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2018年4月11日水曜日

画 相 論 まんしゅうきつこ『まんしゅう家の憂鬱』

画 相 論 

まんしゅうきつこ『まんしゅう家の憂鬱』 




■まんしゅうきつこ『まんしゅう家の憂鬱』2015年12月・集英社/2017年11月25日・集英社文庫。 
■ブログ・漫画・エッセイ。 
■2018年4月9日読了。 
■採点 不可能。 


POINTS 
①内容的に常人の域を超えている。 
②ブログ上でのコマワリが「画相」という観点で重要だ。 
③その意味ではブログのまま書籍化せよ。  



 1 常人の域を超えている 

 これはなんというかペンネームからぶっとんでいるが、ブログに掲載されていた時のタイトルは「オリモノわんだーらんど」*なのだから、もうこれは常人のなしうるところではない。 

*https://manshukits.exblog.jp 

 これを読むと、家族関係など様々ご苦労されているようだが、それとはまた別に自らの足場を独特の異相空間に持っているようだ。 
 突如として井の頭公園の池を泳いだり、別れた恋人から逃れるために狂人の装いをしたり、夫と別居して一年後、突如としてもとの鞘に収まる、などはあり得ないが、それは現実の彼女本人の問題であって、一旦はよしとする(よしとするのか?) 


2 ブログ上でのコマワリ――間と等価性 

  小説や批評に文体があるように、漫画にも漫体?  画体?  があるとすると、そもそも、これはブログで発表された時のコマワリが大変重要であることが分かる。それを一旦ここでは「画相」という言葉で呼ぶことにしよう。無論、ここで我々は吉本隆明を方法的に踏襲する。 

 現在でもネット上にブログが4編残されているが、その内の、本書にも収録されている「妹」を比較してみると、本書収録のものは当然、通常の漫画のコマワリになっているが、ブログ上のものは、なんというか、紙芝居方式というべきか、絵があって説明、絵があって説明の繰り返しだから、単調なのだが、絵と絵の間の「間」がとても重要で、漫画の場合は比較すると早いと感じる。 
 この「間」とは奇妙なことに現実が呼び起こす時間感覚と相似形をなしている。つまり漫画で読むと見開きの単位で、読者はある一定の幅で見通しを立てられるが、ブログ上のコマワリではそれが封じられる。それが現実感覚を呼び起こすのではないか。 

 そして、ブログでは、一見、単調と思えるそれぞれの絵がほぼ等価に並べられている。そこに存在するものは、生を放擲したものの持つ或る種の視線、「向こう側からの視線」、より強く言えば「死の視線」である。 
 先に述べた「間」の問題と絵の等価性の問題は、実は同じ事態を矛盾すると思われる別別の側面から、それぞれ説明したに過ぎない。この矛盾は論究に値する。 

 無論、これらは期せずして為されたことであるが、主題、内容との親近性の問題も踏まえた上で、極めて重要な問題だと考える。 


3 ブログのまま収録せよ 

 その意味では漫画方式にコマワリを変えるのは一体にページ数の圧縮の問題と縦書き*変換による読みやすさの確保であろうが、圧倒的な後退である。極力ブログのまま収録すべきである。 

*縦書きと横書きの思考、表現、文化に与える影響についても一考に値する。 

 現在、作者は別のサイトに「リフォームワンダーランド」*なる作品を連載中であるが、残念ながら、これは単なる漫画である。内容的にも義理の妹のキャラクターなどは作りすぎである。 

*https://www.e-aidem.com 

🐤 
■2018年4月10日 12:10 

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