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2018年4月30日月曜日

ペイジ・ヴュウ 14,000件突破!

ペイジ・ヴュウ  
14,000件突破! 



皆様ありがとうございました。 
これからもよろしくお願いします。 

 と、いっても誰も読んでないとは思いますが、そうするとこの数値は一体何を示しているのだろうか。謎が深まる。 




 前回は昨年の12月に「11、000件突破」というのを書いたが、その後「山城むつみ」論をクリスマス記念でアップして以来、ほぼ何もしていない、という状況が続いている。 

 そのような次第で、一旦ここでは昨年の2月以来の一年間の未完成の残骸を振り返り、今後の自らの指標としたい。 


①「悪の倫理学・覚え書き」現15回(未完)・2018年2月14日~2018年8月29日……昨年の2月突如として執筆活動を再開した記念碑(?)的作品。基本的な主旨は「その2」で尽きている気もする。それを「その15」で再確認しているが、その「その15」そのものが吉本隆明の一連の親鸞論を扱っているもののそこでなぜか座礁を起こして長い中断状態に陥ったのだ。 
 理由は比較的単純で飽きた、ということになるが、もう少し説明すると、宗教思想を扱うことに伴う無完了性、つまり際限のなさに伴う、矛盾するようだが、ある種の閉塞感ということになるか。 
 本来は本編に当たる「悪の倫理学」の備忘録的なものだ。 

②「苦の倫理学」→「人間の労働」現7回(未完) 2018年3月23日~2018年12月25日……この場合の「苦」というのは会社に行くことの辛さを意味する。しかし、労働そのものに苦しみの根拠があるのではなく、会社あるいは集団で全体像もわからぬまま労働に駆り立てられることに苦しみの理由があるのだと思う。したがって、第7回に至って、主題を鮮明にするために改題した。これも予定されている内容はあるが、やる気がなぜか起きない。「そのⅧ 今村仁司『近代の労働観』」をA4で3枚まで書いて、座礁している。そろそろ再開するかな。 

③何本か倫理学シリーズ 2018年の8月~11月ごろ……①と②が煮詰まってこの年(2018年)の夏休みは吉本さんの親鸞論の再読解をしていてあえなく座礁。その間いくつかのの着想を得る。 
 a.「偶然性の倫理学」……まだ何も書いていない。「偶然(性)」「遇有(性)」には何らかの意味がある。あるいは意味があると捉えうる、ということがどうも言いたいようだ。まだ基本的な勉強が不足している。 
 b.「価値の倫理学」……というようなことを考えると「価値」あるいは「価値意識」の全体像を捉えないことには何も始まらない、と気づくものの、やはりまだ何も書いていない、というよりも圧倒的な勉強不足ということに尽きる。 
 c.「エロの倫理学」……1本上げたが、うーん、これは続くのかな。 
 d.「美味と倫理のはざまで」……2本上げたが、うーん、これも続くのかな。題名が間違っていると思う。しかし思い付かない。 
 e.「機械の倫理学」……『人造人間キカイダー』を中心とするAI、人造人間、サブカルチャー論。なにも書かず。 
 f.「変身の倫理学」……アニメイション映画『アナと雪の女王』の主題歌「Let it go」論。なにもなし。 

④「戦争の記憶 内乱の予感」……カタルーニャの独立運動について小論を起こしたが、その後全く続報がなく、拍子抜けした。まーそんなものかな。本来は清水幾太郎論の筈だったが。 

「これが民意なのか?」現4回(未完) 2018年10月24日~2018年11月24日……昨年(2018年)実施された衆議院議員総選挙の結果に酷く怒りを覚え、表題の小論を書き始めた。柄谷行人の「イソノミヤ」論を紹介する下りで挫折。比較的、当初から論の構成と結論が見えていた中篇論考だったが、ここで敢えなく陥落とは残念無念。これは何としても書き上げたい。 

⑥「内在と超越に関わる諸問題」(仮題)……これもまだ何も書いていないが、年来の課題である「内在する価値は価値たりうるか」という問題の解決を目指すものである。 
 このテーマで書き始めて、現在座礁中なのが村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』論「失語症が強いられるとき」(未発表)である。「世界の終り」に残ろうとする、すなわち「内在」することを選択する「僕」を倫理的に擁護しようというものである。 
 しかしながら、そのことが「内閉」に止まるのではなく、「超越」(他者・外部との関係性)への回路が見出だされねばならない。その象徴が「鳥」ということになるのだが、そのことそのものは「鳥のいる文学史(誌)」(未発表)で書こうと思っていた。 

 ところで、先日、たまたま柄谷行人の『内省と遡行』の文芸文庫版刊行についての記事を書いているときに、そもそも柄谷は自らを徹底的に内部に閉じ込めることにより自壊させることで外部に出ようとして座礁したのだと思い出した。そこでは失敗のなかに重大な意味があることを指摘しているのだが、それで言うと柄谷の文壇デビュー作「漱石試論――意識と自然」がそもそも失敗について論ずるものだということも最近たまたま「発見」した*。 

*無論、以前にも何回も読んでいるはずなのだが全く読めていないということがわかる。 

 「漱石試論」において柄谷は「表現できない何ものか」を表現しようとして、TSエリオットの『ハムレット』評を引いた上で、漱石の長篇小説が構成的破綻を来していることを指摘している。 

 さて、そんなわけで現在は「内在」と「失敗」の問題について考えている。 


          2018年4月22日ー4月30日 

 🐦鳥の事務所 



 












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