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2017年1月19日木曜日

難解さの由来     柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』

難解さの由来                          

  柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』 


                      ★ 1993年9月3日読了
・1993年・筑摩書房。評論集。
 柄谷行人は難解だと言われる。ひとつには哲学用語の頻出が我々の理解を阻む。だがそれは決定的な理由ではない。むしろ彼自身の意識としてはそのような通来の用語つまり概念でくくってしまうことに対する批判が強固に存在する。例えば日本においては《日本に輸入されたどんな思想も、それが現実と無関係にまず規範とされ、それに対応すべく現実が解釈されたり発見されたりする》として批判的に述べている(本書・266頁)。
 逆に言えば、柄谷の方法はここにある。それまで通念とは反するような取り上げ方をするのだ。本書で言えば、デカルトしかり、仁斎しかり、柳田しかり、すべてそうだ。だが、そうであるならば、むしろ理解し易いはずだ。実はそう簡単ではない。
 柄谷は中野重治に触れて、彼が大きな対立に隠蔽されてしまう微細な差異にこだわりをもっていたこと、そのことは中野の思想の問題にまで及ぶことを述べている。そしてそのことが中野を分かりにくくさせているとしている。
 対立はいつも差異を隠蔽する。そして対立しあうものは互いに似てくるのだ。それは権力と反権力のあり方が似てくるのと同じである。もっと本質的にいえば、対立は同一性によって形成されるのだ。差異はこの同一性をおびやかす。ところが、われわれは「差異」について語ることができない。差異について語ろうとすると、われわれは対立の言葉をもちいてしまうほかないのである。かくして、中野の考えは、「感じ」として、つまりある異和の「感じ」としてしか表明されない。ひとが中野の「気質」とみなすものは、この差異への感受性にほかならない。中野がこの経験のなかで獲得したのは、「何かを感じた場合、それをそのものとして解かずに他のもので押し流すことは決してしまい」ということである。(本書・168-169頁)
 
  これはまさに柄谷自身のことではないか。とすれば先に私は柄谷の方法は《通念とは反するような取り上げ方》という言い方をしたが、これは厳密ではない。むしろ通念すなわち概念にはならないもの、あるいは言葉でははっきりと言い切れない点を柄谷はすくいあげるのである。これが柄谷の難解さの最大の理由で、それは彼の出発点から一向に変わらないのだ。
                                          
 (初出:『鳥・web版』第12回更新・2001年12月10日)

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