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2018年4月16日月曜日

意欲的なテーマを扱うも叙述に難あり 丸谷才一『恋と女の日本文学』

意欲的なテーマを扱うも叙述に難あり 

丸谷才一『恋と女の日本文学』 

単行本



講談社文庫


講談社文芸文庫


■丸谷才一『恋と女の日本文学』1996年8月・講談社/2000年5月15日・講談社文庫/改題『恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ』・2013年4月11日・講談社文芸文庫。 
■中篇評論集(日本文学史)。 
■①2003年9月24日読了 ②2018年4月12日読了。 
■採点 ★★☆☆☆。 

📝ここがPOINTS 
①恋と女人成仏の問題から日本文学史を捉え直す。 
②重大なテーマを扱うが、叙述の方法論に難がある。 
③本居宣長の問題と『源氏物語』の結末の問題を骨格に据えるべきだったのでは。 




 1 丸谷日本文学史三部作の第三作 
  
 本書は『日本文学史早わかり』、『忠臣藏とは何か』に次ぐ丸谷才一の日本文学史三部作の第三作に当たる。前者では「詞華集アンソロジー」を基軸に、後者では「怨霊」の問題からそれぞれ日本文学の流れを捉え直したものだ。 
 本作は「恋心」や「愛欲」の問題こそ日本文学の中心的テーマに他ならないとした「恋と日本文学と本居宣長」という長い標題のものと、日本文学に表れた「女人成仏」の問題を読み解く「女の救はれ」という、こちらは比較的短い標題のものの、以上2本を収録したものである。  


  
2 叙述に問題あり 
  
 以前読んだときはあまり、というかほとんど興趣を覚えず、読んだという記憶さえなかった。 
 これは内容がつまらないとか、下らないとか、そういうことでは全くなく、一体に叙述の方法論に関わることと考えられる。 
 要するに論旨は簡潔明瞭で、題号の通り「日本文学史における恋愛、愛欲の問題と女人成仏の問題」である。 
 ところがこれに本居宣長の問題と『源氏』の結末の問題が絡んでくる。これがむしろ大変重要な問題なのだが、そもそも語りはじめは全くその気振りも示さない。 
 それに加えて、様々な話題が並列的に語られる。したがって焦点が定まらず、曖昧な印象を残すことになる。 
 これはもともとは講演で演じられたものを、そのままではないだろうが、原稿に起こしたものだ。したがって論文口調ではなく、「閑談」風ということになっている。 
 しかしながら論じられていることそのものは極めて重要な論題である。 
 恐らく前半であれば本居宣長に、後半であれば源氏の結末の問題に流し込んで論じれば、大分風通しのよい論文になったのではないか。 


 3 本居宣長問題 

 では「本居宣長問題」とは何か。一言で言えば小林秀雄の『本居宣長』*に代表的に示されるような、なんというか、しかめっ面した宣長像とでも言おうか、大変真面目な本居宣長像が存在する。多くの日本人が宣長に対して持つイメージはこれなのだが、これは小林の『本居宣長』が作り上げたといっても過言ではない。 

*ただし、わたし個人としては 小林の 本居宣長像について特別 反感を持っているわけではない。 例えば『本居宣長』本編の迷走の果てに演じられた講演『本居宣長  補記』について言うと、最終的に 言葉の 言葉自身が持つ 不可能性 ということが示されている、そう思える。従ってそれが本居宣長そのものの本質を示してるかどうかはまた別問題ではあるかもしれないが、ひとつの日本の思想の局面あるいは極限あるいは極点というものを示した 好著であると私は考えている。 これについてはまた別稿を起こす つもりであるが、少なくとも日本の思想、日本の文学という流れにおいて、本居宣長あるいは小林秀雄という、この二つの巨頭を看過することは 当然できない。 

※小林の迷走振りについては一考の余地がある。 言うまでもなく 小林の ベルクソン論『感想』の中絶については日本文学詩上最も名高い「迷走」として知られているが、その内容よりも、迷走が何故に生じたのかという論題は極めて重要だと考えられる。 


 だが、そうではない、これは違う、というのが丸谷の説なのだ。 
 そもそも宣長は『新古今』を愛唱していて、それと同じような和歌を詠みたいと思った。ところが残念なことに彼には歌詠みの才能がまったくなかった。そこで彼は『新古今』の歌人たちが愛読した『源氏物語』を徹底的に読み込んだ。だが、まだ歌は上手くならない。何が足らないか。これは『源氏』が持っている「古代の心」が足らないのだ、というわけで彼は『古事記』の読解に挑んだ。それでも結局のところ彼の歌詠みの技術が向上したかというと、そんなことはないわけだが。 
 そこで宣長が最も重視したのが「もののあはれ」、つまりは恋する心ということだが、実はこれこそが最も重要なのだが、それをたとえば中国人は理解しない、だから漢心からごころはだめなのだというわけになるのだが、そのようにたどってきて結局、日本の文藝の中心にあるものこそこの「恋」ということなのだ、と宣長は看破したのである。 

 本書のなかで最も印象に残るのが宣長の初恋? を巡る経緯である*。彼のこの初恋の挫折と奇跡とも言える再会と結婚ということがなければ、彼の「恋愛」に関する理論は成立しえなかったというほど、短絡的ではないが、宣長のある意味では真面目な、あるいは一途な側面がそこに表れているとは言えるであろう。 

*宣長は修行時代に友人の妹・草深民を見初めたが、そうこうしているうちに彼女は他家へ嫁いで行った。やむ無く彼も別の女性を結婚するも民のことが忘れられず、というのも彼が結婚したとたん、民の結婚相手が死んでしまう。そんなこともあり、結局離縁する。そして互いに独身に戻った二人は、その翌年晴れて再婚したのだ。 

 恐らくは、この宣長の伝記的事実から語り始め、彼の学問的営為のなかに日本文学が「恋愛」という主題を持つ所以を語っていくというのがよかったのではないか、と考えられる。 



 4 『源氏物語』の結末の問題 

 後半の「女の救はれ」についても、やはり叙述の進行に問題があり、いささかならず分かりづらい。 
 恐らく、中心となるテーマは『源氏物語』の結末の問題である。無論、最終部に当たる「宇治十帖」が紫式部本人の手になるものなのか、という問題はあるけれども、それは一旦置く。要するにあの大部をなす長篇小説の結末として、あれは妥当なのかという問題である*。 

*薫大将と匂宮の二人の男性の求愛に苦しんだ浮舟は結果的には川に身を投げる。横川の僧都に救われた浮舟は出家を望み、薫の使いにも会おうとしない。薫は白けた気持ちで、使いなど出さなければよかった、他の男に囲われいるのではと疑うところで終わる。 

 『源氏』を一読すると大変寂しい終わり方になっている。誰も救われない、というのか、誰も幸せになっていない。むしろ、前半の主題とは矛盾するようではあるが、「恋愛の不可能性」をこそ示唆しているように読める。 
 しかし、そうではなくて、ここには「女人成仏」の考えがあり、浮舟は必ずしも不幸せではなく、むしろ出家することにより成仏への可能性を示しているのだという。 
 ことの当否については我々素人の預かり知るところではないが、少なくとも一書として見たときに、丸谷自身に論理的混乱があるのではないか。 
 恋と言えば女、女と言えば恋、という先入観から考え起こされているのだろうが、ここ、ここに至ってはむしろこれらは合い矛盾する内容となっていると言わざるを得ない。 

  したがって、もしこのままであれば、これは別の論考であるので、『恋と女の日本文学』とまとめるのは問題がある。その意味で丸谷の死後、再刊された文芸文庫版では一書という形はそのままではあるが、それぞれの論考の標題を併記するものとなっている。丸谷の遺言なのか、編集部の考えなのかは不明ではあるが、ひとつの見識かとは思われる。    

 ただ、これはそのままにしていまうのはあまりにも惜しい。恐らく恋愛の問題と女人成仏の問題は必ずしも相反する問題ではなく、愛欲の問題を突き詰めることによってそこにこそ救済の必然性も浮かび上がってくるに違いない。 
 しかしそれはわれわれ後続者の仕事であるのは言うまでもない。 

【参考文献】 
・丸谷才一『日本文学史早わかり』1978年・講談社。 
・丸谷才一『忠臣藏とは何か』1987年・講談社。 
・大野晋・丸谷才一『光る源氏の物語』上下・1989年・中央公論社。 
・大野晋『源氏物語』1984年・岩波書店。 

・小林秀雄『本居宣長』1977年・新潮社。 
小林秀雄『本居宣長 補記』1982年・新潮社。 
小林秀雄「感想」/『新潮』1958年5月号~1963年6月号/『小林秀雄全集』別巻Ⅰ・2002年・新潮社。 

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■2018年4月16日 23:01 


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