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2017年1月19日木曜日

ある奇妙なねじれ
 
柄谷行人『畏怖する人間』


 
★★   1993年4月5日読了 
 ・1972年・冬樹社/1990年・講談社文芸文庫。評
論集。

批評と創造の試み
現代日本の文学と思想


 



 柄谷行人が彼自身の主題を獲得したのは恐らく「マクベス論」(1973年*)を通過することによってである。シェイクスピアの『マクベス』はもちろん悲劇として我々の記憶に残っているが、柄谷が暴き出したマクベス像とはそのような悲劇という意味によって世界と偽りの和解を結ぶ男ではなく、その逆に一切の意味を放擲した一人の男の裸像であった。マクベスがその時どのような地点に立っていたかは、柄谷、最初の評論集である『畏怖する人間』に後に付された自註(「著者から読者へ――ある気分=思想」/文芸文庫版)によって明快だ。柄谷はそこで最初にものを書き始めた《気分=思想》について語っている。それは《ある奇妙なねじれ》(本書・p.374)であったという。つまり《一方でまったく主観主義的で、他方でまったく客観主義的であるという、この両極があって、それをつなぐ道が存在しなかったのである。》(本書・p.374)と。そして、柄谷はその亀裂をどちらかの側に身を寄せることによって回収はしなかった。むしろその亀裂、《構造的亀裂》(本書・p.376)にこそ問題の所在があると考えたのである。批評家がそこでできることは《ただそれらの関係あるいは内的構造だけを書く。(……)それを徹底して行うことのほかに、今のところとるべき道はない。》(『意味という病』文芸文庫版・p.309)まさにこれはマクベスの言葉である。
 しかし、言うまでもなく問題はそこからである。ここから柄谷行人はどこに進んで行ったのであろうか? これは難問だ。
 *柄谷行人『意味という病』1975年・河出書房新社/1989年・講談社文芸文庫。
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