㊗生 誕
恐らく本日は〇〇の54回目の生誕記念祭である。〇〇は54年前の本日未明4時に、岐阜県土岐郡笠原町梅平に爆誕したとされている。
未だかつて〇〇はこの件については触れたことがなかった。それは自らの存在を忌避しているからであって、すなわちそれは自らの発生についても同様である。
生まれてこの方、〇〇は誰かによって、あるいは何かによって必要とされたことはなかった、と思い込んでいる。実際にはそうではなかったかもしれぬが、少なくとも本人にはそれ以外ではなかった。とりわけ、本人にとって大切な関係のなかでまるで必要とはされていなかった。もし必要とされているとしてもそれは単なる物、道具、機械、部品としてしか扱われなかった、と本人は思っているようだ。要するに人間は単なる機械なのでやむを得ないのである。 これをドゥルーズ=ガタリの術語にならって「人間機械」と呼ぼう。
以上のような次第なので自らの生誕日を〇〇はあえて公表してこなかった。自ら祝ういわれもなかった。
だが、時代とともに認識は変わった。
存在は存在として他の関係性とは一旦無関係に、そしてそのなかに、屹立する価値がある。
それはあたかも星一つない暗夜に、山上にひとり高く聳え立つ白い城の如きものだ。
そのような次第で、あえて言おう。〇〇、誕生日おめでとう。これからも宜しく。
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