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2018年5月3日木曜日

人間の労働 そのⅧ   労働に内的価値は存在しないか? 今村仁司『近代の労働観』を読む

Ⅷ 


人間の労働 そのⅧ  

「人間の類的本質は労働である」 ――カール・マルクス『経済学・哲学草稿』 (1844年/的場昭弘『超訳『資本論』』2008年・祥伝社新書・p.55より援引)  


労働に内的価値は存在しないか?   

今村仁司『近代の労働観』を読む 




■今村仁司『近代の労働観』1998年10月20日・岩波新書。  
■論著(社会思想・社会哲学・近代・労働)  
■2018年3月3日読了。  
■採点 ★★★☆☆ 



📝ここがPOINTS
① 本書は「労働が人間の本質」とする近代特有の考え方を「虚栄心」という視点で批判する。  
 ② しかし事例が恣意的で、近代への転倒の理由を触れていないなどの方法論的に不備がある。 
③ 労働の再定義も含めて生きるという側面からの全体的な見直しが必要である。  
  



1  仕事の奴隷  

 一世を風靡した、スポーツ根性漫画の代名詞と言えば『巨人の星』*を嚆矢とするが、 今でも思い出すのが、主人公・星飛雄馬の父・星一徹が息子飛雄馬を打倒するため敢えて中日ドラゴンズのバッティング・コーチとなったときの下りである。 

*原作 梶原一騎・川崎のぼる『巨人の星』全19巻・1966年ー1971年・講談社コミックス。 

  1969年春のキャンプで一徹が、獲得したアフリカ系アメリカ人選手、アームストロング・オズマ選手を竹刀で殴りながら指導する*。 

*当然のことながら竹刀の使用はもとより選手や部下や生徒を殴ってはいけない。悲しむべきことに、わたしの子供の頃はこれが普通だったが。 

 するとオズマが「ナグルナト/イッタゾッ」「ナグラレルト/オレタチ黒人ハ/・・・・・・/オレタチノ先祖ガ/白人ノ ドレイ/ダッタコトヲ/思イダシ/ブジョクニ/タエラレナイ/!」と抗議する。 
 その時、一徹は現在の感覚で言えば驚くべきことを言う。 

 「ほほう/どれい/・・・・」 
 「どれい/けっこう/どれいになれっ」 
 「ただし」 
 「白人の/どれいではない/わしのどれい/でもない!」  
「野球の/どれいに/なれいっ」 

『巨人の星』第13巻・講談社コミックス・p.18

  そしてさらに次のように言い放つ。 


 「人間が人間に/頭を下げる/ことはないっ/しかし/仕事には/頭を下げい」  
「徹底的に/けんきょに/すべてを/ささげ/つくせ」  
「すべての/情熱を血を/そこまで/ささげ/つくせば/どれい/じゃろう/野球という/主人に対し/どれいと/なってこそ/本望!」(『巨人の星』第13巻・講談社コミックス・p.p.17-18)  

 本書で言及されている社会主義者ポール・ラファルグ*がこれを読んだら、20世紀後半の日本人はクレイジーだと怒り狂ったかもしれない。 


ポール・ラファルグ


 *カール・マルクスの娘婿。今村によれば「忠実なマルクスの思想の継承者」(本書・ p.166)。ラファルグは次のように述べている。「資本主義文明が支配する諸国民の労 働階級を奇妙な狂気がとらえている。この狂気は、この二〇〇年来、あわれな人類を 苦しめる個人的・社会的悲惨をもたらしてきた。この狂気とは労働への愛、病的なまでの労働への情熱であり、その狂気はついに個人と子孫の生命力を枯渇させるほど強烈である。(中略)労働は隷属状態のなかでももっとも最悪なものだ」(ポール・ラフ ァルグ『無為への権利』/本書・p.166より援引)。  

   人間はもとより、仕事、労働の奴隷になるとは、語るに落ちるとはこのことで、まさに労働の軛の下に、人間存在が「奴隷」的存在として酷使されていることを自ら語っているようなものだ、とラファルグなら言うだろうか。  



2    仕事の意味  

    しかし星一徹が語ろうとしていることは、実はそういうことではない。 
 人がその全存在を懸けて為した仕事には、一人ひとりの卑小な人間存在を超えた、何らかの価値がある。有為な仕事、労働を通じて人間は自らの価値を高らしめることがで きる。だから今はよく分からないことがあろうとも、謙虚に与えられた仕事に打ち込め、というような意味だろうか。 
    仕事、労働が、ある種の「修行」のようにも捉えられていて、恐らくは仕事をすることと自らの人生を生きることが一体となっていた「幸福」な時代の一断面であろうが、この漫画が連載されていた1960年代にとどまらず、現在においても、例えば NHKにおいて、ある種の職業倫理を宣揚しているのかとも思われる『プロフェッショナル』という番組が人気を博している。 
   ということは、「仕事に打ち込む」という価値 が少なくとも、日本においては1960年代から近年2010年代まで様式、表象の差は少なからずあるにせよ、その内実はほとんど変わっていないことを明示しているように思う*。  

*ただ、『プロフェッショナル』(2006年~現在)なり、その前番組『プロジェクト X』(2000年~2005年)なり、他の民放の番組、例えば『情熱大陸』(1998年~現在・ TBS)などのこの種のプログラムについてはいささか注意が必要である。要するにオリンピックとかサッカーのワールドカップのような、ある種の国威発揚というのか、プロパガンダ、洗脳の働きを持っていると考えられる。番組に登場する当事者や制作者はそんな意識は全くないだろうが、そのように機能してしまうということが問題なのだ。この件については慎重な社会学的、及び社会思想史的分析が要求される。  


3    労働は人間の本質か  
  
    さて、社会思想史家・今村仁司による『近代の労働観』は小冊ながらわれわれが自明 としている労働観についての根本的な見直しを要求する好著であると一旦は言える。  
    表紙見返しの附された編集部による要約には次のように記されている。  

一日のかなりの時間をわれわれは労働に費やす。近代以降、労働には喜びが内在し、 働くことが人間の本質であると考えられてきた。しかし、労働の喜びとは他者から承 認されたいという欲望が充足されるときである。承認を求める欲望は人間を熾烈な競 争へと駆り立てる。労働中心主義文明からの転換を、近代の労働観の検討から提起する。 

    確かに「労働の喜びとは他者から承認されたいという欲望」が存在することは事実だ と思われるし、また、仮にそのような側面がないにしても、なにものかが「人間を熾烈な競争へと駆り立て」ていることは確かだと思われる。  
 しかしながら広い意味での「労働」に「人間存在」の「本質」を認め、なおかつそこに、何らかの「喜び」や「楽しみ」が内在することは否定されるべきだろうか。  
 今村は、この考え方「労働中心主義的人間論」に疑問を持ち、これが近代に入って成立し、さらに今後のあり方としてはこの労働から可能な限り解放されることを展望している。  
 理論上の枠組みとしては大筋その通りなのであろう。少なくとも現在多くの労働者が「喜び」に満ちて労働に従事しているとはいささか考えづらい*。 

 *この問題については広範な社会調査のデータが必要である。  

    また、世界全体の近代化、機械化、人工知能化に伴って、人類全体が労働から「解放 」され、人生の大半は「趣味」と「余暇」に費やされることも、あながち夢物語とは 言えないだろう。むしろ、その時にはいかに働くか、いかに労働から解放されるかという問題よりも、いかに人生の大半を占める「暇と退屈」と向き合うかということが 問題となるであろう*。 

 *社会学者・社会思想家の清水幾太郎は1960年代に早くもこの問題を「第二のリアリティ」として取り上げている。その著『現代思想』(上下・1966年・岩波全書〈岩波 書店〉)、第三章で取り上げてているテーマは「イデオロギー」「電子計算機」そし て「レジャー」の三節である。以て慧眼とすべきである。  
清水幾太郎

    そのような意味においても、いくつかの未知の論点、事例などを知ることができたが、逆に気になる点が幾つか存在する。 


 4    方法的に恣意的ではないのか  

     一点目としては学問上の方法論的に妥当なのかという点である。   
    というのは、本書では前近代の労働経験として、古代ギリシャのそれと、南太平洋・ニューブリテン島のマエンゲの人々のそれを紹介している。 
 そして、それと対比させて、アンリ・ド・マン*の労働に関する社会調査『労働の喜び』(1930年)に紹介されている労働者たちの証言を分析するかたちで、近代の労働経験に見られる労働に 対する観念を論じた上で、それらが近代に入って大きく変容したことを述べている。 

 *本書にはその言及がないが、恐らくポール・ド・マンの叔父と思われる。これにつ いては柄谷行人が直接ポール・ド・マンに確認している(柄谷行人編著『シンポジウ ム』1989年・思潮社・p.182)。 

    問題は前近代*の事例として古代ギリシャとマエンゲが紹介されているが、なぜこの 二つだけに言及されているのだろう。 

 *今村は、前近代の事例を「アルカイックな労働経験」として挙げ、カッコ書きでア ルカイックを「太古的」と註記しているが、そもそも「アルカイック」というのは「 古風な」「古拙の」といった現代から見て「古めかしく見える」、「素朴に見える」 というような表面上の見た目を指し示す形容詞ではないのか。この用語使用はおかしくないか。  

    また、古代ギリシャと一口に言うが時代、地域や階級・階層によって異なるのではないか *。  

*柄谷行人は『哲学の起源』(2012年・岩波書店)において、およそ現在のわれわれが 知るところのギリシャとは古代アテナイによって隠蔽されたものであり、そもそもの 哲学の起源もアテナイではなく、社会や文化、風土、考え方の全く異なるイオニアに あったことを論証している。余談ではあるが、この論著は英訳題に合わせて『イソノ ミヤと哲学の起源』と呼ばれるべきだろう。  

    また、もうひとつの前近代の事例として挙げられているのが、現在も生きているマエンゲの人々だが、古代の人々をわれわれは観察できぬ以上、前近代的生活を送ってい ると考えられる部族を観察することで、想像的に考察することはやむを得ないことではある。しかし、なぜマエンゲの人々が「典型例」と言いうるのであろう。今村はフランスの人類学者ミシェル・パノフの論文「エネルギーと力――ニューブリテン島にお ける労働と労働表象」(1977年)に依拠しているが、なぜこれだけなのか、なぜこれが 典型と言いうるのか、理解に苦しむ。  
    さらに謎なのが、先に触れたアンリ・ド・マンの労働に関する社会調査『労働の喜び 』(1930年)に紹介されている労働者たちの証言が近代*の労働経験の典型として50ペ イジも費やした上で分析されることである。これもなぜこれなのか、なぜこれだけな のかという疑問を持たざるを得ない。  

*ただし、本書では「現代の労働経験」となっているが、当然のことながら「近代」 も「現代」も英語では「modern」で同じである。そもそも本書の章立てが「第一章 アルカイックな労働経験」、「第二章 初期近代の宗教倫理と労働」、「第三章 現代の労働経験」となっているが、本書の文脈で「近代」と「現代」を立て分ける必 要があるのだろうか。いわんや第二章で「初期近代」と言っておきながら第三章は「 近代」ではなくて「現代」なのか。そもそも本書の題名は「近代の労働観」であっ た。 たかだか言葉の問題ではないか、と言うかも知れないが、言葉の運用ひとつとっても その人がおよそどのように物事を考えようとしているかが分かるものである。  

    つまり紹介されているものが正しくないと言っているわけではなく、今村は単に入手 できた未邦訳の文献を恣意的に紹介しているのではないか、そうなると、あるいは労 働者の証言もアンリ・ド・マンの解釈と逆の解釈ができると今村は分析しているが、 それすらも恣意的なのではという疑いを禁じ得ない。  


5    なぜ近代への転倒は生じたのか  

    2点目として、さらに重要だと考えられるのが、それでは何故、前近代から近代への 労働観の転換、転倒は生じたのかという問題であるが、それについて明確な解答が与えられているとは思えない。 
 今村は、近代の初頭、農村から都市に流入してきた人々 の監禁と教育のために強制労働が使われたと述べているが、これはなぜなのか。つま り当時の王権やキリスト教会はなぜ、余暇や無為を悪として、勤勉を善として強制し たのか。強制された流入民たちはその労働倫理を内面化できたのか、できたとすれ ば、なぜできたのか、という問題に答えていない。  
 つまりここにあるのは、ヴェーバーの問題ではないのか。 
 すなわち「近代の労働観」 というテーマを掲げておいて、なぜヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』*への言及が、全くどうでもよい文脈でほんの一ヶ所だけなのか(本書・p.163)。 



 *マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1905年 /大塚久雄訳・1988年・岩波書店/1989年・岩波文庫。  


6    虚栄心と名誉の問題  

 3点目。今村には同様のテーマを追究したものに以下の二著がある。『労働のオント ロギー』(1981年・勁草書房)、『仕事』(1985年・弘文堂)。しかしこれら前 二著にはなかった新たな論点として労働の喜びの根拠(あるいはそれの否定の根拠)と して「虚栄心」つまり他者による「承認欲望」をおいたことだとしている。つまり労 働者が労働の喜びとしているものも「虚栄心」に過ぎず、つまり外的に強制された、 あるいは外的に捏造されたそれであって、労働行為に内属するものではなく、したが って労働者が内面のなかで自立的(という表現は奇妙だが)に体感するものではないこ とになる。 しかし本当にそうなのであろうか。もちろん、「虚栄心」がないとは言わない。確か に虚栄心は存在するだろう。しかしながら、はたしてそれだけなのだろうか。  
 いささか文脈が逸れることになるやも知れぬが加藤典洋によるハンナ・アーレント読解を援引したい(加藤典洋『日本の無思想』1999年・平凡社新書・p.p.162-163)。 

ハンナ・アレント
 
 アーレントによれば、近代に入り、古代ギリシャ以来の「公的なもの」が消えてしま う。それとともに「称賛されることの徳としての意味も消え、そこで称賛されることはいまや社会的な名声を得ることと区別できないものにな」るという。つまりこれら の「世俗的欲望」(つまり「虚栄心」)とは異なる「名誉という何物にもかえがたい、 けっしてお金には換算できない価値」が存在するのではなかろうか。それは「労働の 喜び」でもあるだろうし、人間が他者との関係性において人間の類的本質の一面を示 していると言えないだろうか。  


結     語  友よ、われわれは労働に「バラ」を飾ろう  

 さて、冒頭の問題に戻る。 
 「労働に喜びはあるのか」という問題だ。 
 わたし自身の答 えは「ある」だ。 
 しかしながら、それは近代的な社会環境のなかでの達成は大変な困 難を伴うのも事実だ。この社会環境、有り体に言えば会社組織によってわれわれ労働 者は部品のように、あるいは歴史社会学者の小熊英二の言葉*を借りれば「湯水のように」使役されているこの現実を変換していかなければ、労働に喜びは当然存在しえ ない。  
小熊英二


*小熊英二「思考実験――労働を買いたたかない国へ」/『朝日新聞』2017年3月 30日・朝刊・「論壇時評」欄。これに関しては「人間の労働 そのⅣ 労働者は湯水か? ――小熊英二「労働を買いたたかない国へ」について」(webサイト 『鳥――批評と創造の試み』2017年4月2日更新)で紹介した。  

 もう少し言うのであれば、ここでわたしが言おうとしている「労働」とは、その反対 概念の「遊び」をも含むものだ。遊ぶときに手抜きをしたり、ふざけたりしては全く 面白くない。真剣に遊ぶからそこに意味や価値が生じるのである。 逆に労働も同じである。こうすると面白いかなとか、ああすると誰かが楽しんでくれ るかもとか、あるいはこういうやり方が美しいから多少お金がかかっても面倒でもや ってみよう、というような遊びの感覚が労働をその人にとってみて意味あらしめるの である。 つまり労働は遊びであって、遊びは仕事でなければならない*。 

堤清二=辻井喬

 *同様の趣旨を当時、西武セゾングループの総裁であった堤清二は『朝日新聞』のイ ンタヴューに答えて「一生懸命、勤勉に遊ぼう」と発言して話題を呼んだ。経営者 堤は無論、詩人・小説家である辻井喬というもうひとつの顔を持つ。 

 ※『朝日新聞』1986年1月19日朝刊/堤清二『堤清二・辻井喬 フィールドノート』 1986年・文藝春秋・p.283。  

 そう考えてくると労働に喜びを見出そうとすることは、すなわち生きることそのもの に喜びを見出だすことに他ならない。  
 イギリスの詩人、工業デザイナー、マルクス主義者であるウィリアム・モリスの著名 な言葉に次のものがある。  

ウィリアム・モリス

わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。(ウィリアム・モリス*)  


*政治哲学者・國分功一郎はこのモリスの言葉について、次のように述べている。「 かつてイエスは「人はパンのみにて生きるにあらず」と言った。/吉本隆明はこの言 葉を解釈して、人はパンだけで生きるのではないが、しかしパンがなければ生きられ ないことをイエスは認めたのだと言った。*9/*9――吉本隆明、「マチウ書試論」、『 マチウ書試論・転向論』、講談社文芸文庫、一九九〇年/モリスの思想を発展させれ ば次のように言えるのではないだろうか。/――人はパンがなければ生きていけない。 しかし、パンだけで生きるべきでもない。わたしたちはパンだけでなく、バラも求め よう。生きることはバラで飾られねばならない。」(國分功一郎『暇と退屈の倫理学 』2011年・朝日出版社/増補新版・2015年・太田出版。ここでは朝日出版社のblog〈 http://asahi2nd.blogspot.jp/〉から援引した) 。 

 われわれの労働の根本の一つの側面は確かに生きることの「必要性」を充足させることである。つまり「パン」である。そこには自身にとっても、家族や仲間にとって も、さらには社会的にも確かに意味があることである。 
 しかしわれわれはそれだけで は生き「続ける」ことができないのではないだろうか。 
 生き続けるためには きっと「バラ」が必要なのである。  
 だから、友よ、われわれは、われわれ自身の労働に、赤い「バラ」や白い「バラ」を飾ろう。  
 「生きる」こととは要するにそういうことではないのだろうか? 

 🐔  
□2018年5月3日  
□7150字(400字詰め原稿用紙換算約18枚)  
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