Ⅱ
苦の倫理学 そのⅡ
苦の倫理学の意味について
何をどうしても辛さが拭えない。起きあがることさえままならない。
一つの疑いは自身が発達障害か何かの、何らかの内因性の病に囚われているのではないか、ということだ。病気だから仕方がないよね、というわけだ。しかしながら、なんとなくこれは逃げではないか、と思うのが日本人的な洗脳教育を受けているせいであろう。だから、決して好きでもなく、われながら向いていないなあ、と思うような仕事を30数年続けている。客観的にいうと気違いである。それは辛くもなるわな、と思うのだが、もちろん収入の確保の問題があるので簡単には辞められないということはあるが、それにしても、どういうわけか頑張れてしまうところに重大な問題があるようだ。
では、どうすればよいか。いまさらではあるが転職するのが最もよい選択肢と思われるが、無論、年齢的に別の仕事などは存在しない。そして、最大の問題は自分が本当にしたいことが何なのかが結局のところ分からない。仮に分かったとしてもそれが収入の糧になるとは考えられない。
例えば、この文章。苦しさに紛れて書いているが当然一銭の金にもならない。
と、このように考えてくると、これは思春期の悩みなのではないのか。わたしは思春期にいるのではないのか、とか思ってしまうのだが、そう考えたところで、これについては何らかの結論にたどり着ける様子はない。
この苦しさと同伴し続けるのか、あるいは何らかの手段をもって逃亡するのか、他に手段はないのだろうか。
さて、とりとめもない話になってしまうが、前回(そのⅠ)「苦の倫理学」という表題に意味がないかも知れぬ、と書いておいたが、必ずしもそうでもないと思い返した。
前作、といっても完結したわけではないが、「悪の倫理学」というのは、「悪」とされている行為や「悪」をなしてしまうその人自身にむしろ「善」への萌芽を読み取ろうとするものだ。
しかしながら、「苦の倫理学」はむしろ逆で 、苦しみとか苦労などを通じて、そのひとは成長できる、したがって苦しみや苦労は善いことだ、と日本人なら思うかも知れない、しかし、そんなことはないのではないか、苦労しても報われることなくその生を終える人々も多いのではないか? その意味では「苦」は「悪」ではないのか、という意味に解することが可能だ。とすれば苦を倫理学的に考察することも決して無駄ではあるまい*。
*その場合、悪と苦がいかなる関係にあるのかという点も考えねばならぬ。
本当はこれに続き宮澤賢治の「地獄行きのマラソン競争」のことと、太宰治の『人間失格』について触れる予定だったが、疲れたのでまたの機会に。
とは言うものの、悪の問題と比べると、果たして論究に値するのかいまだに疑問ではある。
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