういわくがあった。
村上は大学に入るときに上京して、彼が学生結婚や、ジャズ喫茶の開店や、最終的には職業的な小説家になるに及んで、家族と仲違いするのだが、長期にわたって小説を書くことを通して、これらの経験を咀嚼して、ついに父親と和解することなったのだろう。
二匹の猫はいずれも時空間を越えて姿を消し、そして姿を現す。ある意味ではいずれも、事実に即しているとは言え、村上の心象風景を表す比喩的な存在だと言ってもよいだろう*。
*なぜ猫を「捨てる」ではなく「棄てる」なのか。ここで言いたいことは漢字学的な厳密な字義の定位ではなく、恐らくは、無意識に選ばれている漢字の選択の問題である。つまり本来猫は、例えばゴミのように「捨てられる」存在なのだ。したがって猫に「棄てる」という文字を当てるのは一見奇妙な印象を残す。「棄てる」。この文字を見て想起するのは「放棄」だ。そう、戦争の放棄の放棄だ。そう考えれば、容易に同様な例が浮かぶ。自由の放棄、主体性の放棄、生命の放棄……。すなわち具体的ではなく抽象的な、実体を具体的には持ちえぬ存在を手放すとき、それを「棄てる」というのではなかろうか。つまり、この猫は必ずしも具体的な猫である必要はなく、ある種の精神的存在を放棄すること、放棄されたことの痛みを象徴しているといってよい。
そう考えると、題名の「猫を棄てる」だが、実際にはこの猫は戻って来ているわけだから、本来は変である。恐らくは、猫が戻ってきたことよりも、猫を「棄てた」、あるいは「棄てられた」ことの方に村上少年の心は傷ついていた、とも言えるし、この文章を書きあげた後で、村上は父親との間に存在した様々なわだかまりを「棄てる」というような意味も言外に込められているかも知れない。
もう少し考えてみよう。
本書は台湾の若手イラストレイターの高妍(ガオ・イェン)が装画・挿画を寄せている。リアルな感じであるの同時に色調がセピアカラーで、なんだか懐かしいような印象を持たせる。
書中、10数枚に渡るカラー印刷の挿画が収録されているが、その中の1枚がカバーの装幀にも使われている。このカバーの絵はよくよく考えるととても奇妙である。村上を思わせる一人の少年が段ボール箱に入って本を手にしながら、何か物思いにふけっている、というシーンなのだが、この文章の中にはそんなシーンは全くない。無論、この段ボール箱は例の猫を棄てるときに使用されたものを思わせるのだ*。
*無論大きさが違う。だから全く同じということはない。
どういうことなのか。
あたかも、村上少年が棄てられた猫の立場になってみようと段ボール箱に入ってみた、とも言える感じだ。
そう考えると、このエッセイは「猫を棄てる」という題名になっているが、先程言ったように、猫が「戻ってきた」ことよりも猫を「棄てた」ことに心の重しがかかっているわけで、そのことは、恐らく、猫を「棄て」ようとした父親に、あたかも村上自身も「棄てられようとした」、そういう、ある種の心の傷のようなものがここに表れているのだ。
だから、村上は一旦は父親に「棄てられた」存在なのだ。
そのことをこのカバーの装画は明瞭に表している。
無論、この装画を描いたのは高妍だが、何枚かある絵のうちの、この絵をカバーの装画に使おうとしたのは、あるいはその案を許可したのは、恐らく村上本人だろうからだ。あるいはこういう絵を描いて欲しいと指示を村上が出した可能性すらある*。
*村上が自身の著作の装幀にかなりの思い入れを持っていることはいくつかの証言から知られるところだ。例えば、以下を参照。高橋千裕・寺島哲也へのインタヴュー「村上春樹『騎士団長殺し』の装幀が生まれるまで」webサイト『Casa BRUTUS』2017年2月28日更新。高橋は『騎士団長殺し』の装幀者、寺島はその担当編集者。
いずれにしても、今までの村上春樹の作品を読み解くうえでも、とても大変興味深い作品であることは確かである。
📓【参考文献】
・小山鉄郎「村上春樹を読む」(92)「猫を棄てる」/「共同通信」2019年5月23日配信。
・鴻巣友季子「村上春樹「猫を棄てる」をめぐって」/『文學界』2019年7月号・文藝春秋。
✍4471字(400字詰め原稿用紙換算12枚)
🐧
2020/05/02 17:14

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