戦争の記憶 内乱の予感《0》
はしがき
清水幾太郎の思い出に
▲清水幾太郎
例のごとくではあるが、もともと本稿を思い付いたのは1993年のことで、ということは4半世紀前ということになる。
講談社のPR誌『本』にちょうど、そのころ刊行が始まっていた、清水幾太郎の全著作集の広告が毎号掲載されていた*。そこに、わたしの記憶違いでなければ書評家の故《狐》(山村修)の卓抜なる論評が掲載されていて、それは一書評の域を大きく越えていて、瞠目する文体、内容であった。そこで清水幾太郎というのはどれだけ凄い思想家なのだと、にわかに興味を持ったのが始まりで何冊かをまとめて読んだはずである。
*『清水幾太郎著作集』1992年~93年・講談社。
そのなかの一冊に岩波全書版の『社會心理學』があった*。初版は1951年のことで、無論、先の大戦が終結してわずか6年という時期であった。
*清水幾太郎『社会心理学』1951年10月15日・岩波全書。
戦争の記憶が血糊のようにべっとりと張り付き、革命への期待感が全編に漂っていた。清水の所論は今でも充分通用すると思うが、そのとき強くわたしの記憶に残ったのが、社会学的な知見よりも、この先鋭的な論著が持つ或る漠然とした雰囲気、あるいはモチーフだった。
それが、この表題「戦争の記憶 内乱の予感」である。
したがって当初、本稿は清水幾太郎論として企図され、おおよその構成もできていたのだが、まー、あっという間に時が過ぎ去り、今に至った訳である。
今般、カタルーニャの独立運動にかかわる諸問題が生じ、この題号がその主題を明確に照らし出しているのではと思い、政治思想、あるいはそれに関わる具体的な事象についての論考の枠として使用することにしたわけである。
したがって、このような経緯を経た訳であるが、清水論については現段階ではなんとも言いようがない。
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20171107 19:05ー20:49
934字(400字詰め2枚)
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